第17話:新旧副官の決闘
サルヴァ王子の副官ウィルケスの仕事は多岐にわたる。本来、ランリエル軍総司令の副官として軍務に限定されるはずだが、総司令たるサルヴァ王子の目が軍事だけに留まらず国務のすべてを見渡している為、それを補佐する彼の仕事もその面積を広げているのだ。
とはいえ彼もサルヴァ王子にその有能を認められ、将来の幹部候補として副官に任じられた男だ。うず高く積まれた仕事の山を難なく登り、その上戯れに他山に手を出す余裕さえあった。
まあ、これも前任の副官の所為で王宮に広まった悪しき噂を払拭する為、ひいては上官たるサルヴァ王子の名誉の為という大義名分を抱え、女性という名の山を日々登っているのだ。
端正な顔、滑らかに動く口舌、そして子爵家の次男という血統。それらを武器に、時には穢れを知らぬ初雪に足跡を残し、ある時には他人が所有する山に密かに足を踏み入れる。
もっともその為、彼には彼で悪しき噂があった。兄嫁と通じた男、というのがそれである。その噂は真実ではないが、時系列を弄れば事実だった。以前彼と関係のあった女性が、後に兄と結婚したのだ。
2人はお互い身分を隠しての納得ずくの一時的な関係のはずだった。彼女は自分の結婚相手の弟がその時の男とは知らなかったのだ。そしてその再会に男女の認識は違っていた。男は悪魔の嘲笑を耳に聞き、女は運命の女神が微笑むのを瞳に映した。
ウィルケスは、過去は綺麗に忘れこれからは彼女を兄嫁として接しようと身を正していたが、兄嫁の方は義弟をあくまで男と認識し、相手も自分を女と見ていると信じた。にもかかわらず、義弟の自分に接する態度は親類としての域を出ず、それがさらに彼女の心に火を付け白い肌は上気し黒い瞳を潤ませた。
相思相愛と信じる彼女にはウィルケスの分別ある態度も、兄の妻を愛してしまった罪に必死で感情を押し殺しているように見え、むしろ浪漫の湯に入れる甘美な香りの入浴剤に過ぎない。彼女はその湯に肩まで浸かり、逆上せきったのだ。
「今宵。2人きりでお会いしとう御座います」
すでに軍人となり屋敷を空ける事が多かった義弟が久しぶりの休暇で屋敷に戻る日の朝、兄嫁はそう手紙をしたため義弟の寝台≪ベッド≫の枕元に置いた。そしてその手紙が、久しぶりに帰ってくる弟との幼き日々を思い出し、昔は泣いてばかりいて自分の後をついて回るだけだった弟が今では軍人とは、と感傷に浸り何気に弟の部屋に入った夫に見つかったのだ。
「兄の妻に手を出すとは、鬼畜にも劣る所業ぞ!」
弟の女遊びが派手なのを知っている兄は、弟から妻に手を出したと思い込んだ。ウィルケスが屋敷の門をくぐった瞬間、決闘用のサーベルを弟の足元に投げつけ弟にサーベルを向けたのである。
兄の、迫力はあるがまるで実践的ではない構えを前にウィルケスはため息をついた。脳裏に悪魔の嘲笑が大音量で響く中、足元のサーベルを跨いで無造作に兄に近寄り
「兄上、私の話を聞いて下さい」
と、すばやく兄の手からサーベルを奪い去った。
一瞬で無手となった兄は、どうやら武力では弟に勝てないらしいと悟り、ならばと戦法を切り替え剣ではなく音声で弟を攻撃した。とはいえ、舌戦でもやはり弟の勝利に終わり、やむなく戦場を別の場所に移したのだった。
「ウィルケス、お前まさか本当に兄の嫁に手を出したのではあるまいな」
家族会議の席で、厳しい顔の父に問い詰められ、ウィルケス心底うんざりした。
「あえて波風を立たせまいと今まで黙っておりましたが、実は義姉上とは兄上と結婚する前に一時関係がありました。ですがそれも義姉上が将来兄上と結婚するなど夢にも思わぬ昔の話。綺麗すっぱりと過去を断ち切り、今は義姉上に対し微塵も慕情の念はありません」
「でも、あの手紙は何なの? 2人で会いましょうって書いてあったんでしょ?」
父と違ってウィルケスを信用している母の口調は優しいが、だからこそはっきりさせるべきと考えていた。
「それは……義姉上の方は、過去を忘れられなかったのでしょう。ですが、私にはまったくその気はありません」
ウィルケスは断言し、両親もそれを兄嫁にきっぱりと言い渡す事を求めた。運命の再会、禁断の恋と戯曲のヒロイン気取だった兄嫁も、夫ばかりかその両親までが見守る中、もはや過去の事だと言い渡されては、頭から氷水を浴びせられたが如く、逆上せた頭を冷やさざるを得なかった。
結局、あくまで結婚する前の関係だった事、2人の密会が未遂だった事、そして何より兄がまだ兄嫁に未練があった事により、これからは心を入れ替え夫に尽くすとの兄嫁の誓いにより事態は丸く収まったが、やはりウィルケスにしてみれば実家の屋敷には近寄り難くなり、それ以来疎遠になっている。
しかし、屋敷の敷地内で兄弟で決闘騒ぎを起こせば当然屋敷の召使、侍女が目撃していない訳がなく、また人の口に戸は立てられない。瞬く間に、兄嫁をめぐって兄弟が決闘したと噂が広まったのだ。そしてウィルケスの方から兄嫁に手を出したのだと皆が信じたのは、彼の日頃の行いを考えれば無理からぬ事だった。
それまでウィルケスは順調に昇進し未来を嘱望されていた。大胆不敵な行動力と処理能力。そして家柄。上官に対しての従順さには疑問があるが、将来は一軍を率いる身分になると目されていた。だがこの一件でそれが一変した。
軍律に兄嫁に手を出すなとは書かれていないが、栄光あるランリエル騎士としてあまりにも穢れた醜聞である。彼は軍での未来に絶望し、だがむしろ享楽的に振舞った。いくら昇進を諦めたとて、傷心に自らの身を害するほど精神的に弱くもなく、こうなっては精々不良軍人として生きるしかないと開き直ったのだ。
そうして女の移り香を漂わせ軍部に通う日々を送っていた彼はある日上官から呼びつけられた。将官の執務室の椅子から直立不動のウィルケスを上官は厳しい顔で見上げたが、その奥には隠しても隠しきれぬ笑みが浮かんでいる。
「総司令のサルヴァ殿下が直々にお主と会いたいと仰っている。おそらくお主の勤務態度をお耳に入れ、軍律を正そうと自ら査問なさろうというのだろう。覚悟を決めるのだな」
40にもなりいまだ独り身の上官は、夜毎女を変える部下を苦々しく思っていたのだ。
そして、思いの外短い人生だったな。と、逃げる事も諦め総司令の執務室に出頭したウィルケスを待ち受けていたのは、サルヴァ王子からの口から思いがけない言葉だった。
「お主に私の副官を勤めて貰いたい」
次期国王にして総司令直々の辞令。どこをどう探しても、光栄に存じます。不肖の身ながら勤めさせて頂きます。そう即答すべき場面である。だかウィルケスは、サルヴァ王子が瞬きを3回するほどの時間無言だった。そしてやっと口から出た言葉も適切とは言い難い。
「なぜなのですか?」
非礼にも王子の言葉に答えず、むしろ疑問を問いかけたのだ。もっともサルヴァ王子は気にした様子もなく、その顔には微かに笑みさえ浮かぶ。
「お主には前々から目を付けていた。一度話をしたいと考えていた矢先にお主が兄嫁に手を出したという噂だった。それが本当がどうか人を使って調べさせたところ、どうやら事実と言い切るには半歩ほど踏み場所を外しているらしいな。私とて兄嫁に手を出す男など信用ならんが、お主は兄嫁からの誘いを断ったというではないか。ならばむしろ信用できるというものだ」
そしてさらに数瞬王子を待たせた後、軽薄を絵に描いたような男が、その軽薄にふさわしく芝居がかった仕草で仰々しく一礼したのだった。
「命にかけて勤めさせて頂きます」
サルヴァ王子の副官になる。それはサルヴァ王子の未来の幕僚の座を確約されたという事だ。こうして軍部での未来が閉ざされたはずの男は、一転栄達の門を開けたのだった。もっともこの新任の副官は、兄嫁以外の女性になら手を出しても良いと、サルヴァ王子からお墨付きを貰ったと思い込んでいる節はあったが。
その対極に居るのがサルヴァ王子の前任の副官ルキノだった。
上司を敬い且つ唯々諾々と従うだけではなく時には直言も行う。堅いところもあるので、部下から親しまれるとは言い難いが、その実直さから敬愛はされている。
栄達の証であるサルヴァ王子の副官という地位も彼ならばいずれ任命されると言われ、その通り任命された。非の打ちどころのない人生を危なげない足取りで進む彼が、思いもよらず躓いたのが例の男色家なのではないかという噂だった。その為今まで部下からの尊敬を集めていた彼を偏見から穿って見る者も多い。
その噂では、サルヴァ王子の前任、現任の副官の2人は恋敵だった。そして今、その2人の男が対峙していた。
「2人とも止めて! 私の為に争わないで!」
新旧の副官を前に、アリシアの侍女エレナが叫んだ。しかしその声色には僅かながら楽しげな物が混じっている。いや、事実彼女は夢見心地と言っていいほどこの状況を楽しんでいた。
貴族達の上流社会に憧れ王宮にやってきた彼女である。1人の女性を巡り2人の男が決闘するという戯曲のような場面を見られれば、と常々思っていたところに、まさに自分を巡って決闘が始まりそうなのだ。もっとも決闘の結果、本当に死んでしまうと大変だが、少しくらいの怪我なら良い。その時心優しきヒロインとしては、負けた方にこそ駆け寄り傷付いた騎士を胸に抱き寄せるのだ。
だがそこまで考えた彼女の脳裏に不安がよぎった。2人の騎士は共に容姿が優れ逞しくどちらが負けても喜んで抱きしめたいのだが、小柄な自分が彼らの体重を支えられるだろうか。どうやら髪の色が薄い方が少し背が低いし線も細い。こっちなら何とかなりそうだと彼が負けるのを願った。
もっとも残念ながら、新旧の副官達が睨みあっているのは彼女が原因だが、それは直接的にではなく間接的にだった。
ウィルケスは彼らしい嗅覚によって、サルヴァ王子が実はアリシア・バオリスに気があるのではと睨んでいた。そしてルキノの方は、王子とセレーナ、そしてアリシアとの関係を僅かながらも知る立場から、もしかして王子はアリシアを? とは密かに考えていた。
別の道を辿り山の頂から見た風景は2人とも同じだったが、そこから降りる道も違っていた。ウィルケスはだったら早く結ばれれば良いと考え、ルキノは他人が口を挟む事ではないと見守る積もりでいたのだ。そして、王子とアリシアの関係に探りを入れようと、王宮の片隅でウィルケスがエレナに声を掛けているところにルキノが出くわしたのだった。
初めは、また女遊びかと無視して通り過ぎる積もりだったルキノだったが、自らの後任が声を掛けている女性がアリシアの侍女であると気付き瞬時にその意図を悟った。
「貴様! 何をやっているか!」
「別に何もやってなんかいないですよ。ちょっと話を聞こうと思っただけです」
怒鳴るルキノにウィルケスは平然と答えたが、そこに侍女の叫びだった。
早合点というにも早すぎるエレナの言葉に、別にあんたの為に争ってなどいないのだが、と思った男達だったが、女性の悲鳴に何事かとわらわらと人が集まって来てしまった。
宮廷での争いなど言語道断な上に、しかも女性を巡ってとはあまりにも不名誉な事件だ。堅いところの有るルキノには我慢出来ない。
「違う。別にお前の為に争っている訳ではない。私はサル――ー」
「この女性は私の物だ!」
瞬間、ウィルケスが叫び剣を抜き放ち、ルキノの身体をかすめるように通り過ぎた。ルキノも反射的に飛びのいていたが、実際避けなくても当たらなかった。もっとも見物人達には見分けは付かない。
「貴様! 何をするか!」
ルキノも剣を抜き再度襲い掛かってくるウィルケスの剣をその鍔元で受け止め、顔前で鍔迫り合いを演る。ウィルケスのほとんど唇を動かさない小さな声がルキノの耳に届いた。
「こんなところで殿下の名前なんて出したら、また変な噂が広まるでしょうが」
迂闊な先輩にさすがに少し言葉が荒いが、ルキノはぐうの音も出ない。
一旦離れ対峙。ルキノも有能な男である。後輩の言葉に、瞬時に状況を理解し決闘然と剣を構え、ウィルケスの出方を窺う。
将来が閉ざされたはずの自分を拾ってくれたサルヴァ王子に、ルキノなどが考えるより遥かに恩義を感じているウィルケスである。ここで失敗し、例の噂を強化してしまっては王子にも迷惑がかかると頭を巡らした。とは言ってももはや流れは出来ている。ここはその流れを上手く御して溺れないようにするしかない。
この小柄な侍女が叫んだ通り彼女を巡って争っているという態を崩さぬようにし、さらに双方怪我する事なく引き際を見極めなければならない。王宮で剣を抜いているのは既に不味いのだが、怪我人が出ればさらに大事になる。
そして出だしこそ後輩に遅れたがルキノとて無能ではなく、ウィルケスと同じ結論に達していた。コスティラから報告と休暇の為王都に戻り、本来のその期間を過ぎても王子の命で王都の留まっているのだが、それがさらに噂を広めていた。王子はそのような噂は捨て置けと言ったが、ルキノは王子ほど泰然とは出来なかった。
能力ではなく性格によって後輩ほど芝居がかった事が出来ぬルキノだが、何とか演技しようと初対面にもかかわらず彼女を巡って争っている事になっている侍女をその背で庇い無言でウィルケスとの間に割って入った。
精悍な騎士に庇われ夢見る侍女はもはや失神寸前だった。ルキノが彼女の名前を知らないようにエレナも彼の名を知らないのだが、ルキノが運命の赤い糸に導かれた相手と確信した。髪の色の薄い方には可哀想だが諦めて貰うしかない。
「愛しい人よ。すぐに助けます!」
ウィルケスが芝居がかった台詞を叫び切りかかった。ルキノがそれを剣で受け流し、エレナの運命の人がウィルケスへと変更される。宮廷に仕える騎士としては、髪が黒い方は少し無骨すぎる。年頃の娘が移り気なのは当然だった。
2人の男は数合に渡り剣を交え、互いの身体の位置と、その周りをうろちょろする侍女の未来の伴侶を目まぐるしく変えながら戦ったが、なかなか終わりが見えない。打ち合わせも無しに即興で怪我無く引き分けるなどそう簡単には出来ないのだ。
いっそ勝ってやろうか。焦れ、疲れてもきたウィルケスが剣の柄を握り直した。簡単な相手ではないが、その剣筋からルキノも引き分けを狙っているのは間違いない。その隙を突けば十分に勝算はある。
ウィルケスは足元の小石を踏んだかのようにわざと体勢を崩し、それを見逃さず繰り出してきたルキノの剣を受け右手を返した。ルキノの剣はウィルケスの険に巻き取られ宙に舞――。
「おお!?」
一瞬、茫然と掴む物の無くなった手元に視線を移したウィルケスが我に返り黒髪の先輩の顔を見ると、冷たい、だが怒りの炎をその奥に燃やす視線とぶつかった。
ルキノの鍛えられた腕力はウィルケスの技に耐え、しかもそのまま剣を跳ね上げ、逆にウィルケスの剣を弾き飛ばしてしまったのだ。
不味いな……。体格差は有るが自分の方が強いとウィルケスは考えていたのだが、事実剣を飛ばされたのは自分だ。ルキノを甘く見、油断と言えば油断だが実際の戦場と考えれば所詮言い訳である。もう一度やれば自分が勝っていたなど、負け犬の遠吠えでしかない。
どうやってこの場を切り抜けるか。暗黙の了解で引き分けるはずが、ウィルケスが勝とうとした事にルキノの視線は鋭い。しかし知力の最大出力はともかく、瞬発力では前任に勝る後任の副官である。
「こちらへ!」
調度後ろにいたエレナへと振り返りながらその手を掴んだ。そして見物人達を掻きわけ一目散に彼女を連れ逃げ出したのだ。
反射的に後を追おうとしたルキノだったが、チラリと振り返ったウィルケスと目が合った。折角この茶番劇の幕が下ろされようとしているのだ。ここで後を追えば第二幕が開演してしまう。内心舌打ちしつつも、わざと見物人が邪魔で追い切れない態で2人を見送るしかなかったのだった。
「サルヴァ殿下とアリシア様は深く愛し合っているのです」
王宮内で剣を抜いた懲罰と、さらにその決闘に負けると言う被害を代償にアリシアの侍女と2人きりになれたウィルケスは、早速王子とアリシアとの関係を問いただし、その返答に歓喜した。
「それは本当か?」
「本当ですよ。だって殿下はアリシア様のお部屋によくおいでになりますし」
「それは夜アリシア様の部屋で殿下とアリシア様が話をして、夜明けを待たずに殿下が部屋を後にするという、あれか?」
「ええ。そうですよ」
おい。それはみんな知っているだろう。と落胆し、さらに問いただすと、それが彼女の妄想でしかないのを確信した。
噛み砕いて言い聞かせ、現実の世界に引きずり戻してから問いただせば事実に近い話を聞けるかもしれないが、それをするにはどうもこの少女は信用ならない。ウィルケスから聞いた話をさらに妄想で包み込み、有る事ない事周囲にまき散らす危険を孕んでいた。しかも
「それよりも、貴方のお名前を聞かせて下さい。私はエレナ・リマです」
言った侍女の目が輝いてる。
おっとそう言えば、と、彼女を巡ってルキノと決闘したんだったと思いだしたウィルケスは慌てて名乗った。
「これは失礼いたしました。ウィルケス・バルレートと申します」
芝居がかった仕草で大きく礼をしながら、さて、どうやって誤魔化そうかと頭を巡らした。