第43話:総司令達の帰国
6ヶ国を巻き込んだ大戦は、ケルディラからの和議という形で幕を降ろした。その条件としてケルディラはテレス川以東の領有権を放棄し実質的には敗戦である。
ケルディラの援軍でしかないデル・レイ軍は、和議が成立した以上留まる理由は無く既に帰国しているが、ランリエル勢は和議を正式な取り決めとするまでは軍を退く気は無く、ケルディラ軍も、ランリエル勢が退かない以上は万一の再侵攻に備えて退けなかった。
結局、コスティラ、ケルディラ両国の全権大使が誓紙を交わし、双方の軍勢が退いたのは、和議が決まってから1ヶ月近く後だった。
連合軍であるランリエル勢は、それぞれの祖国を目指した。その中でも最も早く帰国の途に着いたのはバルバール軍だった。残された軍の総司令はそれぞれの感想を述べた。
「名将で知られ、目的の為には手段を選らばぬと言われるディアス殿も人の子と言う訳ですかな」
コスティラ軍総司令ベヴゼンコは、皮肉にも聞こえる台詞をまったく邪気を感じさせぬ豪放な声で言い、笑い声を上げた。
「まあ、分からぬ訳でもありませんが」
そう応じたカルデイ帝国軍総司令ギリスの口調は、台詞とは相反し皮肉めいたものだ。
「そういうものなのか」
ランリエル軍総司令のサルヴァ王子は、言葉のまま、なにやら納得した表情だった。
だが、バルバール軍の退却について、総司令達の考えはまったくの濡れ衣だった。バルバール軍は、参加国中最も小国であり経済的にも厳しい。早々に帰国し軍勢を解散させ、少しでも経済的負担を減らそうとの考えだったのだ。
もっとも、そのバルバール軍から、ディアスとその近習のみが先行してバルバール王都チェルタを目指したのは、総司令達の考え通りだった。ディアスとその一行は、本来の行程の3分の2の日数で帰路を踏破する強行軍を見せ王都に到着すると、すぐさま国王ドイルに謁見し帰国と戦勝の口上を述べた。この時、ディアスの口調がかなり早口だったのは仕方が無い。
ドイル王から賜る言葉もいつも通り短いものだったが、それについても今までに無いほどディアスは感謝した。
謁見の間を足早に後にしたディアスは、まっすぐに自身の邸宅に向かった。甥で従者のケネスが声をかける暇も無く馬を走らせる。徒歩のケネスは、必死で走って追いかけねばならなかった。
「帰った!」
叫ぶように声をかけ門をくぐった。ケネスはかなり遅れている。召使達が口々にかける声に頷いて応じ、走るに近い早足で目的の部屋に突き進む。
「ミュエル。帰ったよ」
その部屋の扉を開け放ちながら言った。部屋は2人の寝室だった。もっとも、最近は夫が不在だったので、夫人1人の寝室だった。それが、夫人ともう1人の寝室となったのは1月半前からである。
「お帰りなさいディアス様。男の子です」
「聞いている。ミュエルよくやった。頑張ったな」
寝台≪ベッド≫の上で微笑む母となった妻に駆け寄り、寝台の縁に座った。ディアスはよくやったと言ったが、それは子供を無事に生んだ事についてであり、たとえ女児であっても同じ言葉をかけた。
ミュエルは、長い黒髪を纏め、少女らしい硬さを残していた身体もディアスの記憶にあるより丸みを帯びている。それでもまだ成熟したとは程遠い肢体は、とても一児の母には見えない。元々、年齢より幼く見えるミュエルである。彼女が我が子を抱いていても、歳の離れた弟をあやしているようにしか見えない。
妻の小さな手をとりしばらく見詰め合った後、横に置かれた乳児用の小さな寝台に目を向けた。ディアスはかなりどたばたと音を立てながらやってきたにもかかわらず、それでも目を覚まさず、すやすやと眠っている。
髪の色は薄いが、これはディアスに似ているというより、まだ生まれたばかりの所為だ。これから母に似て黒くなるのか、父に似てこのままなのかはまだ分からない。
「お医者様が仰るには、私の身体が小さく初産だった割には、軽いお産だったそうです。赤ちゃんも凄く元気です」
妻の言葉を聞きながら、ディアスは我が子の頬を指で軽く突付いたが、やはり、すやすやと眠っている。我が子ながら結構大物かも知れん。と、既に親馬鹿の片鱗を見せている。
「ゲイナー様が、名前はゲイルとするようにと仰ってました。御自分の名前から取ったそうです」
「分かった。それは聞かなかった事にしよう」
我が子の頬を突付きながら答える夫に、ミュエルはクスクスと笑った。
置いてきぼりを食らったケネスが、
「ディアス将軍。酷いですよ!」
と怒鳴り込み、さすがの大物の赤ん坊もその声に驚いて大泣きするのは、このすぐ後だった。
戦場から祖国が一番近いのは、無論ケルディラの隣国コスティラである。今回の戦の名目上、ケルディラから得た領地はコスティラの物になるはずであり、その領国化にコスティラ軍は残るべきなのだが、そこはあくまで名目だけの話だ。3千程度の軍勢を形だけ残し、後はランリエル軍に任せて帰途に付いた。
王都ケウルーに帰還した軍勢は、歓呼の嵐に迎えられた。長年にわたったバルバールとの戦いに負け続け、更にランリエルにも負けたコスティラ軍である。他国との戦いで、生まれて初めて自国の軍勢が勝ったと聞いた者も多いのだ。
「さすがはベヴゼンコ総司令だ。やはり勇猛なコスティラ兵を率いるのは、奴ぐらい豪放な男でないとな。今までの総司令は、どうも頭でっかちで気に食わなかったんだ」
「ああ。奴が総司令なら、ケルディラ全土すら夢ではないぞ」
民衆はベヴゼンコを褒め称えた。自国の総司令を、奴、呼ばわりするのもコスティラの国民性というもので、それだけ民衆がベヴゼンコに親しみを覚えている証だった。ベヴゼンコの人気は留まるところを知らない。
今まで、すぐに戦死しそうな総司令と言われ、軍の実働部隊の長にもかかわらず縁談の一つも無かったベヴゼンコだが、ここに来て縁談話が山と積まれたのである。
「まったく。嫁など貰う気は無いと、何度言えば分かるのだ」
自宅の居間で、酒精の強い蒸留酒を一気にあおった。身体の大きさに比べ余りにも小さい杯は一瞬で空になり、隣に座った女がすぐに代わりを注いだ。コスティラ女に一番多い赤毛を腰まで伸ばし、細身で手足の長いコスティラ女にしては大きな乳房を持っていた。歳はベヴゼンコより10と幾つかは若い。
「だから、私にしておきなさいよ」
「アリサ。わしは誰とも結婚する気など無い。わしのような戦い方をしていれば、長くは生きれん事など自分でも分かっている」
また、一気に飲み干した。この命の水とも呼ばれる蒸留酒は、大きな杯に注いでチビチビと飲まず、あえて小さな杯で一気に飲み干す。それがこの酒の飲み方なのだ。
「そういう台詞は、是非、手を出す前に言って欲しいものね」
アリサは、非難めいた目を向けながらも、ベヴゼンコの杯に代わりを注いだ。手を出したと口では言いながらも、身体を男に摺り寄せている。
「俺の寝台に潜り込んでいたお前が悪い」
悪びれず、命の水を一気に飲み干す。
「噂では、バルバールのフィン・ディアスは、結婚したくなくて少女嗜好と偽ったら、本当に少女の嫁が来たという。いっそわしも謀ってみようか。そのまま真似をするのも芸がないので、年上趣味というのはどうだ?」
ディアス自身は他言していないが、人の口に戸は立てられない。召使などが2人の馴れ初めとして悪意なく話し噂話として広まったのだ。無論、ディアスは肯定も否定もせず聞き流している。
「止めときなさいよ。おばあちゃんが家を取り囲むわよ」
ベヴゼンコは豪快に笑うと、アリサの腕を掴み引き寄せた。そのまま彼女の膝の後ろにも手を伸ばし軽がると抱き上げる。長い赤毛は振り乱されたが、大きいが張りのある乳房は揺れなかった。
「もう。やることだけは、しっかりやるんだから」
非難の台詞を吐きながらも、目は笑っている女を抱えながら、ベヴゼンコは寝室へと向かった。
戦場となったケルディラから一番遠いのは、無論、カルデイ帝国である。とはいえ、帰国したのはコスティラ軍についで3番目だった。厳密に言えば、ランリエル軍の一部よりは遅く、一部よりは早かった。ランリエル軍は軍勢の半数を先行して帰国させ、テレス川沿いの砦などを完成させてから他の軍も引き上げたのだ。当然、砦には兵士が詰めている。
軍勢を率い、カルデイ帝都が望める距離まで近づいたギリスの顔に複雑な感情が浮かんだ。何度見ても馴染まぬ光景である。ギリスが生まれてこの方見続けていた風景は、5年前にがらりと変わった。
サルヴァ王子にカルデイ帝国が攻略される以前は、帝都ダエンを高い城壁がぐるりと囲んでいたのだ。それが、今では全て取り壊され丸裸である。
軍勢の大半は兵舎に入りきらず野営し、その後、各駐屯地に向けて改めて出発するのだ。もっとも、その手配は総司令の仕事ではなく他の者に任せ、ギリスは軍務省に向かい帰還の報告を行った。少なくとも5年前まではバルバールなどより遥かに大国だったカルデイである。組織も整えられ、援軍の帰途の報告に一々皇帝に拝謁などしない。
「ご苦労だったな」
ギリスが部屋に入ると、軍務大臣のアルテバンが労いの言葉をかけた。頭髪が全て白くなっているが、まだ60手前であり老人と呼ぶには気が早い。むしろこの年齢にしては肌に張りがあり、白い頭髪は鬘なのではと疑う者も居るほどだ。
彼自身は軍勢を率い戦った経験は無いが、それは彼に限った事ではなくカルデイの軍務大臣は代々そうだった。カルデイには5大家と呼ばれる大貴族が居り、それが宰相、大臣の位を独占していた。
大局を見れば、有能な人材の輩出を妨げるものとして好ましくはないが、ギリスにとっては都合が良かった。軍事など何も分からぬこの軍務大臣は、全てギリスに任せると裏方に徹しているのだ。
もっとも、その5大家体制もサルヴァ王子の政策により、今ではその内3家が独立国家となっていた。残り2家では大臣を独占しきれず、カルデイの淀んだ政治体制に新しき流れを作りつつあるのは皮肉である。
「ある程度の戦働きは出来たと思います。ランリエルに雇われる者も増えるでしょう」
ギリスが言ったのは、軍縮により職を失った者をランリエルの外人部隊として雇って貰う計画についてだ。デル・レイ軍との戦いはランリエル軍が矢面に立った為、カルデイ帝国軍は激戦を経験しなかったが、ランリエル軍所属のカルデイ外人部隊は激しく戦ったのだ。
戦いの前にギリスは、カルデイ外人部隊隊長のレジェスと話をする機会を作っていた。
「その方達の戦いが、今だ国に残る者達の未来を左右するのだ」
ギリスの言葉にレジェスは奮戦し、カルデイ外人部隊は輝かしい武勲を挙げたのである。
その意味において、カルデイ帝国は政治的にも勝利を収めたと言っても良い。巷に溢れる元軍人達が雇われれば、彼らによる犯罪も減り治安も良くなるはずだ。
「それは良いのだが、余り芳しくない話も入っている」
「芳しくない話、ですか?」
「例のデル・レイ王の評判が、我が国にまで届いている。稀代の名君だとか、賢王だとかいう評判だ。それ自体は、まあ良いのだが、かの王に仕えるのだとデル・レイを目指す者が出始めているのだ」
「ほう。それはまた面倒な話ですな」
「今のところ妻子無く、親とも死別しているようなしがらみのない者達ばかりで数は多くないが、今後はどうか分からん」
アルテバンの言葉にギリスが頷いた。そうなればカルデイ人同士で戦う事にもなりかねず避けたい状況だ。
その後、2、3の報告を受け合い、ギリスは軍務省を後にした。総司令府に寄り残務の処理を指示すると邸宅へと向かう。
そこには妻のルシアと4歳になる娘のリアナがギリスの帰りを待ち侘びていた。
「お父様。お帰りなさいませ」
娘は、薄い栗色の髪と濃い栗色の瞳を持つ母の傍から父の元へと駆け寄って抱きつき、父は娘を軽々と抱き上げた。娘の髪色は父の影響を受けたのか、母よりも濃い茶色だった。顔の作りは母に似て将来の美貌を期待させ、ギリスに自分に似なくて運が良いと言わせたが、妻は父にそっくりだと思っている。
4歳にしてはよく喋り、利発さに表情が引き締まっている。その娘が、自分には無邪気に甘えてくるのをギリスは父として純粋に喜んでいた。
「あなた。ご無事で何よりでした」
微笑む妻に、ギリスも微笑み返し頷いた。
「何、今回は戦力で上回っていた。勝つのは分かっていた事だ」
それは妻を安心させる為の言葉だ。多くの場合において戦いは数が多い方が勝つ。それは純然たる事実だが、神が定めた唯一の法則ではないのだ。ギリスとて半数の兵力で、サルヴァ王子に勝利を収めかけた事がある。
正しい事を伝えるのが正しい訳ではない。相手を傷付ける。或いは、不安にさせる真実をわざわざ伝えるなど、自分が嘘を付きたくないという自己中心的な考えに過ぎない。
ギリスの言葉に妻も微笑を深くした。ルシアも聡明な女性だ。ギリスがある意味嘘を付いているのは察している。その嘘に、ルシアはあえて騙された。夫が、自分を安心させる為に嘘を付く誠意を見せるならば、その嘘に騙されておくのが自分に出来る誠意だった。
「さあ、リアナ。晩餐の用意を手伝って頂戴。お仕事をして帰ってきたお父様に、美味しい物を食べて頂くのよ」
母として娘にお手伝いを要求したが、常には聞き分けの良い娘は応じなかった。
「駄目。もっとお父様に遊んでいただくの」
そう言って、細く年齢の割りに長い腕を父の首に巻きつけ抵抗する。利発な娘が、妻の言いつけを聞かずに自分には甘えてくる事にギリスは罪の無い優越感を感じたが、父として娘の我が侭を許す事も出来ない。
「リアナ。母の言うとおりにしなさい」
そう言って抱き上げていた娘を床に降ろすと、娘は父の首に巻きつけた腕を中々放さないという抵抗を見せたものの、最後にはやむなく諦めすごすごと母の後を追った。
「どうしていつもは聞き分けが良いのに、お父様の前では我が侭を言うの? お父様も母の言う事を聞きなさいと仰っていたでしょ?」
躾は大事だと、追いかけてきた娘にルシアは腰に手を当て、いいですね。と言い聞かせた。しかし肝心の娘は悪びれた様子も無く母に微笑む。
「だって、そうするとお父様が喜ぶんだもの」
娘の返答にルシアは目を丸くした。冷静沈着で洞察力に優れるカルデイ帝国軍総司令も、娘の優しい嘘は見破れなかった。
「あなたは、本当にお父様によく似ているわ」
ルシアは、そう言ってクスリと笑った。
一番最後に、サルヴァ王子が率いるランリエル軍も王都フォルキアに帰還した。諸事の指示を出した後、とある部屋に足を向ける。
「帰った」
「お帰りなさいませ殿下」
サルヴァ王子とアリシアは、次にかける言葉を見つけず、しばらく見詰め合っていた。