第39話:テレス川の戦い(1)
サントモーリエの戦いを終えたアルベルドは、オレンブルク城にて戦いの疲れを癒していた。自室とした賓客用の部屋は、城主が自らより高位の者を持て成す為の物だ。国王を招く事すら想定し、城主の私室より遥かに贅を尽くしている。
最高級のドゥムヤータ胡桃の美木で作られた家具、上等な革を張った長椅子、名のある画家、陶芸家などの作品で埋め尽くされている。もっともアルベルドにそれらを眺め楽しむ余裕は無く、長椅子に甲冑を外しただけの姿で横たえていた。
その疲れ果てた姿に従者達は心を痛めた。主人を起こさぬようにと額を寄せ合い囁きあっている。
「いつも身を正し隙の無い陛下が、あのようなお姿をお見せになるとは……」
「それほど激しい戦いだったのだ。何せ3倍の軍勢を退かせたのだからな」
「陛下は我らの誇りだ。我らも心から御仕えいたそう」
従者達は改めて誓った。彼らの主人はまさに絵物語の英雄が如き者であり、それに仕える自分達の幸せに心を満たした。
無論、激戦を潜り抜けたのはアルベルドばかりではなく、将兵達の疲労、戦傷も激しく手足を失って不具となった者も多い。だが、彼らが戴く正義、いや、正義を具現化したかのようなアルベルド王に従うデル・レイ将兵の士気は、いささかも衰えない。
「なに、右腕は無くとも、左手で戦ってみせる」
ある騎士は豪快に笑い。
「足が無くとも槍を杖に戦場に向かい、弓で敵を射抜いてくれる!」
ある兵士は言い放った。彼らの表情に蔭りは無い。悔いは無いと、むしろ傷を負ったのを誇りとした。
それら兵士達のうち、傷の深い者は部屋を与えられ身体を休め、傷の浅い者は野外にて地面に身を寝かせた。オレンブルク城の規模は大きいが、数万の軍勢が寝起き出来る部屋は無いのだ。
窓から差し込む日の光に目を覚ましたアルベルドは、自分を起こした太陽に一瞬非難の視線を向けた後、窓に足を向けた。昼を過ぎた日差しが暖かくその身を包む。多くの被害を出した敗戦にもかかわらず、士気衰えぬ将兵。彼らを見下ろす。
デル・レイ軍において、アルベルドのみがサントモーリエの戦いが自分の勝利であると知っていた。いや、この大陸においてだ。全世界、全人類の中で唯一アルベルドのみが自分が勝者であると知っているのだ。そしてランリエルの王子は――
「とんだ道化だ」
くく、と笑い呟いた。日の光が、自身の影のみを落とす部屋で誰にはばかる事の無いアルベルドは、聖王の仮面を脱ぎ捨て皮肉な笑みを浮かべた。その表情に、将兵の前で演説を行った清廉さは微塵も無い。単純な奴らよと、彼に従い生涯不具となった者達を見る目は冷たい。賢王に従い名誉の負傷と信じ生きれば奴らはそれで幸せなのだ。まあ、騙した者の責任として、精々最後まで騙してやる。
サントモーリエの戦いは、ほぼアルベルドの筋書き通りだった。要所要所で、劇団員、とも言うべきアルベルドが特別に用意した者達が動いた。
アルベルドが先頭に立って突撃せんとすれば、そのアルベルドを追い抜き先陣を奪った勇者。
限界に近づきこのまま戦い続ければ軍勢が崩壊すると思われた時、アルベルドを諌めた老騎士。
ケルディラ軍首脳部に作戦を伝えた伝令の騎士すら、その劇団員だったのだ。
アルベルドは彼らを使い軍勢を操った。それによって、実際には軍勢の先頭に立たずに、先頭に立って突撃せんとした勇敢な王の名声を得、最後まで退かんとした不屈の王の名を保ったまま軍勢を退いた。ケルディラ軍部でもアルベルドを慕う者は日々増えている。
すべて計算通りだ。いや、予定通りの結末に向かっているのだ。アルベルドの策は、途中どのような経路を辿ろうとも、最終的には一つの結末に辿りつく。そのような策だ。
もっともそれには条件がある。それは、ランリエルの王子がある程度有能である。という事だ。あまりにも無能では、こちらが上手く誘導してやらねばならない。
面倒な事はさせてくれるなよ。今度は、口に出さず呟いた。まあ、あれでも東方の覇者と呼ばれる者だ。こちらの笛の音に、間違いなく踊るくらいの技量はあるだろう。もし踊りそこなうならば、もっと簡単な楽譜を用意してやらねばならない。幼児にでも踊れる簡単な曲を。
窓から離れ、水差しから杯に水を汲み一気に飲み干した。一息つき、小さく舌打ちする。
生物として、疲れ果てた時こそ子孫を残そうとの本能が働く。その欲求に一瞬王妃を呼び寄せようと考え、ここには居ない事に気付いたのだ。
居なくても良い時には居るくせに、どうして居て欲しい時には居ないのか。役に立たぬ王妃にアルベルドの理不尽な怒りが込み上がる。あの茶色い髪、瞳を見る度に無性にいらつくのだ。
ふと、ある事に気付いた。部屋に大きな舌打ちが響く。アルベルドの顔に屈辱にも似たものが浮かんでいた。
その日、ランリエル軍本陣にて、サルヴァ王子の精神は不機嫌のただ中にあった。
戦場で使用する為の作りは簡素な、だが素材は王族が使うに相応しい最高級の机と椅子に腰掛けていた。腕を組みその目元は険しい。
ケルディラ北東部に陣を置き軍勢の再編を進めていた。負傷者の手当をし戦闘に耐えられぬ重傷者を本国に送り返す。そうして人員が足りなくなった部隊、士官を失った部隊を合流させる。
出来る限り死者の埋葬もした。敵味方を含めてだ。それは道徳的なもの以上に死体を放置すればそこから疫病が発生する為という散文的な意味合いが強い。埋葬は勝者が行うのが不文律となっていた。無論、作戦上放置しなくてはならない時もある。
もっとも過去には律儀な将軍が居て、死体の始末を完全にやり終えてから次なる戦場に急行したところ戦いが終わっていたという話まである。幸いにも味方が勝利した為、戦勝の宴会時の笑い話で済みお咎めは無かった。
サルヴァ王子は、先日行われたサントモーリエの戦いの各種報告をそれぞれ担当の士官から受けた。どの隊にどの程度の被害があったか。士官や名だたる勇者の死傷者の名簿。討ち取った敵の士官や勇者。それら事務的な情報の他にも、風評、評判といった情報もある。そしてそれが王子の’癇’に障る。
デル・レイ軍の奮戦に思わぬ被害を受けたが、それは敵のなりふり構わぬ無謀な攻勢によるもの。受けた以上の被害を敵に与え、十分お釣りが来る計算だ。デル・レイ軍は割の合わない戦いをしたのだ。
サントモーリエの戦いを数値で評価すれば、カルデイ帝国軍を含めたランリエル勢の大勝利。それ以外にない。にもかかわらず、巷では、デル・レイ王国のアルベルド王が真紅の槍を振りかざし奮戦、3倍の敵を5000サイト(約4.3キロ)後退させた。と、まるでデル・レイ王国軍が勝利したかのように宣伝されている。
サルヴァ王子は、戦意の高い敵の攻撃をまともに受け止めれば被害が増えるだけと、乱戦になったら無理をせず次の部隊と後退させ、全軍を後ろに下げながら戦ったに過ぎない。作戦通りに動き、敵を消耗させて勝利した。それだけのはずなのだ。
「そもそもデル・レイ軍との戦力比は、3倍ではなかろう。! それに本陣は1000サイト(約850メートル)しか下げてないぞ」
ウィルケスに不満の言葉を向けた。悪い噂の絶えぬウィルケスを副官にするなどサルヴァ王子の器は大きいのだが、その形は真円ではなかった。部分的に凹んでいる箇所があり、そこに限っては狭量となる。
アリシアが聞けば、そんな細かい事など気にしなくても、と肩を竦めそうだが、王子の生真面目が情報の不正確を許せない。
「本陣が下がった距離じゃなくて、初めにぶつかった場所からって話らしいですよ」
「それでも、精々3500サイト(約3キロ)だ!」
「まあ、この手の話には誇張が付きものですし、仕方がありませんよ」
王子とは逆に、器のこの部分に関しては大きく外側に広がっているらしいウィルケスは王子に同調しなかった。自身の風評に悩まされた過去に、外聞など気にしない事にしているのだ。もっとも彼の素行を考えれば、それは生まれつきなのではとも思われる。
王子がウィルケスに不満があるとすれば、その能力よりも価値観に大きな隔たりがある事だ。それが良い刺激となり王子の知的活動を活発化させる事も多いが、今回のように共感して欲しい時には噛み合わず消化不良となる。
その点、前副官であるルキノは価値観が近かった。この手の話をしたいならルキノを呼び付け話し相手としたいところだが、今回彼は後方に置いてあった。裏切ったコスティラ西域領主達の城、館を抑える軍勢の責任者に任命したのだ。ルキノは戦場に出れぬのが不満だったが王子が宥めた。
「戦場で手柄を立てる機会はないが、その代わりに万を超える軍勢を指揮下に置く。戦場で連隊長のお前に万の軍勢を任せれるとなれば他の者達も反対するが、後方待機の任務なら文句も言うまい。だが、ここでその実績を作れば、次の戦場で多くの軍勢を任せても反対は少ない」
次期国王たる第一王子にして軍総司令でもあるサルヴァ王子だ。ルキノに万の軍勢を任せ戦場に出すと強い口調で言い切れば、諸将も不満を抱えつつも押し黙る。だがその代償に、寵臣を実績もなしに高い地位につけたとの謗りを受ける。段階というものが必要なのだ。
無論、ルキノの能力が万の軍勢を率いるに足ると見込んでだ。寵臣に能力不相応の出世をさせたい訳ではない。
こうして後方は信頼する元副官に任せ、ケルディラ軍の抑えには知将ディアスと猛将ベヴゼンコ、両総司令を置いてある。万全の体勢を持ってランリエル本隊とカルデイ帝国軍はケルディラをさらに北に進んだ。
サントモーリエの戦いで大きな被害を出したデル・レイ軍はオレンブルク城まで退却し、そこで軍勢を立て直している。深手を負い戦闘に耐えられぬ者も多く、再編された軍勢は2万と半減した。とはいえランリエル勢も5千を超える被害を出している。
城に篭る2万を8万で攻める。本来そう無理な話ではないが、サントモーリエの戦いで見せたデル・レイ軍の異常なまでの士気の高さをサルヴァ王子は警戒した。
「力攻めの攻城戦は消耗戦だ。だが、奴らは最後の一兵まで戦いかねん。それでは我が方の被害も大き過ぎる。とはいえ、城を取り囲み敵の兵糧が切れるまで待つ気も無い」
オレンブルク城はあえて攻めず、他の城や砦への攻勢を強めた。幹を残して枝葉を刈り取る作戦だ。直接、幹を切り倒す即効性は無いが、枝葉無き幹はやがて朽ち果てる。
オレンブルク城の抑えにはムウリ将軍に4万5千をつけた。派手さは無いが手堅さならば王子に勝るとも称される名将である。オレンブルク城を取り囲まず、2000サイト(約1.7キロ)の距離に陣を敷く。4万5千で2万が篭る城を包囲しては層が薄くなり、デル・レイ軍の突進に耐えられない可能性がある。
城や砦の攻略は、コスティラとの国境付近からテレス川方面へと圧力をかけて行く。デル・レイ軍を全滅させるなら、逆にテレス川方面から攻め退路を断つべきだが、それではデル・レイ軍が窮鼠と化す。ただでさえ異常な士気の高さを見せるデル・レイ軍だ。必要以上に追い詰める事は無い。戦いとは目的を達成すれば勝利であり、それはケルディラの攻略である。そしてそれ以上に、サルヴァ王子には、デル・レイ軍を全滅させられない訳があるのだ。
ケルディラ北東部の戦いはデル・レイ軍が善戦しているものの、全体としてはランリエル勢が優勢。そのような情勢の中、ついにケルディラ軍が動く。それを迎え撃つは、バルバール王国軍を率いる総司令フィン・ディアスである。だが、ディアスには、この渡河作戦は意外だった。
テレス川下流は、流れが穏やかな為徒歩にて渡河は可能だが、それでも膝上辺りの深さはある。甲冑を身に着けての動きは鈍い。それゆえランリエル勢20万の攻撃を、ケルディラ軍6万で支える事が出来たのだ。そして北東部に14万が向かったとはいえ、こちらにはまだ6万が残っている。同数の敵が待ち構えているところへの渡河作戦はあまりにも無謀であった。
「さて。何を勝算としての行動なのかな?」
敵勢が、続々と川を進み迫り来る中、場違いな程落ち着き払い右後ろに居るケネスに問いかけた。身に着ける甲冑は相変わらず極一般的な物で、華麗さ、勇猛さの欠片も無い。徒歩のまま軍勢に紛れれば、精々歩兵の割にはまともな甲冑を纏った一般兵。その程度にしか見えない。
問いかけられたケネスは、従者らしく急所や間接部分など必要最低限の部位のみ固めた軽装である。
「もしかして、僕達の後ろに居るコスティラ軍は、戦闘に参加しないと気付いているんでしょうか? 僕達だけだったら、2万対6万ですし」
「コスティラ軍だって、まったく戦いに参加しない訳じゃないさ。さすがに参戦しなければ負ける状況になれば彼らだって動く」
もっとも、その時にバルバール軍が残っているかが問題だ。バルバールと彼らとの遺恨を考えれば、バルバール軍が敗れてからコスティラ軍が何食わぬ顔で動き出す事も十分あり得た。
「敵がそろそろ矢の射程内に入ります。ディアス総司令御指示を」
ディアスとケネスの親密さに遠慮してか、普段余り口を聞かず影の薄い副官トルスティが指示を仰いだ。さすがに戦場では遠慮などと言ってはいられない。ディアスと同じくバルバール人に多い茶色い髪と瞳を持つが、身長、体格は一回り大きい。もっともそれはディアスが軍人として小柄なだけで、彼の体格が特別優れている訳ではない。
「全軍後退。敵の渡河を妨げるな」
「渡らせるですと!?」
信じられぬ指示に副官の目が驚愕に見開いた。彼はディアスから後方の警戒を厳重にするようにと指示を受けていた。後ろに陣を敷いているのはコスティラ軍であるにもかかわらずだ。
ディアス総司令はコスティラ軍を信用してはいない。ならばバルバール軍のみで戦わなくてはならぬはず。だが、敵の渡河を許しては2万対6万だ。そしてケルディラ人は勇猛でなるコスティラ人と同人種である。まともに戦えば同数ですら苦戦は必至なのだ。
副官が、呆然と立ち尽くしているのにディアスは苦笑を浮かべた。
「後退だよ。トルスティ」
「あ。は、はい!」
上官の声に我に返った副官は急いで伝令を出し、各隊も戸惑いながらも後退する。総司令の考えは分からないが、頭に浮かんだ疑問符の数よりも総司令への信頼が勝った。
ランリエルとの戦いで降伏したディアスに貴族や市民の中には批判を述べる者も多いが、所詮戦いというものを知らず、大国を相手にするのがどれほど困難かを考えもしない無責任な者達なのだ。反対勢力が無いでもないが軍部でのディアスへの信頼はいまだ篤い。
後退したバルバール軍は、後ろに控えるコスティラ軍の前方1000サイト(約850メートル)の位置に再度陣を敷いた。ケルディラ軍は続々と川を渡り、既に対岸に到達している者もいる。水に濡れた甲冑の後の手入れを考え顔をしかめながらも、後続の到着を待ち隊列を整えつつある。
「よし。今だ!」
渡河した者が1万程にもなろうとした時、ディアスが叫んだ。
「盾を並べ槍衾を作れ。その後ろから矢で仕留めるんだ。ケルディラ人は勇猛だ。乱戦にするな」
敵が川を渡るならば、その半ばを討つべし。兵法にもある言葉だ。ディアスはただ防ぐのではなく、ケルディラ軍に打撃を与えようと考えていた。
退路を断たれたケルディラ軍1万は、下がろうにも背後は川が阻み、味方の軍勢が進んでくるもその集まりは遅く救援とはなり難い。2倍のバルバール軍に攻められ混乱の極みに陥るはずだ。
だが、バルバール軍が降らせる矢の雨をケルディラ兵はものともしなかった。数で劣っているにもかかわらず、バルバール軍へ突撃を開始したのだ。甲冑の隙間から何本もの矢を生やしつつその速度は緩まない。槍衾を作りつつ矢を射掛けながら進むバルバール軍と果敢に進むケルディラ軍との距離が縮まっていく。
「ケルディラはここ十数年大きな戦が無いにもかかわらず勇猛はコスティラ人の上を行くな。もっとも、経験が少ないからこそ無謀になれるという事もあるが……」
ディアスの呟きは正鵠を得いてた。ケルディラ軍の突進は、初めて猟に出た若い猟犬が興奮状態となり怖いもの知らずにも虎に挑むのに似ていた。だが、人は理性において犬に勝る。彼らの理性を麻痺させているものは何なのか。そこまではディアスにも分からないが、今はそこまで考えている暇は無い。
「左翼停止。中央も進軍を遅らせろ。斜線陣を敷くんだ。ケルディラ軍の突進を受け流す」
「し、しかしそれでは、我が軍の左を抜けたケルディラ軍がコスティラ軍とぶつかるのではないでしょうか」
ディスの言葉にトルスティは焦った。バルバール軍はケルディラ軍を抑える任務を受けており、今回コスティラ軍は極力戦わせない方針だ。敵の攻撃を受け流し、コスティラ軍にぶつけるのは命令違反ではないのか? だが、バルバール軍総司令は気にした風もなく軽く言い放った。
「そうだね」