第8話:黒髪の少女(2)
翌日、再度現れたゲイナーにお父様とお母様が縁談を承諾する旨を伝えると、瞬く間に準備は進められた。ミュエルは連れ去られるようにディアス邸へと連れて行かれた。
ハッシュ家を出る時、お父様、お母様だけではなくすべての使用人にも見送られ、用意された馬車で生まれ育った生家を後にしたのだ。
ミュエルは、自分の夫となるディアス様という男性をあまり知らなかった。
このバルバール王国の軍隊で2番目に偉く、しかも実際に戦場で戦う軍人さんの中では一番偉いのだと言う。そしてなんとお父様よりも一つ年上だと言うのだ。
素直で物怖じしないミュエルだったが、さすがに怖い人だったらどうしようかと不安を胸にディアス邸にたどり着いた。だが、なんと当のディアスは仕事に出ており数日不在だと言う。
ゲイナーはミュエルを馬車の中に待たせてディアス邸に入り、しばらくするとミュエルを差し招いた。そして玄関の扉をくぐると挨拶をするように言った。
「ミュエル・ハッシュと申します。ディアス様の元に嫁ぎに参りました」
ミュエルが挨拶をすると、ディアス家の人々は事態がよく飲み込めて居ない様で、ぎこちなく頷くばかりだ。
ゲイナーは呆然として物の役に立たなくなっているディアス家の人々を尻目に次々と話を進める。ディアス邸の現当主は甥であるが、彼にとっても勝手知ったる生家なのだ。ミュエルを引きつれ邸宅内をどんどんと進みディアスの寝室へと案内した。
「ここがお前の夫の寝室だが、まあ今後はお前の寝室でもある」
ゲイナーは使用人に言いつけミュエルが持参した荷物をすべてここに運ばせ、そしてもう用は済んだとディアス邸を後にしたのだった。
行き成り知らない家にぽつんと取り残され不安に泣きそうになったミュエルだったが、ここで泣いてはお父様とお母様を困らせる。と、あえて気丈に振舞った。
自分はディアス様の妻になるのだから、それらしく振舞わなくてならない。ディアス邸の近くの住民やディアスが不在中にディアス邸を訪れた人々にも、
「ディアス様の妻になるミュエルと申します」
と挨拶を行った。妻たるもの挨拶くらい出来なくては夫に恥をかかせるのだ。
そしてそうこうする内に、その夫がやっと帰ってくると言う。
遂にこの時が来た! ミュエルの小さな胸は、不安と緊張にどきどきと高鳴った。
本来妻ならば玄関まで出て夫の帰りを出迎えるべきなのだろうが、夫の従弟のケネスという青年がとりあえず部屋で待っているように言うので素直に待っていた。
しばらくするとディアス邸では今まで見た事がない男性が部屋に飛び込んできた。という事はこの人が自分の夫なのだ。軍で一番偉いというからとても怖そうな人を想像していたが、ちっとも怖そうではない。
ミュエルは嬉しくなって微笑みながら夫に挨拶を行った。
「妻になるミュエルと申します。これからよろしくお願いいたします」
だがこの妻の挨拶に夫であるディアスはしばらく呆然とし、ミュエルが不審に思って首を傾げた頃やっと口を開いた。
「……あ。ああ。よろしく」
その様子がおかしくてミュエルはつい形の良い唇に手をやりクスクスと笑ったが、直ぐに夫を笑うなんてと思い直し、勤めて表情を引き締めた。
ミュエルの夫は挨拶をした後も、しばらく口を開きかけそして噤むという事を繰り返していたが、やっとの事で言葉を発した。
「本当に12歳なのか? 童顔で12歳に見えるけど、実は18歳じゃないのかい?」
おかしな事を言うものだ。どうして自分を18歳などと言うのだろう? ミュエルは細い首をかしげ、美しい顔を傾けた。
「いえ。私は12歳ですよ?」
「そうか……。いや、良いんだ。すまない」
夫はため息を付いてミュエルに少し待っているように言うと、部屋を後にした。
どうしたのだろう? ミュエルの小さな胸は不安に押しつぶされそうになった。お父様とお母様と離れるのは嫌だったのに。その思いを押し殺してやってきたのに。にも関わらず夫となる人はちっとも嬉しそうに見えないのだ。
しばらくすると夫が帰ってきた。
「私は別の部屋で寝るから、お前はここで寝なさい」
「別の部屋……ですか?」
ミュエルは、そう言いながら探るような目でディアスの顔を下から覗き込むんだ。やっぱり、自分は要らないのと思われているのだろうか? ミュエルの胸にさらに不安が広がる。
ミュエルの言葉に、改めてその顔を見直した夫は、少女の目に不安の色を見て取ったのか、慌てて弁解した。
「……ああ。夫婦になるといってもまだ正式に結婚をした訳では無いのだからね。それまでは別の部屋で寝るんだ」
……よかった。自分が嫌われているからではないのだ。ミュエルは安心し微笑んで頷き夫も頷いた。
そして結婚する日を少女は待ち続けたが一向にその日はやってこず、ある日夫の従弟のケネスと言う青年に呼び付けられた。夫が呼んでいるのだと言う。
青年の後に続きながら、自分が夫と正式に結婚すればこの年上の青年は自分にとっても従弟になるのだろうか? と不思議な思いにかられた。
夫の元へ案内され年上の従弟と共に椅子に座ると、夫は自分を呼び寄せた用件を話し始めた。
夫が言うには、12歳ではさすがに結婚には早いと言う。確かにその通りだと自分も思うけど、ではどうしてお父様とお母様の元を離れなければならなかったのだろう? ミュエルには不思議でならない。だがその疑問は、問う前に夫が解き明かした。
自分には結婚する前に学ばなくてはならない事があるので、従弟から色々と教えて貰わなくてはならないらしい。きっとその勉強をしなければならないので、この家に来る事になったのだろう。
そしてミュエルの部屋はディアスの寝室から、勉強するのに便利だからと従弟の部屋の隣に改めて割り当てられた。こうしてミュエルと年上の従弟との勉強の日々が始まった。
従弟は優しく丁寧に勉強を教えてくれ、そして時折夫の話もしてくれた。
夫は国一番の軍人にもかかわらずちっとも怖くは無く、従弟にも優しくしてくれると言う。だが、夫には問題があるとも聞いた。時々ほらを吹くらしい。
ミュエルは夫の話を聞くのが嬉しく、従弟に何度もねだった。ミュエルが従弟の服の袖を引っ張りねだると、従弟は顔を真っ赤にしながらも色々と話してくれる。
どうして従弟はいつも顔を赤くしているのだろう? ミュエルには不思議でならない。具合でも悪いのだろうか? もしそうなら大変である。
「ケネス様。御風邪でも引いているのですか?」
「あ。いや。直ぐ顔が赤くなる体質なんだ」
従弟はさらに顔を赤くしながらそう答え、素直なミュエルは、そうなんだ。と素直に納得したのだった。
そして日が暮れ、夫が帰ってくると夫を出迎える。
「ディアス様、お帰りなさいませ」
ミュエルが笑顔で出迎えると、夫も笑顔で答える。
「今日もちゃんと勉強したかい? ケネスとは仲良くやってるんだろうね?」
「はい。ちゃんと勉強いたしました。 ケネス様とも仲良しです」
ミュエルは微笑みながら答える。妻たる者、夫の親類とは上手く付き合わなくてはならないのだ。勿論いやいや付き合っているわけではなく、従弟は優しい青年なので、例え夫の従弟でなくとも仲良くなれただろう。
夫はミュエルの頭を撫で、家の奥へと進んだ。ミュエルはその後に続く。そしてその後、夫と従弟、そしてミュエルとの三人で夕食を行い、その後は別々の部屋で寝るのだ。
でもミュエルは夜、部屋で一人になると泣いてしまう事がある。まだ12歳の少女が行き成り他人の家に一人でやってきて、不安や寂しさを感じずにいられる訳が無いのだ。だが家の人達にそれを言う訳にはいかない。
この家の妻になる自分がそんな事を言っては、妻が勤まる訳が無い。そうすればお父様とお母様もお困りになるだろう。
素直で優しい少女は、この夜もその小さい身体ではもてあます大きな寝具に身を沈め、一人眠りに付いたのだった。