第26話:兆候
ルイナースで行われた演習に、ロタ、ドゥムヤータなど周辺諸国は改めてランリエルの力に驚愕した。
決して弱小ではない彼らの総兵力に匹敵する軍勢をたかが演習で動員したのだ。いざ戦となれば、軍勢が大地を埋め尽くす。今後、ランリエルとどう付き合っていくか、政治的対応をどうすべきか。各国では昼夜を問わず議論された。
ゴルシュタット及びリンブルク宰相ベルトラム。二ヶ国宰相の異名を持つ彼にもその情報はもたらされた。豪胆であり常に泰然とする彼の心がざわめく。それは決して恐怖などではなく、むしろ歓喜。彼の野心の為には、この大陸に巨大なうねりが必要だった。そのうねりが起きようとしている。
リンブルク王国宰相の執務室の窓の外は、夜の闇が支配し強い風が木々を打ち据えていた。娘の足ほどもある枝が大きくしなり、雨が降り始める。それは次第に激しくなり窓を叩く。
嵐が近づいていると報告があった。朝になれば、各地から被害が報告される。破損した建造物の修復、再建。民への救済。それらの手を打たねばならない。
リンブルク貴族には冷遇で当たったが、民衆は手厚く扱っていた。リンブルク王家よりゴルシュタット王家に、いや、このベルトラムに支配された方が生活が豊かになる。そう思わせた方が後々やりやすい。
ベルトラム自身は、民衆達の手助けなど期待してはいないが、リンブルク王室、貴族達を民衆が支援するのは面倒と考えていた。
勢力を比べれば、ゴルシュタットとリンブルクは比べ物にならない。戦えば勝つのだ。問題は勝った後である。王宮、城を落とされた後も各地に潜み、根強く抵抗されれば面倒だ。しかしそれをなすには一つ条件がある。民衆の支援である。
彼らも食わねばならず、武具を整えねばならない。村々から強奪すれば、直ちに訴えられその居場所は露見する。隠れ潜むには、民衆からの善意の支援が欠かせない。その根を絶つ。
リンブルク支配は着々と進みつつあった。シュバルツベルク公爵ら反ゴルシュタット勢力の動向も掴んでる。その彼らをどう処するべきか。ベルトラムには腹案があるが、まだそれをなす時期ではない。
彼らに対しても数々の手を打ってある。彼らの一員を閑職に追いやり、逆に抜擢もする。彼ら自身ではなく、その遠縁の者とベルトラム派の貴族との婚姻を進める。
それらを、ほとんど無作為と言っていいほど乱発している。過半は無駄に終わるが、1つ2つは役に立つものもある。彼ら自身で勝手に疑心暗鬼に陥り、その不安から寝返る者も幾人かは出る可能性も高い。誰が寝返りそうか狙いを定める必要すらなかった。寝返る者は寝返るのだ。ベルトラムは、人間というものを良く知っていた。
それが知を越える賢というものだった。知は道具に過ぎない。知をどう使うか。それが賢なのだ。
杯に満たしたリンブルク産の蒸留酒に口を付けた。杯は毒殺を防ぐ銀製である。銀は毒に反応すると黒くなる。豪胆と無謀は同義語ではなく、支配者として君臨する者の当然の配慮だった。より大陸中央に近い為か、リンブルク産の蒸留酒はゴルシュタットの物より上品な味を舌に乗せた。
ベルトラムにはそれが気に食わなかった。蒸留酒とは辛いものなのだ。とベルトラムは考えていた。それを上品になど、剣を美麗に装飾するが如き行為であった。
一瞬闇を光が切り裂いた。それを眺めながら再度杯に口を付けた頃、雷の咆哮が耳を打った。窓が大気の悲鳴に揺れる。更に風が強くなり木々が軋み、窓を叩く雨音が大きくなる。
しかし、と、ベルトラムは苦笑が浮かべた。愚かな知者どもは、本当によく、何をなそうとしているのか親切に教えてくれる。
配下のダーミッシュからケルディラが軍勢を整えているとの報告を受けていた。それは、表向きはリンブルク半国を占領したデル・レイを警戒してのものと発表されているが、それにしては武具、兵糧などの集積がデル・レイと国境を接する西側ではなく、東側に偏るというものだった。そして、不要なはずの戦準備を進めるアルベルド王。軍事演習にしては多すぎる軍勢を動員したサルヴァ王子。
それらを総合すると、ある一つの道筋。デル・レイ、ケルディラがランリエルに仕掛けようとしている。そして当のランリエルはそれを察し牽制に出た。その事実が浮かび上がる。
無論、誰でもその事実にたどり着ける訳ではない。ベルトラム自身のアルベルドとの密約。集めた情報。それらがあってこそである。それらを知らなければ、デル・レイ、ケルディラの戦準備も、彼らが唱える額面どおりに受け止めるしかなく、ランリエルの演習と結びつかない。すべては情報であった。
戦力を比べれば、デル・レイ、ケルディラ2ヶ国では5ヶ国の軍勢を動員するランリエルに敵し得ない。通常ならば彼らの負けだ。しかしあの謀将アルベルドがそのような無謀をなすのか。何か更なる思惑あるのだ。そしてそれは長引くはず。一戦で、アルベルド王、サルヴァ王子。どちらかの首が飛ぶという僥倖が無ければである。
たとえアルベルド王が勝ったとしても、ランリエルとの間にはコスティラ、バルバールが立ちはだかり、サルヴァ王子が勝ったとしても、デル・レイの後ろにはグラノダロス皇国がある。双方軽々しくそれ以上の進撃はしまい。
まあ、よい。大皇国の皇子と東の覇者。2人の小僧どもが潰し合うというならば、願っても無いのだ。動乱による歪みにこそ、我が野心の活路がある。
ゴルシュタット王国軍7万。それにリンブルク半国の軍勢1万を合わせた8万。それに対し、兵力100万を号する皇国と50万と称するランリエル。
無論、それら戦力は誇大に宣伝するものだ。実数はかなり割り引いたものになる。だが、まともにぶつかっては一たまりもない。それが事実だった。
2匹の獅子が争う。巨大な牙が襲い、鋭い爪が奔る。そのただ中を進む事が求められた。しかも無傷で、である。一度傷付き弱みをみせれば、獅子は獲物と認識し、その牙と爪のこちらに向けてくる。泰然とあらねばならぬのだ。
2匹の獅子に飲み込まれるか、それらを潜り抜け、自らが3匹目の獅子となるか。
アルベルド王。サルヴァ王子。その2人の知者がどう戦うのか。’賢者’ベルトラムはどう動くか。
最後に生き残るのは誰か。
再度、稲妻が漆黒の闇を奔った。一瞬辺りを白く塗りつぶし、その咆哮は、ほぼ同時だった。嵐が近づいていた。
グラノダロス皇国第5皇子にしてデル・レイ王アルベルドは、ランリエルの動きに憤りを感じていた。
軍事演習に6万の軍勢。それはデル・レイの総兵力に近いものあったが、それに脅威を感じてはいない。皇国支配の野心を持つ者にとって、その程度の軍勢、何ほどのものでもない。
どうしてたかが6万なのか。グラノダロス産の白葡萄酒を一気に飲み干した。ヘレスと呼ばれるそれは、白葡萄酒でありながら琥珀である。甘い味わいの後に、強い酒精が襲う。デル・レイ産の物は口に合わず、皇国から取り寄せた。デル・レイ産は甘いだけであり、皇国産の深みが無い。
10万なり、20万なりの軍勢を率い、そのままケルディラへと、なぜ攻め寄せないのか。わざわざ、コスティラ西域領主達の裏切りを教えてやったというのに。
コスティラ領主には、初めからコスティラ金貨を渡した。それゆえ領主達は、自分達が大量に物資を買い付けても金の出所が露見しないと考えていたが、それとは別にケルディラ金貨を彼らの領内にばら撒いたのだ。
西域領主達の裏切りは、暴虐なランリエルの支配に耐えかね昔は一つの国であった誼でケルディラに助けを求めた。その筋書きを用意している。西域領主達の裏切りも非難されるどころか、無理からぬ事と人々の同情を集めるのだ。
それに応じた慈悲深いケルディラが非道なるランリエルに攻められ、義憤に燃えるデル・レイが参戦。子供が読む英雄譚のように分かりやすい勧善懲悪の構図。だが、人々はその分かりやすさを好むのだ。
わざわざ軍事演習などをする以上、ランリエルは西域領主達の裏切りとケルディラの介入は掴んでいよう。それでも動かぬとは、獅子の眠りは予想以上に深いらしい。それを叩き起こすには、もう少し大きな演奏が必要だ。
更なる手を打たねばならず、それもあからさまには出来ない。人々の支持が必要だ。それをしてもやむを得ない事情。されるランリエルにこそ非がある。そう人々に印象付けなければならないのだ。
まあ、良い。世論など、どうとでも操作できるのだ。アルベルドにはその手腕があった。
頭を切り替え、手中にした女神に思いをはせた。次兄ナサリオの妻であるフィデリアとその息子ユーリが先日デル・レイに到着したのだ。
2人が乗る巨大な馬車は、金銀で細工された神話世界の動植物で飾られ、前に24頭、後ろに12頭の白馬が引いている。疾走する事など想定されないその動く宮殿は人々の間をゆっくりと進んだ。
その周りを、これも白馬に跨った500の騎士達が配された。馬まで細工された甲冑で身を固め、騎士の甲冑はそれ以上に華麗に光り輝く。手にする槍の穂先も、色とりどりに染め上げた動物の毛で飾っていた。皇族を守る栄誉に胸を張り、堂々としたものである。
その荘厳、華麗な行列は浪費とも思え、事実、民衆の中にはそう考える者もいた。だが、馬車から手を振る一人の女性の姿に、呆けたようにその思考が停止した。
黄金と称してもまだ足りぬ光り輝く頭髪。白磁器のようなと例えるのも恐れ多い白い肌。海よりもさらに深く碧い瞳。逆なのだと、ほとんど思考が停止した頭で人々は思った。彼女の頭髪が如く黄金は光り輝き、彼女の白い肌のような白磁器。海の深さは彼女の瞳のようだった。この世の、何も彼女を越える物は無い。
それに比べ、何とみすぼらしい馬車なのか。微笑み手を振る女神に、民衆は申し訳なさと、この程度の歓迎で笑顔を向けてくれるその優しさに心打たれた。人々は声を発するのも忘れ魅入り、馬車が遥かと遠く見えなくなってから、思い出したように大歓声が鳴り響いた。
馬車は2人が住まう離宮に入る前に、一度王宮へと向かい、アルベルドとその妃であるフレンシスは謁見の間で顔を合わせた。
姿を現したフィデリアの美貌に、列した臣下達からも感嘆の声が漏れる。丈の長いドレスを纏い’すり足’と呼ばれる上流階級の女性特有の足の運び。だが、本来見慣れたはずのその歩みすら、彼らには別物に見えた。
足音がまったくせず、頭の位置も僅かにも変わらない。滑るが如く進むその姿は、人ならぬ者にさえ見えた。いや、当たり前だ。今目の前にいるのは、天から舞い降りた女神なのだ。
アルベルドは、玉座には座らず立ったまま出迎え、その前に跪く。白くしなやかな手に己の唇を触れさせると、幾人かの臣下が思わず声を上げた。王といえど、それが手といえど、人たる身が女神に口付けて良いものなのか。
いや、相手が女神でなくとも、皇族に対するにいささか作法を逸脱した挨拶なのだ。だが、それが彼を他の衛星国家の国王とは違う、と臣下達に示すのだ。民衆達にもすぐにこの話は伝わる。
彼女らが座する場所は、国王、王妃の玉座のさらに後ろに一段高くし設えた。玉座を越える皇座ともいうべき物である。装飾も国王、王妃の物よりも華美であった。
「アルベルド陛下。デル・レイの国王は貴方です。この国で、貴方より高い位置に座る訳には参りません。ですが、お気持ちは感謝いたします」
そう言って軽く膝を折り頭を下げたフィデリアに、人々は感動に打ち震えた。この大陸では、グラノダロス皇国の一族に名を連ねた者は神にも等しい。しかも彼女は、現皇帝の弟にして皇国宰相であるナサリオの夫人。それが我が国の国王を立てて下さるとは、何と慎ましい事か。真に偉大な者は謙虚であるというが、彼女こそ正にそれである。
アルベルドも、
「失礼いたしました。姉上。我が軽慮に汗顔の至りで御座います」
と深く一礼した。もっとも内心では我が意を得たりとほくそ笑んでいる。
フィデリアの答えは分かっていた。皇族とは偉そうな者と決めてかかっていた臣下達はアルベルドの言われるままその皇座を設えたが、国王より高い位置に座りその後頭部を眺めるなど、教養ある彼女がする訳が無いのだ。
もしフィデリアが、勧められるままその見世物のような高台に座すれば、アルベルドは興ざめする事甚だしかったであろう。
その後、デル・レイ国王夫妻と皇国宰相母子は晩餐の席を共にした。歓迎の宴は後日盛大に行われる予定である。到着した当日は旅の疲れを考慮したのだ。
用意された料理は、贅を尽くし且つ皇帝に提供される物とは僅かながらに劣る。という絶妙なバランスを取っていた。それらを口に運びながら、会話も滑らかに進んだ。
「アルベルド殿下。何から何まで行き届いた御配慮。お礼申し上げます。これほどの歓迎を御用意して頂けるとは、思いもよりませんでした」
「何を仰います。姉上は、尊敬するナサリオ兄上の奥方ではありませんか。御2人がデル・レイに御滞在の間は、兄に仕えると思い、お世話させて頂きます。何かあれば遠慮なく仰って下さい」
余りにもの待遇は気が引けるフィデリアだったが、兄であるナサリオと思いと言われれば、遠慮もしづらい。
「ありがとう御座います」
と微笑み会釈した。
その一つ一つの動作すら優雅だった。肉を切り分ける。その当たり前の事すらもナイフは食器に触れず、僅かにも音が鳴らない。
「なぜそのような事が出来るのか」
幼い頃フィデリアは、父であるブエルトニス王にそう問われた事があった。
「お父上は出来ないのですか?」
不思議そうに問いかけ返す娘に、王は言葉が無かった。フィデリアには自然と出来るのだ。父ですら娘を人ならぬ者と思ったものであった。
その息子であるユーリも母に似て美貌の少年であるが、彼自身は逞しい父にこそ似たいと考えそれが不満だった。だがそれは別として、やはり美しい母は自慢である。行く先々で母の美しさに皆が声を上げるのを誇らしく、上機嫌で少年らしい食欲を発揮する。
「アルベルド叔父上。私からも過分な持て成し、お礼申し上げます」
「ユーリも、ナサリオ兄上に似て立派になったものだ。まだ7歳とは思えぬ。将来は父を支え、その後を務めるのだぞ」
「はい!」
父に似ているといわれ、少女にも見える美貌の少年は元気よく答えた。
「王妃もそう思うであろう?」
今まで、ほとんど蚊帳の外にいた王妃は突然の夫の言葉にすぐに反応できなかった。フィデリアの美しさに、同性ながら見とれていた事もある。
「あ、はっはい。本当に……」
と、歯切れの悪い言葉を発し、直後、自分の無様に俯く。
「ははは。王妃も姉上の美しさに見とれていたようです」
という夫の言葉にさらに羞恥に身を赤く染めた。それが的を得ているだけに居た堪れない。本来ならば、届かないはずの、給仕をする侍女の小さな失笑が耳に届いた。王妃にもかかわらず、城の侍女にすら馬鹿にされる。その屈辱に涙が出そうになる。
フィデリア様はどう思っていらっしゃるのかと王妃が上目遣いに目を向けると、微笑む女神の顔があった。慈愛に満ち、王妃を気遣っているのがフレンシス自身に感じられる。
事実、フィデリアがデル・レイに来なければフレンシスが侍女に馬鹿にされる事も無かったであろう。今後もフィデリアと比べられるのだ。しかし王妃はそれに気付かず、その優しい眼差しは、それこそ女神のように写った。
そして王妃を気遣うフィデリアの視線は、侍女や執事達も気付いた。女神の如き美しさが身を飾り、賢婦の慎ましさに心を律し、聖女の慈悲は周囲を包む。何とすばらしい方なのか。彼らはこぞってこの感動と興奮に居ても立ってもいられず、晩餐が終わればすぐさま同僚達、会う人々すべてに語るのだ。
アルベルドは、フィデリアを徹底的に神格化する気だった。人々は彼女を天から舞い降りた女神と崇め、その一言一言を神の言葉として聞くのだ。思考を停止し、忠実な僕と化す。それでこそ、この大陸を統べる大皇国、真の覇王の妻に相応しい。