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愚者達の戦記  作者: 六三
皇国編
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第18話:名も無き王妃

「貴女は誰?」


 その問いを、デル・レイ王国王妃が小さく呟いた。鏡に映る自分自身に。

 貴女の名前はフレンシス。答えは心の中で呟く。


 あまりにも馬鹿げた自問自答。自分のみならず王国のすべての人間が知っている。しかしふと思うのだ。夫は妻の名前を知っているのだろうか? 記憶を手繰っても、夫に名前を呼ばれた覚えが無い。普段、夫は自分と会話を交わそうとすらせず、おおやけの場では王妃と呼ぶ。


 夫は非の打ちどころのない国王だ。夫が王位に就いてからデル・レイ王国の経済は発展し領土も増えた。戦費はかかったが、戦いは短期間で終わり民の負担は少なく民衆は王を褒め称えている。下々の者は政治になど無関心だが、やはり祖国が他国に勝った、というのは素朴な愛国心を刺激するらしいのだ。


「さすがは皇祖エドゥアルド陛下の御血筋。その臣下でしかなかったデル・レイ王家とはやはり違うものですな」


 そのような声が王妃の耳にまで聞こえてくる。国内では前国王である父を軽んじる言葉が声を潜めるでもなく平然と交わされている。


 生まれ育ったはずのこの国が、この王宮が、日々まるで見ず知らずの場所のように変わって行く。外観でも内装でもなく、その空気が何か息苦しい淀んだ物に満たされて行くのだ。しかしそれを感じているのは自分だけらしく、他の者達は、むしろ昔より活き活きとしている。自分1人おかしいのだろうか。そんな気にもなってくる。


 そして今、王都は祭りの前のような活気に満ちていた。人々は指折り数え有る日を待っている。


 先日、皇帝陛下から呼ばれ皇国に出仕していた夫が帰ってきた。その夫が言うには、皇国の宰相閣下であるナサリオ様の御妻子をしばらくこの国で預かる事になったという。


「皇族の方をお迎えするのだ。くれぐれも失礼の無いように致せ」


 夫はそう言って、担当の文官まで任命し離宮を改築させている。警護の武官も既に決められ、名誉だと拝命した者は部隊の訓練に余念がない。


 いうまでもなくデル・レイは皇国の衛星国家だ。皇国と皇族の方々を立てなければならないのは分かっている。しかし最近ではそれが以前にも増して色濃く、皆が染まっている。過去にも王国に皇族の方が来た事はあったが、これほどでは無かった。その時の民衆達は、偉そうな奴らが来た、そのような雰囲気だった。


 にもかかわらず今回は皆その到着を待ちわびている。皇国一、そしておそらく大陸一美しい女性がやってくる。男達ばかりではなく、女達もどれほどの美しさなのかと、一目見ようと遠く離れた村々からも王都に人が集まっているという。


 宰相閣下の奥方であるフィデリア夫人とは、皇国での式典で何度かお目にかかった。とても美しい女性。いや、そんな言葉ではとても言い表せない。髪、瞳、そして白い肌。そのすべてが光り輝き、同性の自分が見てもため息が漏れるほどだった。フィデリア夫人も元は自分と同じ衛星国家の王女だったというが、今は皇帝陛下の弟であるナサリオ様と結婚し皇国に住んでいる。


 フィデリア夫人は、宰相様とご結婚なされる前から皇国ではその美しさを謳われ、衛星国家の王族達もそれは伝え聞いていたが、市井の人々はそれを知らない。皆は自分の国の王妃と皇国の宰相閣下夫人とを見比べ、皇国に住むと姿形まで美しくなるのかと言うだろう。そう考えると、王妃の心はさらに沈んだ。


 いや、たとえ国民すべてにそう言われても、ただ1人にだけ、俺はお前の方が美しいと思う、そう言ってくれさえすれば自分の心は満たされるのに、それは叶わぬ願いなのだ。


 王妃は、深い溜息を付き部屋を後にした。妻の名前を知らない夫との晩餐の時間だった。



 妻の名前を憶えていない夫は国王の執務室で多忙を極めていた。仕事は山ほどあるのだ。ケルディラとの密約によるランリエルとの戦いの準備は勿論、その前段階としての大使との交渉。皇国に謀略の糸を張り巡らせるのも重要だ。そして義姉であるフィデリア夫人を迎える準備もある。人に任せられるものもあるが、アルベルド自身が判断しさらには直接手を下す必要があるものも多い。


 特に皇国への謀略は他に任せるどころか、一言たりとも漏らす事は許されない。ケルディラ大使との交渉も人に任せる気にはなれなかった。相手はあの無能な貴族のどら息子で操るのは容易いが、万一という事もある。


 現時点で人に任せられるとすれば、フィデリア夫人とその息子ユーリが住む予定の離宮の改築と出兵準備である。そもそも改築に関してはアルベルド自身、建築の知識がある訳ではなく人に任せるしかないので、有る程度大まかに指示を下した後は逐次報告を受けるだけだ。後は出兵の準備だった。


 椅子に座る部屋の主の前に2人の男が立っていた。軍務大臣ガスパールと総司令クリストバル。共に若く、まだ40歳にもなっていない。現在デル・レイでは前国王に仕えていた重臣のすべてが更迭され、アルベルドが抜擢した若き俊英達がその座を占めていた。もっともあくまで建前であり、事実は前任者の方が優れていた部署もあるのだが、それは全体の中の一部分として埋没し目立たない。


 一つ一つ階段を上るように出世した者は組織に忠誠を誓い、階段を飛び越えた者は抜擢してくれた者に恩を感じるものである。もっともあくまで一般論ではあるのだが。


「ケルディラ王国への出兵には、我が王国が動かせる全兵力を動員せよとの仰せのとおり、兵糧、武具などはすべて王都に集積しております」


 軍務大臣ガスパールの声は力強い。髪を短く刈り上げ、顎をこわい黒髭が覆い、隣に並ぶ実戦部隊の長であるクリストバルよりも遥かに武人としての風格を備える。クリストバルは物静かで、彼の方こそ軍務大臣として机に座り書類を処理する方が似合っていそうな風貌だ。長い黒髪を後ろで束ね学者のようにも見える細い顔を微かに俯かせている。その彼が顔を上げ、軍務大事に続いて口を開いた。


「物資、食糧は7万の軍勢が半年は戦えるだけの物です。それ以上の長期戦となれば王都にさらに集めるか、又は物資集積地であるバスクから輸送しなくてはなりません。その場合輸送の為、新たに馬、牛、そして人員を動員する必要があります。その数は――」

 と、クリストバルは次々と数字を上げていく。これがアルベルドが彼を総指令に任命した理由だった。


 デル・レイ王国が出兵するならばアルベルド自身の親征なのだ。指揮はアルベルド自身が執る為、総指令はそれを補佐する能力があれば良い。


 そして武将としてはクリストバルより優秀なガスパールを軍務大臣として王都に置くのは、現在不遇を囲むデル・レイの旧臣達が万一よからぬ事を起こそうと考えた場合の抑えだ。たとえ親征でアルベルドが不在でも、武名聞こえるガスパールが常に王都に居れば不満分子達も動けない。


「現時点では問題はなさそうだな。もっともケルディラ出兵は極秘事項だ。表向きはリンブルク王国への再出兵となっている。くれぐれもそれを悟られぬように」

「心得ております」


 ガスパールとクリストバルは、それぞれの音量で口をそろえ言って一礼し、それぞれの歩幅で執務室を後にした。


 次に顔を出したのは外交官のコルネートだった。


 デル・レイがリンブルク王国への出兵準備をしているのはあくまで擬態であるとベルトラムには極秘に伝える必要があった。本気にされ、先手を取ろうと出陣して来られては面倒だ。無論、馬鹿正直にランリエルとの戦いに備えての擬態だ、などと言う気は無い。


「ゴルシュタットの宰相には、リンブルクへの出兵準備は擬態であり貴公の為と言っておけ。我が国の脅威があるからこそ、リンブルクはゴルシュタットとも戦えないと大人しくしているのだとな」

「して、我が方がなぜベルトラム殿に利する事をするかと問われれば、如何にお答えすればよろしいでしょうか」


 コルネートも有能な男だ。万事任せると言われれば相手が納得するであろう理由を創造するのも容易いが、王に案があるならばそれを聞いておくべきだった。


「そうだな。見返りとしては、我が国の物となったリンブルクの領土を取り返す行動は控えるように。と言っておけ。それで納得する」


 実際、ゴルシュタット軍がリンブルクの領土奪還に動けば面倒だ。だがそれだけに説得力のある言葉でもある。特に欲しい領土では無かったが、一度獲ったものを獲り返されると外聞悪く、名声にも傷が付こうというものだ。


 そう、アルベルドにとってリンブルクの半国など、どうでもよい存在だった。対ランリエルとの戦いに軍勢を集結させても不自然でない状況を作り出す為だけに、向こうからは攻めて来ないであろう小国と紛争状態に置きたかっただけなのだ。


 リンブルク王国の王家臣民は憤慨し、領土を奪われたリンブルク貴族達は血の涙を流したが、アルベルドにとって攻めた以上はちょっとは本気になるかと考え、色々と手を打ったらあっさり獲れてしまった。というだけでしかない。ゴルシュタットの参戦は計画外ではあったが、それにも策を講じ、表向きは敵対しながらも裏に回れば手を握っている。


 その後も幾つかの指示を受けた後、コルネートは王に一礼し部屋から姿を消した。


 アルベルドは背もたれに寄りかかりながら、大きく息を吐き一息ついた。指示はすべて出したが、考えなけれならない仕事はまだ山積していた。そして思案が終わればまた新たな指示が顔を出すのだ。実際ランリエル軍を引きづり出してからも、それで終わりではなくさらなる罠を仕掛けねばならない。


 その時扉を叩く音がなり、続いて侍女の控え目な声が聞こえた。


「アルベルド陛下。王妃様が晩餐の席でお待ちになっておりますが、如何なさいましょう」


 思考を中断され執務室の分厚い扉を通り抜けぬ程度の舌打ちをすると、アルベルドは苛立ちを隠し侍女に答える。


「いや、あまり食欲が無いのだ。すまないが王妃には晩餐は共に出来ぬと伝えてくれ。それよりも何か軽い物を持って来てくれないか」

 その声は優しげにすら聞こえた。


 侍女は、畏まりました。と返答し足音が遠ざかって行く。彼女の胸は高鳴っている。我が国の国王陛下は大陸に覇を唱える大皇国皇帝の御舎弟にもかかわらず下々の者にまで優しく、そしてその血筋に相応しい能力も備えている。もしお声がかかり、一夜のお情けを頂ければどれほど幸せか。彼女はそう夢見ていた。


 侍女に夢見させる国王は、侍女の足音が聞こえなくなると下らなさそうに小さく溜息を付いた。たとえ相手が侍女とはいえ、その情報網は馬鹿には出来ない。下働きの者達同士噂話に興じ、何気ないところから評価が広まる事もあるのだ。精々良き王としての仮面は被っておくべきだ。下賤の者相手に未来の皇帝が演技をしてやるのも勿体ないが、皇国でも長きにわたり被っていた仮面だ。ほとんど血肉となり、演技を続けるのもそう苦ではない。


 デル・レイに来てすぐに強引に王位を奪ったが、今や王都でそれを憶えている者はほとんどいない。正確には、皆はそれを非道であると認識していないのだ。


 アルベルドが王位に就いてからデル・レイ王国はかつてない繁栄を誇っていた。もはや皆、アルベルドが王位を奪った行為は、旧悪を一掃したとしか考えていない。いや、1人だけ居た。アルベルドの悪行を忘れぬ者が。加害者、傍観者は忘れるが、被害者が忘れる事は無いのだ。


 父の王位を奪われ母や妹達とも離れ離れにされた女がこの王都に残っている。それが不満なのか、いつも沈んだ陰気な目をアルベルドに向けている。そしてアルベルドにかかわろうとした挙句、常に彼の思いとは反対の事をして苛立たせるのだ。その女の顔を思い浮かべたアルベルドの大きな舌打ちが、誰も居ぬ部屋に響いた。


 アルベルドはまた大きく息を吐いた。もっとも今度のものは苛立ちを吐きだす為だ。つまらぬ苛立ちを引きずっている暇は無い。苛立ちを持ったまま対応を考えれば、自然と攻撃的な結論となる。だが、アルベルドが思考を再開した途端、それは中断させられた。またも扉が叩かれたのだ。


 言いつけた軽食を侍女が持って来たのだろう。腹が満ちると頭の回転が鈍くなるものだ。軽い物がちょうど良い。


「入れ」


 短く答えると、侍女の制服でない女が小さな盆を持ち部屋に入ってきた。盆には果物と二切れのパン、そして湯気を立てるスープが置かれている。


 どうしてよりによってこいつが来るのか。アルベルドは殺意さえ覚え、賢王の仮面を被る必要のない相手に冷たく言い放った。


「何をしに来た」

「あ、いえ……。殿下の御加減が悪いと侍女から聞きましたので、心配になり参りました。寝てなくてよろしいのですか?」


 王妃の声には戸惑いがあった。体調が悪いなら執務室から通じる小部屋の寝台≪ベッド≫にでも横たわっていると思っていたのだ。なのに怒気を発し、力強く鋭い視線で自分を睨んでいる。


「食事をお持ちいたしました。このところ毎日働き詰めです。少し休まれた方がよろしいのではないですか?」


 夫に気遣いの言葉をむけ机に盆を置いた。王妃自ら侍女のように食事を運ぶ事に感謝して欲しいとは思わない。でも、自分が夫を気遣っていると分かってくれれば、少しは自分への態度も変わってくれるかと思った。そしてその打算とは別に、妻は夫の身体を心配する心を持っている。だが、その心は微塵も夫には通じない。


「用が済んだのなら、とっとと部屋から出て行け」

 アルベルドは、執務室の机に片肘を付き、手で額を押さえて俯いたまま妻の顔すら見ずに呟く。もはや怒気を発する労力すら妻の為に使うのを拒絶した最小限の動作だ。そして怒鳴る事すらされぬ、それは妻にも伝わった。


「あまりご無理をなさらぬように」


 小さく、微かに声が震える。大きな声を出し心を動かせば、それに押され涙が出るのは分かっていた。背を向け扉へと向かい部屋から出る寸前、夫へと振り返った。


 貴方は私の名前を知っているのですか? そう聞きたい衝動にかられた。だが結局その問いは部屋を満たさず、王妃の胸中深く隠された。知らぬ、そう答えられれば、きっと自分の心は壊れる。


 そして……夫が間違いなくそう答える事も、分かっていた。

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