第21話:ベルヴァース王国の人々
アルベルティーナ・アシェルは今年16歳になった。少女といってよい年齢なのだが彼女は人妻である。しかもそれは2年近くも前の14歳の頃からだった。
もっとも彼女はその人妻という名称を肩書きから外し、年齢に相応しい少女と、いや美少女と呼ばれることを望んでいた。金髪碧眼のその美貌は精緻な人形細工の完璧さを誇るが、さすがに人妻兼美少女というのは無理がある。
そしてその為には、1人の男を倒さねばならなかった。
「しつこいぞ! 御主など我が夫と認めぬと、何度言えば分かるのじゃ!」
彼女は、2歳年上で同じく金髪碧眼の少年に怒鳴り、一応夫のその少年はまだあどけなさも残る瞳を最愛の妻へと向けた。その視線には驚きと困惑の色が色濃く浮かんでいる。
「でも、僕達はこの王都エルンシェの大聖堂で、神様の前で誓ったじゃないか。永遠にお互いを愛しますって」
「そんな決まりきった台詞に何の意味があるのじゃ。あんなもの本気にする者などいるものか!」
「僕は本気だったよ」
「わらわは本気ではなかったのじゃ!」
「そ、そんな!」
その少年少女の夫婦喧嘩、というより妻からの夫への一方的な罵声に、彼らより頭一つ背の高い長身の侍女長エリーカの顔に呆れの色が浮かんでいた。まだ25歳であり侍女長というにはかなり若いが、それはみなが逃げ出す王女御付の侍女という役目を、彼女が4年も務めているからである。
そう、アルベルティーナ・アシェルはベルヴァース王国の第一王女なのである。そして、その夫たるルージ・アルディナはランリエル王国の第三王子であり、未来のベルヴァース国王なのだ。もっともそれも、妻から離縁されなければの話ではあるが。
この王女様は、恐ろしく口が悪い。かつてカルデイ帝国軍にこの王都が占領され人質として帝国まで連行された時に敵将を口汚く罵り殺されかけた事もあるほどだ。そしてこのルージ王子は王女と結婚してからの2年間、ずっとその罵声の礫の雨霰に晒され続けている。
大丈夫なのかしら? と、エリーカは未来の国王に気遣いの視線を送った。
ルージ王子は、王女がカルデイに捕らえられていた時に、万一王女に逃げられた場合を想定しカルデイ帝国軍国境警備の軍勢に配られた王女の肖像画を手に入れ一目惚れし、アルベルティーナ王女との結婚を喜び、天にも昇るような気持ちでこの国にやってきた。だがルージ王子がアルベルティーナ王女の夫として望ましくないと考える者は、王女自身以外にもベルヴァース国内には数多く居た。
彼らは、今や大勢力であるランリエルを恐れ表立っては口の端に乗せないが、ベルヴァースを傀儡にせんとルージ王子は送り込まれた、と考えていた。いや、事実そうだった。それゆえ彼らの中でも過激、或いは愛国心過剰な者達の中には、密かにルージ王子を亡き者としようと謀ってすらいる。
大貴族であるマーティンソン侯爵は、ルージ王子を廃そうと考える者達の筆頭とも言える人物であり、当時宰相であった彼は抗議の為その職を辞して在野に下った。とはいえ世捨て人となった訳ではなくその影響力は強い。彼の屋敷にはランリエルに不満を持つ者達が集まり、反ランリエルの牙城と化していた。
ランリエルとしても彼らを捨て置けぬとは思いながらも、他国に内政干渉する訳にもいかない。ベルヴァース王室に圧力を掛け力尽くで押さえるのも不可能ではないが、そうすればベルヴァース貴族達が挙って反ランリエルで立ち上がる事態も考えられる。ルージ王子が即位するまで凌ぎ切れば流血無く収められると、腫れ物に触るように彼らに接している状態だ。
老獪なマーティンソン侯爵は、自分達がある意味ランリエルから”手加減”されているのを理解し、それを利用しようと考えていた。多くの貴族を集め勢力を拡大しながらも決して実力行使には出ず、ルージ王子の失態を待っている。誰の目から見ても、とても一国の王として勤まるまい。そのような失態をルージ王子が行えば、その時こそ集めに集めた勢力でもってその失態を追求し、彼をベルヴァースから追放するのだ。
勿論その時、ランリエルが外聞をかなぐり捨て実力行使に出る可能性も否定は出来ない。その時点で、どれほどこちらの味方を増やしていられるか。世論を味方に付けられるか。それが勝負なのだ。
その意味では、王女の態度も彼らには都合が良かった。ルージ王子を追放しようとする時、肝心の王女の心が王子のものとなっており、どうか2人を分かつような事はしないで欲しいと泣き崩れでもされようなら、無責任な世論はその悲哀に共感し、ルージ王子に同情する。
もっとも肝心のアルベルティーナ王女はそこまでは考えていない。他に好きな異性がいる訳ではないが、勝手に決められた結婚相手に反発しているだけなのだ。それゆえ王女はルージ王子へ罵倒を浴びせ、ランリエルに逃げ帰らそうとしているのだ。しかし残念ながら王女の思惑通りに事は進まなかった。
「酷いよ!」
と、妻からの罵声に目に涙を浮かべ部屋から追い出されながらも、翌日になればまた王女の部屋にやってくるのだ。それゆえエリーカなど政治から縁遠い者から見れば、ルージ王子こそがアルベルティーナ王女の夫に相応しかった。
彼を逃せば、王女は独身か、さもなくば夫から愛されない形だけの夫婦で一生過ごすかしかない。王女様はそれを分かっていらっしゃるのだろうか? 今日も王女の部屋を飛び出したルージ王子の背にエリーカはため息をついた。
ランリエルの使者サントリクィドがベルヴァース王国王都にやってきたのはそんな時だった。
「軍事演習ですと?」
肥満気味の身体を玉座に乗せたベルヴァース王国国王トシュテット・アシェルは、左右に群臣が居並ぶ謁見の間で跪き用件を述べた使者にそう問いかけた。人の良さそうな顔には戸惑いの色が浮かんでいる。
「左様で御座います。我ら友好関係にある国々合同での軍事演習を我が国の軍総司令サルヴァ殿下が計画し、是非ベルヴァース王国軍にも参加して頂きたいと殿下からのお言葉で御座います」
「友好国と仰ると、西方の方々も参加なさるという事ですかな?」
「はい。我ら東方三ヶ国に加え、バルバール、コスティラを含めた五ヶ国での演習を王子は計画なされております」
サントリクィドは、ランリエル、カルデイ、そしてベルヴァースをあえて東方三ヶ国と称し、他の二ヶ国よりベルヴァースに親近感を覚えていると匂わした。後ろ暗いところなど何一つないと、その童顔に浮かぶ表情もにこやかだ。
「しかし、近年戦も無く平和そのもの。それを突然軍事演習とはいったい」
「平和だからこそで御座います。軍人たるもの日々の精進は欠かせません。しかしそれも発揮する場が無ければ張り合いも御座いますまい」
「それはそうであろうが……」
「訓練とはいえ各国の軍勢が矛を交え名を高めるは、平和な世になりその活躍の場を失った者達の励みになりましょう」
さらにサントリクィドは、活躍著しい者を王室で召抱えれば国王は座して勇者を得られ、王室の為にもなる。実際の戦いでそれを得るには多くの被害が出るが、演習ならばその心配も無く良い事尽くめ。と、国王を篭絡した。
「ふむ。なるほどの」
血なまぐさい話を好まぬ人の良い国王は軍事演習と聞き怯んでいたが、サントリクィドの言葉にもっともだと頷いた。
「御使者のお言葉良く分かった。仔細は軍務大臣のアールステットと総司令テグネールに相談するように」
国王の言葉に、武官列に並んでいた両名が軽く頭を下げた。アールステットの長く白い顎鬚が揺れ、テグネールの短い黒髪は僅かも揺れなかった。アールステットは5年前から、テグネールは3年前からその職にある。
前軍務大臣はカルデイ帝国によるベルヴァース王都占領時に命を落とし、前総司令はランリエル・ベルヴァース連合軍によるカルデイ帝国侵攻作戦後に、自ら職を退き引退、後任をテグネールに託した。
名将と名高かった前任総司令セデルテ・グレヴィのテグネールに対する評は、面白みの無い戦をする男というものだった。
「あやつと百回戦えば、百回とも負けぬであろうな」
とも言ったが、その後に
「もっとも勝つことも出来ぬであろうがな」
とも付け加えた。テグネールは、すべき事を黙々と実行する男であり、その能力は攻勢によりも守勢に発揮されるのだ。
その2人と打ち合わせる為、サントリクィドは一旦謁見の間から下がり別室で改めて顔を合わせ細部を検討した。その結果、サントリクィドの提案により、王室直属の軍勢5千と、更にベルヴァース領主、騎士で我こそはと手を上げる者達を参加させると決定したのだった。
軍務大臣と総司令は、その程度ならばと反対しなかったが、もし前任総司令グレヴィがこの場に同席していれば、サントリクィドの提案をやんわりと拒絶しただろう。我こそはと手を上げる者達と抽象的に言うが、実際それがどれほどになるか。
国王にも言ったとおりランリエル側は武名を上げるまたとない機会と宣伝するであろうし、ここ数年鍛錬を続けているにも拘らず戦無く、その力を発揮できなかった多くの騎士が名乗り出るはずだ。いや、騎士ばかりではない。父から領地を継いだばかりの新しき領主達も参加を申し出るに違いない。
新しき領主は、とかく先代を超えようとするものだ。そしてそのような者の常として、長き年月を要する領地の経営などより、直ぐに結果の出る分かりやすい名声を求めるもの。各国参加する軍事演習で武名を上げる。なんと手近で分かりやすい事か。そして、そんな者達に負けてはなるものかと考える古き領主達も。
実際、この話を邸宅の居間で聞いたグレビィは、それを報告した養子サンデルに苦笑で応えた。
「日頃鍛錬する者達にその成果を発揮させてやる場は必要であろうが、わざわざ他国まで出向く必要などあるまい」
「はい。義父上の仰るとおりです。しかもそれを提案したのは、かのランリエルの王子です。額面通りではない裏があるのでは……。とはいえ、裏がありそうだから参加は控えるようにとも言えますまい。両国の友好を不当に傷つける中傷と糾弾されるのが落ちです」
サンデルはその線の細い身体に乗るまだ若々しさも残る顔に危惧の色を浮かべ、その様子にグレビィは顔に満足の笑みを浮かばせた。サンデルはカルデイ帝国との戦いの時から目をかけ、その才を見込み4年前に養子にし跡を継がせた男であり、その期待に十分応えている。
「お主をテグネールの副官になるよう推薦状を書いておこう。お主の言うとおりあの御仁は油断ならん。よもや誘き寄せての騙まし討ちなどはしまいが、用心を怠らぬようにな」
「心得ております義父上」
そう言って養子が後ろで束ねた長い黒髪を揺らし頷くと、義父も白い髪を僅かに揺らして小さく頷き、そして話がすんだ老将はどっこいしょと椅子から立ち上がった。実家に顔を出している娘夫婦の部屋へと足を向ける為だ。
その背を見るサンデルの視線は暖かかった。その部屋には、娘の夫婦以外にもう1人客人がいる。それは、今年2歳になる小さな女の子。娘夫婦の愛娘であり、もちろんグレヴィにとっても可愛い孫娘。大陸東方にその名を轟かす名将も、その前ではただの孫に甘いおじいちゃんと化す。その小さな女の子の為に、サンデルはこの屋敷にいる。
グレヴィには娘以外にも3人の息子がいた。だが、戦いによりすべての息子を失い、商家に嫁がせた娘夫婦が産むであろう孫にグレヴィ家を嫁がせると親族会議で決定されたのである。グレヴィ家はベルヴァース王国の武門の名門。家を絶やすことは許されなかったのだ。だが、それに娘のカルロッテは反発した。
「お父様は、兄や弟達だけでは飽き足らず今度は孫を、私の子供まで殺すのですか!」
そう言って、娘夫婦は子供を産む事を強絶したのだ。
娘夫婦は愛し合っていた。その愛し合う男女が、もし子供が出来、もしそれが男子であったなら、死ぬ。死んでしまう。そう怯え子供を作らなかった。息子達を失い傷付いた老将は、娘すら失ったのである。だが、サンデルがグレヴィの養子になった。グレヴィ家は彼が継ぐ。
もう、子を産んでも良いのだ。
老いた父からの手紙に娘は泣き崩れた。我が子を失いたくないから我が子を作らない。毎夜繰り返される、我が子を産み、笑みを浮かべ抱こうとした瞬間引き離される悪夢。月のものが遅れるたびに、どれほど怯え恐怖に震えたか。夫と愛し合うのに、どうして真に愛し合えないのか。愛し合う夫婦の間に子供を授かる。その、もっとも喜ばしいはずの事を、なぜ恐れなくてはならないのか。結婚して十数年、夫婦を縛っていたその鎖をついに断ち切ったのだ。
娘が父に返事を出したのは、それから2年後だった。
娘を授かりました。
一言、そう書かれていた。
子供を産んでも良いという安心と、それでも男子が生まれてはという不安。その狭間で娘夫婦は、万一男子が生まれれば隠して育てようと妊娠を隠し、出産してから報告してきたのだ。
「私達の娘は、貴方の娘でもあるのです」
義姉は、そう言って微笑み胸に抱く小さな娘の顔を義弟となったサンデルに向けた。
まだ結婚もしていない内に、いや、そもそも自分が関係を持った訳ではない女性が産んだ子供を、貴方の娘と言われ戸惑ったサンデルだったが、すやすやと眠る愛らしい赤ん坊の顔になんとなく納得してしまった。
赤ん坊が生まれるには母親がいる。父親も必要だ。だが、この娘が生まれるにはもう1人必要だった。サンデルが居なければこの娘は生まれなかった。その意味では、確かに彼はこの赤ん坊の親なのだ。
はじめグレヴィから、自分の養子になりその家紋を継いで欲しいと言われた時、サンデルの心にあったのは、認められたという喜びと、武門の名門を継ぐという興奮、ただそれだけだった。だが、今は違った。自分がここに居るのは、この娘に生を与える為、彼はそう考えていた。
現在サンデルの元には、グレヴィ家の分家から山ほど縁談が来ている。養父は、自分の孫を跡継ぎにせよと親族会議で決めた分家の者達に反発し血縁関係のないサンデルを養子にしたが、やはり本家にグレヴィ家の血が入っていないのは問題と考える者は多いのだ。だが、サンデルはその縁談をすべて断っている。
義父親子の苦しみを知る彼は、その原因を作った分家の者達に好意を持ち得ず、その者達の娘を娶り、彼らを義父、義母と呼ぶ気にはなれなかったのである。だが、本家を継ぐ者として、その血の重要性も理解していた。
グレヴィ家の血統は守らなくてはならない。しかし自分は結婚せず己の子供に跡は継がせない。次にグレヴィ家を継ぐのは分家のどこかが継げば良い。と、サンデルは心に誓っていた。
もっとも彼は、この3つの内1つしか守れなかったのだが、それはまた別の話である。