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愚者達の戦記  作者: 六三
征西編
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第8話:黒髪の少女(1)

 ミュエル・ハッシュは冴えない伯爵家の家に生まれた。


 伯爵と言えば貴族の中でも低い身分では無く、以前はそれなりの権勢を誇っていた。しかし栄枯衰退の御多分に漏れずミュエルの祖父の代に没落したのだ。


 ミュエルのお母様のヘルガは新興の商人の出で、よくある話だが、にわかに金を手に入れた成金の娘と身分は高いが金の無い貴族のお父様のサムエルとの政略結婚だった。


 母方の成金商人からそれなりの援助を受け生活は持ち直したものの、豪遊するほどの援助までは受けられる訳もない。全盛期のハッシュ家を知るお父様には物足りない。そして成金商人の実家に居た時は大勢の使用人に囲まれていたのも関わらず、嫁いだ貴族の家で突然質素な生活を強いられたお母様も物足りなかった。


 もっとも、一般庶民に言わせればどこが質素だ。と言われる生活ではあるのだが、実家での生活との落差が激しすぎたのだ。何せ実家では20人以上居た使用人がこの家では6人しか居ないのである。お母様が物足りないと思うのも仕方がない。


 もっともそれは2人の間にミュエルが生まれるまでだった。ミュエルの存在が、そのような不満など跡形もなく吹き飛ばしたのだ。ミュエルは赤ん坊の頃から美しかった。目が大きくパッチリと開き唇は形よく、顎を縁取る線も滑らかだ。


 夫妻は争うように娘を抱き、育児経験豊富な乳母に、首も据わらない赤ん坊をあまり抱き抱えるものではないと注意を受けたのだった。


 ミュエルを可愛がり育てる事に夢中になったお父様とお母様は、使用人が少ないなどといった不満など忘れてしまった。だいたい使用人が多くては、娘の世話を自分達が出来なくなるではないか!


 ミュエルはお父様の黒髪黒眼を引き継いでいたが、金髪碧眼のお母様はお人形のようで大好きだった。


「私の髪と目はいつになったらお母様のような綺麗な色になるのですか?」


 自分はお母様の娘なのだから、大きくなればきっとお母様と同じ髪の色と目の色になるに違いない。ミュエルはそう思ってお母様に聞いてみた。だがお母様は笑ってその問いには答えず、

「お前の黒い髪と瞳の方が、とっても綺麗ですよ」

 とミュエルの頭を撫でた。とはいえ、ミュエルはお父様も大好きだった。お父様には良くだっこをねだった。


 素直なミュエルはお父様とお母様のいう事をよく聞いて、面倒をかける事も無い。


 使用人達にも優しく、夏の盛りに庭の草むしりをしていた老僕のベネルが暑そうだと、日傘をさしてやってきて老僕を強い夏の日差しから守り老僕に涙を流させた。家中の者達すべてがミュエルを愛していた。


 いや、それどころか美しく素直で優しいミュエルはどこに行っても可愛がられた。


「我が家にもあのような娘が欲しい」


 訪問した先の主人、或いは訪問してくる客にそう言われる度に、お父様とお母様は娘を誇らしく思うのだった。他をはばかりあえて吹聴しなかったが、ミュエルはバルバール王国一の娘である。お父様とお母様はそう思っていた。


 バルバール一の娘にはバルバール一の婿が必要だった。だが娘に良き相手を世話してやる事は出来ないだろう。貴族の結婚とは家と家との利害関係の総和である。お互いの家が結婚により結びつく事に、どのような利益がなされるか? それが重要なのだ。


 ハッシュ家と結婚してどのような利益がなされると言うのか? 伯爵という地位のみである。そして地位を欲しいだけの相手にバルバール一の娘をやるのは勿体無い。だが、伯爵の地位などに目もくれない相手となれば、当然それ以上の地位と権力を持ち、今度は相手の方がハッシュ家など相手にしないのだ。


 このままでは折角のバルバール一の娘には、お父様と同じように地位目当ての成金商人との結婚が待ち受けているだろう。成金息子を婿に取りハッシュ家を継がせる事になるのだ。


 成金商家から嫁いで来たお母様は自分を棚に上げ、それではあまりにも娘が不憫だと涙した。


 バルバール一の娘なのに! 自分達の地位が高ければ、公爵家の奥方にも相応しく、国王の后にも不足は無いであろう。なのに! それなのに! 美しい娘を見るたびにお父様とお母様は娘に申し訳ないと思うのだった。


 そこへ美貌の12歳の少女の噂を聞きつけたゲイナーが、縁談を持ち込んできたのだ。


「私はバルバール軍総司令官フィン・ディアスの叔父、ゲイナーと申す者です。今日はその甥と貴方様の御息女との縁談を持ってまいりました」


 軍務大臣のエドヴァルドはすでに既婚者である為、総司令官フィン・ディアスと言えば、現在バルバール軍部では最高峰の優良物件。


 まさに娘に相応しい婿ではないか! とは言え……、

「ディアス殿は私よりも年上ですよね?」


 35歳のディアスに対して、お父様は34歳なのである。


 しかしその懸念をゲイナーは笑い飛ばした。


「何を仰います。上流階級同士には、親子ほどの歳の差の結婚などよくある話では有りませんか」


 確かに親子ほどの歳の差の結婚もない話ではないが、実際それが行われる時にはそれに見合った利害関係が発生した時である。


 なんの利も無いハッシュ家にはまったく当てはまらない話なのだが、気にするほどの事ではないと笑い飛ばしたゲイナーに、お父様とお母様はそれももっともと釣られてしまったのだ。


 ケネスに家を継がせるのだけは防がなくては! との執念に囚われたゲイナーはハッシュ家を調べつくし、どのような甘言を弄すれば美貌の少女の両親を篭絡出来るか考え抜いていた。そしてその甘言をたらいで水を汲むかのようにお父様とお母様に浴びせかけた。


 ミュエル殿はバルバール一の美貌を誇り、バルバール一の御息女にはバルバール一の婿が相応しい。ディアスはバルバール軍の頂点に立つ男であり、ミュエル殿が産む子供はいずれバルバール軍の頂点に立つのだ。


 ゲイナーの甘言にお父様とお母様の心は大きく揺れ動いたが、なにせ娘は12歳である。子供が産まれればと言われても、子供が子供を産むようであまりぴんと来ない。だが前もって周到に計画していたゲイナーの交渉は巧みだった。


「もっともフィン・ディアスともなれば他にもいくらでも良い話は有ります。こちらからの申し出でにも関わらず申し訳ありませんが、他家からも話が来ているのです」


 こう言って、あえて勿体ぶったのだ。だがこれは少し話がおかしい。


「他家から良い話が来ているにも関わらず、どうして私達の元へ縁談の話を持ち込んで来たのですか?」


 ゲイナーは引っかかったと内心にんまりと笑った。だが、それを表情には出さず、むしろ真摯な視線をお父様に投げかけた。


「先ほども申しましたが私はフィンの……、いやバルバール軍総司令ディアスの叔父です。私には娘は居ますが息子はおりません。甥を我が息子とも思っております。叔父として甥に、いえ我が息子に、バルバール一の娘と結婚させてやりたいと思うのは当然ではないですか」


 我が子に最良の相手を! 自分達と同じ気持ちではないか! ゲイナーの言葉にお父様とお母様は感動した。しかも我が娘をバルバール一の娘と見込んでこの話を持ち込んだと言う。そしてさらに、他家からの話も有ると言う事に焦りを覚えた。


 早く決めてしまわなくては、折角のこの良縁が流れてしまう可能性がある。だがあまりにも急な話だ。いずれは愛しい娘を嫁にやる日が来るのは覚悟していたが、それはまだ数年先の話。そう思っていたにも拘らず突然このような話がやってくるとは、にわかに返答出来る事ではない。


「すみません。まことに良いお話だとは思いますが、一晩だけ返答をお待ちして頂けないでしょうか?」

「それはもっともなお話。よろしいですとも良くお考え下さい」


 ゲイナーは内心の焦りを抑えて頷いた。あまり性急に答えを要求するものではない。答えを出せないにも関わらず無理に回答を急いては纏まるものも纏まらない。ゲイナーは一旦引く事にしハッシュ家を後にした。


 ゲイナーがハッシュ家を辞した後、家中のそこかしこで縁談について話し合われた。お父様とお母様だけではなく、使用人達の間ですら喧々諤々の論議がなされた。


「お嬢様がこの家から居なくなるなど我慢できん!」


 老僕のベネルが叫んだが、女中のヒルマは猛反発した。


「あんたは老い先短いから死ぬまでミュエル様に傍に居て欲しいんだろけど、ミュエル様には将来があるんだ! 女ってはね。良い男を捕まえなきゃ行けないんだよ!」


 女中の仕事に追われ婚期を逃してしまったヒルマは、自分自身の後悔もあってミュエル様の為には今回の縁談を受けるべきと主張したのである。


 家の主人を差し置いての使用人達の論議など意味を成さないはずだったが、自室で静かに思い悩んでいたお父様とお母様に、大声で叫ばれたヒルマの主張が耳を打った。


 ミュエルの将来の為……。


 自分達のミュエルに傍に居て欲しいという我がままで、ミュエルの将来を犠牲にしても良いものだろうか?


 実際に自分達を鑑みれば、お互いバルバール一の相手ではなくとも素晴らしい娘に恵まれ幸せに暮らしているのだが、良き相手と結婚させるのが一番と考えられている時代である。深層意識に刷り込まれた価値観にはあらがい難かった。


 2人はミュエルを呼び寄せ言い聞かせた。


「お前は、バルバール軍総司令官のフィン・ディアス様の元へ嫁ぐ事になったんだよ」

「私はお嫁に行くのですか?」


 ミュエルはきょとんとして問い返した。自分はまだ12歳だ。お嫁に行くなどずっと先の話では無いのか?


 首を傾げるその仕草すら愛しい娘を、お母様は涙を流して抱きしめ、お父様は娘とお母様をあわせて抱きしめた。


「ディアス様はこの国で一番の婿なんだよ。その妻となれるお前は幸せなんだ」

「でも、お父様もお母様も泣いています」


 幸せという事は喜ばしいはずなのに、どうしてお父様とお母様は泣いているのだろう。ミュエルが不思議そうに問いかけると、お父様とお母様はさらに強くミュエルを抱きしめた。


「当たり前だ。お前と離れて暮らさなくてはならないのだからね。でも、お前の幸せの為なら仕方がないんだ」


 お父様とお母様と離れて暮らす……。今までミュエルには考えもしなかった事だ。突然にして突きつけられた事態にミュエルの頭は混乱し、そしてそれが飲み込めてくるとミュエルはポロポロと涙を流した。その形の良い頬を雫が伝って流れ落ちる。


「私もお父様とお母様と離れて暮らすのは嫌です。どうしてもお嫁に行かなくてはならないのですか?」


 だが、ミュエルはそれ以上の言葉は飲み込んだ。お父様とお母様が自分の問いに答えず嗚咽を漏らしながら泣き崩れたのを見て、ミュエルは察したのだ。自分が不満を漏らせば、お父様とお母様をさらに悲しませるのだと。


「お父様、お母様。分かりました。私はディアス様のところにお嫁に行きます」


 こうして、素直で優しく他人を思いやる心を持った美しい12歳の少女は、自分の心を押し殺して自分の父親よりも歳をとった男の元へと嫁ぐ決意を固めたのだった。

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