第29話:優しき王
第29話:優しき王
深夜、親子を乗せた馬車が大陸を南に進んでいた。車輪が土を蹴る音のみが夜の道に響く。極有り触れた少し古びた馬車である。もっとも内装は一見地味だが、その実、最高級の物が揃えられていた。貴人を密かに運ぶ為に作られたものだ。
しかし、馬車に揺られる7歳の少年は、なぜ自分がこの馬車に乗っているのか理解していなかった。
「お母様。この馬車はどこに向かっているのですか?」
母に向けられた小さく、だがパッチリとした形の良い瞳は不安に揺れている。
2人はゴルシュタット王国の辺境の村で静かに暮らしていた。父はおらず、少年にとって母方の祖父がその小さな村の領主であり、贅沢は出来なくとも少年に必要な教育を受けさせる余裕もあった。
優しい母と寡黙で正直者の祖父に育てられた少年はすくすくと成長した。祖父の影響で素直であり、性格は母に似て優しく顔立ちも良い。好まれる要素は多かったが、ただ一点により彼は同世代の子供達から浮いていた。
ゴルシュタット人は黒髪、赤毛が多く、ついで茶色だ。祖父は黒髪で母と亡くなった祖母は茶色だった。しかし彼の頭髪は金色であり瞳は碧眼である。
「あんなのおかしいよ!」
「きっとどこかで拾われてきたんだ!」
領主の孫に向かってあまりにもの暴言だが、子供の口を封じるのは難しい。そして、彼らが馬鹿にする相手を誘うはずも無く、少年も自分の悪口を言う者達の輪に入りたいとは思わなかった。
彼の貴公子然とした容姿に恋心を抱く少女は多かったが、少年達のやっかみを恐れ、少女達の想いが表に出る事はない。その為少年は、同世代の友人と呼べる者は居なかった。
「どうして私の髪と瞳は皆と色が違うのですか?」
「あなたの髪と瞳の色は、お父様から頂いたのです」
金髪碧眼は劣勢遺伝子である。父と母が共に遺伝子を持っていなければ、子供はそうはならない。おそらく他国から嫁いできた祖母がその遺伝子を隠し持ち、母へと受け継がれたのだ。
だが幼い少年にそんな事が理解出来るはずも無い。家族とは明らかに違う自身の容姿に、村の子供達の言葉が心に刺さる。不安にかられ何度も母に問いかけた。
「お父様はどこに居るのですか?」
拾われたのでないのなら、父がどこかに居るはずなのだ。
その問いに、常に母は悲しそうな眼を息子の向けるだけで答える事はなかった。そしていつしか心優しい少年は、聞いては母を悲しませるのだと悟り、問いかける事もなくなった。
それ以外は、日々平穏に暮らす彼らの元に男達がやってきたのは僅か数時間前。日も暮れた頃、小さな屋敷の前に馬車が乗りつけた。
「お迎えに参りました」
その一言で母は全てを理解したらしく、悲しげに息子へと頷き祖父に首を振った。祖父も事情を知っているらしく、無念そうに歯を食いしばり俯くばかりだった。そして、ほとんど着の身着のまま馬車に乗り込んだのである。
2人は馬車に揺られ続けていた。
母は、どこに向かっているのかという息子の質問には答えず、その代わりに父親から受け継いだ金色の頭を抱きしめた。
「これから行くところは、とても恐ろしいところです。表の煌びやかな世界のその裏には、黒く濁ったものが漂っている。これから多くの人があなたに傅くでしょう。でも、騙されては行けません。あなたに笑顔を向けるその裏で、別の人間には這いつくばっている。そのような世界なのです」
母の声は、いつもの優しげな響きを隠し、低く何か、怖い、ものを含んでいた。それだけに少年の不安はつのる。闇夜を走る馬車は、母子を魔界へを誘う。その’事実’に少年は震えた。
「お母様、私はどうしたら良いのですか?」
他に味方は誰1人いないかのように、息子は母の胸に縋り付き母は更に息子を強く抱きしめる。馬車の車輪が土を削る音が耳にうつる。
「敵を作ってはなりません。誰からも好かれるように振舞うのです。敵を作れば裏で何をされるか分からない」
「はい。お母様」
「隙を見せてはなりません。そうしなければ、あなたは生きては行けない」
生きては行けない。その言葉の恐ろしさに息子はまるで赤ん坊に戻ったかのように母の胸に顔を埋める。母の胸の柔らかさ、暖かさは息子の不安を僅かに取り除いた。だがそれも気休めでしかない。
「ごめんなさい。母を許して。あなたをそのような場所に連れて行くしかない。弱い母を……」
その瞳に涙が溢れ滴り落ち、息子の幼くきめ細かい頬に流れる。息子は顔を上げ、泣く母を元気付けるように微笑む。だが、その身体はやはり小さく震えている。
「私は大丈夫です。お母様の言うとおりにします。だから泣かないでお母様」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
こんな時にまで母に気遣いを見せる優しい息子に、母は更に涙し息子の頬を流れる小さな川は大きくなっていく。
「ごめんなさい……アルベルド」
デル・レイ王国国王アルベルド・エルナデスは国民から愛されていた。彼は大皇国の第5皇子であり、跡継ぎの生まれぬ前デル・レイ王に請われこの国にやってきた。
「前国王は偉大なる成果を残した。それはアルベルド様にこのデル・レイを譲り渡した事だ」
民衆の、前国王を暗に批判しアルベルドを賞賛する言葉は、現在のデル・レイを上手く表現していた。
アルベルドが王となってからは経済が発達した。アルデシアら同じく皇国の衛星国家の大臣を招き、両国の商人に対して関税を撤廃するように要請したのだ。
「関税を撤廃すれば税収は減るが、物の流れは活発となり民は豊かとなる。そうなれば他からの税収は増えましょう。目先より全体を考えるのです」
デル・レイの主張にアルデシアも頷き条約は結ばれたが、アルベルドは更にアルデシアの東に隣するロタ王国とも交渉も行い、物流を作り上げた。ロタは東にテチス海と接し船舶によって遠く他の大陸とも繋がる。そのロタと交易する事は、莫大な利益を生む。
主要な街道を通ってロタからデル・レイに入るには、アルデシアを通らなくてはならない。アルデシアは戸惑った。デル・レイとアルデシア国境での関税が撤廃されたのではなく、両国の商人は関税を払わなくて良いという条約なのだ。それでは、ロタからデル・レイに物が流れアルデシアに何の益もない。
「デル・レイは、もしや我が国を謀ったのでは御座いませんでしょうな!」
アルデシアは色をなして抗議したが、デル・レイはやんわりと頭を下げ弁明する。
「現状を見ればそう思われても致し方なく、我らの配慮が欠けておりました。それでは、ロタからアルデシアに入る物には、通常の半分の関税をかけるという事でどうでしょうか。お互い半分の税を損し、公平であろうと考えます」
抗議に対し素直に頭を下げられては、それ以上の追求は出来ず、さらに公平ならばとアルデシアはデル・レイの申し出を受けた。もっともアルベルドにとっては、よくこう何度も騙されるのかと苦笑するしかない。デル・レイは損などしていない。本来、全額取れるはずの税をアルデシアが半分損をしているだけなのだ。
しかし公平という言葉に惑わされたアルデシアではデル・レイの対応は賞賛され、その国王たるアルベルドの評判も良い。その為、アルベルドの世論操作もあいまってリンブルクへの侵攻なども批判の種にならない。
いや、それどころか最近ではその行為を称える声まで広まっている。
「国王として、不当に占拠されて来た領土を取り返すのは当然。今までそれを成さなかった歴代のデル・レイ王が不甲斐ないのだ!」
歴代のデル・レイ王達は、衛星国家は領土を増やすなという皇国の政策に従っていただけなのだが、実際アルベルドのリンブルク侵攻は皇国でも不問とされた事により、皆はそう考えたのである。
経済を発達させ領土を獲得し、増えた税収を辺境の農村にまで分配した。天災などで被害を受けた農民への支援に充てたのだ。
無論、洪水などで崩れた堤などは以前から修復されていたが、それに借り出される村民は無報酬の使役である。アルベルドはそれに対して報酬を支払ったのだ。作物が流され無収入となった村民にとってはまさに天の恵みである。しかもそれは、王国直轄領だけではなく諸侯の領地にまで及んだ。
災害ある時に王室から、これで民に施せと金銭を贈られた貴族達は、何と慈悲深きお方、まさに賢王であらせられるとアルベルドを称えた。無論、無条件ではなく、その使用が適切かは厳密に審査される。貴族がどれだけ収入があり、何にどれだけ使ったかは王家で管理される事となったのだ。そして、貴族達も王室から資金が援助されるならばそれも当然かと不思議に思わなかった。こうして、アルベルドによる貴族への支配体制が確立していったのだった。
自分に都合良く物事を進ませながら、相手にそれと気付かせずむしろ賞賛される。アルベルドはその奇術師だった。その奇術の種は賄賂と世論操作である。有力貴族の腹心などに賄賂を贈り、彼らの主君にこちらにとって都合の良い助言をさせ、民衆には人を使ってアルベルドを褒め称える風聞を流す。
騙される方が悪い。それがアルベルドの考えだった。皆己にとって都合の良い事実を信じ生きる。騙され信じ込まされた事実を幸せと感じるなら、それを信じて生きればよい。自分も、実の母が義母に殺されたなど知らなければ母との思い出を胸に義母に感謝し兄達を支え皇国を守り立てていた。そしてその過程に幸せも感じていたはずだ。残酷な真実などを知るよりも、その方が遥かに幸せだった。
だが知ってしまった以上、忘れるなど出来ない。母の無念を晴らす。奪われたものを奪い返す。アルベルドにはそれ以外の生きる道は無かった。その結果で誰を巻き込もうと知った事か。
愛されるべき賢王アルベルドは私室で部下からの報告を受けていた。先日行った、コスティラでの婚礼襲撃についてだ。陰気な顔の男が跪いている。黒っぽい服を着て、いかにもいわくありげな男である。
もっとも報告は短い。
「すべて御命令のままに致しました」
この言葉だけで十分だった。サルヴァ王子が推測した通り、口を封じる為に男爵令嬢は亡き者とされていた。その前に男達が楽しんだかには興味がない。
男が下がると、アルベルドも部屋を後にした。皇国から招いたフィデリア、ユーリ親子と遠乗りに出かける予定なのだ。
そこは、一面緑に包まれた見渡しの良い草原だった。アルベルドは国民に愛され、フィデリアは歓迎されているが、リンブルクなど他国から刺客が送り込まれる可能性はあった。見晴らしの良いここならば潜んだ少数の人間に襲われる心配は無い。
先頭のユーリは馬丁が轡を取って進み、後ろは宰相夫人フィデリアと王妃フレンシスが馬車に乗っている。アルベルドはその間を進んだ。全て白馬なのは、皇族、王族としてのお決まりというものである。
彼らの左右と後ろは護衛の騎士達が固めているが前方は開け放たれ、先頭を進むユーリはまるで騎士団を率いる気分だった。誇らしげに胸をはり、時折振り返っては後ろを進む叔父や母に手を振った。頬は上気し赤く染まっている。
護衛は前には居ないが、安全確保の為、多数の斥候を放ち万全の警戒を敷いている。その斥候からの報告が、馬車の右側を進む部隊に、’後ろ’から入っていくのを見てとり、フィデリアが微笑んだ。
「アルベルド様はお優しい方ですね。一番前を進んでいるとユーリに思わせる為に、斥候の方をわざわざ遠回りまでさせて」
「はい。優しいお方です」
夫は優しいのだろうか? 宰相夫人に答えながら王妃は思った。臣下、民衆達、城の侍女達にいたるまでそう言っている。事実、王はその者達に優しい。無論、優しいだけではなく厳しくすべき時は厳しく、だがそれだけに優しさが際立つのだ。優しいだけならば、いつしかそれは、甘い、と取られる。
だが、その優しい王は、ただ1人に対してのみ優しくない。他でもない王妃にである。
私の何がいけないのか。王妃は心を痛めていた。王妃は夫に尽くそうと考えていた。皆に向けるその優しさの半分。いや、十分の一でもよい。それだけ与えられれば、2人の日々はもっと素晴らしいものとなるものを。
「ユーリもアルベルド様が大好きで、最近では、アルベルド様みたいな国王になりたいと言い出して」
フィデリアはそういって口元に手を添えて上品にクスリと笑った。
「子供の言う事です。国王になると言う事がどれだけ大変なのか分かっていないのです。いえ、国王としての勤めを果たす事が。アルベルド様は、稀に見る立派な王なのだと思います」
フィデリアは王妃に優しく微笑み、その手に白磁器よりも白いと称される手が添えられた。
「アルベルド様は、きっとあなたにも優しくして下さいます」
「フィデリア様……」
王妃の瞳に涙が浮かんだと思うと、それはすぐに溢れ出し頬を伝った。
フィデリアは、国王夫妻の間にある深い溝に気付いていた。皆の前での完璧な王妃への対応。しかしそれは無機質なものに感じられた。少なくとも、夫であるナサリオが自分に向ける眼差しとはその温度が違っている。
「フィデリア様……」
王妃はもう一度呟くように夫人の名を呼ぶと、その胸に顔を埋めた。皇族に対し無礼極まりないその行為をフィデリアはとがめず、王妃の茶色の髪に自分の頬を寄せる。
「アルベルド様は、私達にもとても優しくして下さいます。大丈夫です。アルベルド様はとても優しい。きっと今に貴女にも……。自分の夫を信じて差し上げなさい」
そうしようと。王妃は思った。夫を信じる。王妃がずっと思ってきた事だった。だが、それが挫け掛けていた。しかし、フィデリアの言葉に、もう一度。もう少し信じてみよう。そう思った。
だが、夫に尽くそうというその思いの反面、父や母、姉妹達と離れ離れにされたその心が、夫の行いを冷静に見つめさせた。夫の優しさは道具なのだ。優しいと相手に思わせて置きながら、その実、全てを奪っていく。
だがふと思う時がある。優しさを道具と出来るならば、心のどこかに優しさを持っているのではないのかと。その希望に縋るのは、馬鹿げた話なのだろうか。