第16話:エムデンの戦い(1)
その日、冬の風が吹き抜ける原野に、二ヶ国宰相と呼ばれる男の姿があった。馬上に置くその出で立ちは、狩りにでもいくかのような軽装である。
何気に向ける視線の先には1500サイト(約1.2キロ)ほどの距離を置き、リンブルク王国の紋章を掲げる軍勢が見える。その中には、それを率いる貴族、武人の家紋を意匠とする旗もあり、兵士達の槍の穂先が日の光を反射させ銀色の草原を作っていた。
ゴルシュタット王国の圧政に対し、遂にリンブルク王国最北部にあるエムデンの領主達が反乱を起こしたのである。その軍勢は千2百ほどであり大軍とは言えないが、それだけに彼らの顔には覚悟を決めた者の鋭さがあった。
「我らが祖国リンブルクは、デル・レイ王国に攻められ領土を奪われた。だがそれよりも許せぬのは、味方面した挙句我が国を占拠するゴルシュタットの下衆共だ!」
「ゴルシュタットを倒せ!」
「頭目のベルトラムに死を!」
叫び、吠える彼らは死兵と化した。ベルトラムが率いる軍勢は7千を数えるが、まともに戦えば多くの被害が出る。だが戦いに先立っての軍議で、先陣の諸将にベルトラムは言い放った。
「あのような者共、正面から叩き潰すにかぎりましょう。下手に情けを掛ければ、またぞろ同じ事を考える不埒者が現れぬとも限りませぬ」
先陣に任命された’リンブルク’軍諸将は戦慄した。軍勢の内訳はゴルシュタット軍5千、リンブルク軍2千。二ヶ国宰相ベルトラムが、二ヶ国の軍勢を率いるに何の不思議もない。軍議が行われている天幕で、ゴルシュタット、リンブルク双方の将官が顔を合わせた。
「しかしベルトラム殿。敵の戦意は高うござる。ここは遠巻きにし矢を射かけ、敵の消耗を待つべきと考えまする」
構えて平静を装っているが、発言したリンブルク軍宿老ヴェンデルの表情は硬い。戦場に有る事30数年。デル・レイ軍との戦いでは寡兵敵せずデル・レイの大軍に敗れはしたものの善戦した戦巧者。その彼にとって、戦意の高い小勢と正面から戦うなど愚の骨頂である。
「我が軍は7千。それをあの程度の軍勢を恐れるとは……。どうやら私はリンブルク騎士というものを買いかぶっていたようですな」
そう蔑む二ヶ国宰相と宿老の視線が衝突し火花を散らし、文官、武官の違いは有れど同世代の男が睨み合う。
ヴェンデルはベルトラムとの対立など恐れてはいない。とはいえ現在彼は数多くいる武将の1人に過ぎない。かつてはリンブルク軍総指令であったが、ベルトラムによりその地位を剥奪されたのだ。
「ヴェンデル! 宰相閣下に対し不敬であるぞ!」
軍事の才能、そして器。いや身分と若さ以外の人間の価値を決めるすべての項目において、ヴェンデルの足元に及ばぬ洟垂れの総指令が、部下に対し尊大に、且つ、上の者に媚び叫んだ。
歳は30にも満たず、それどころか今まで軍を指揮した経験など皆無なのだ。さらに言えば彼自身軍人を目指した事すらない。武芸の稽古すら、最近になってようやく一日に十数回木剣をへっぴり腰で振っている程度なのである。
新総指令は、リンブルク大貴族の跡取りだった。そして彼の父すら認める無能者だった。にも拘わらず息子が軍総指令に任命され、大貴族はベルトラムに恩を感じ忠誠を誓った。軍部に籍を置くすべての者がこの人事に唖然としたが、この洟垂れ総指令に逆らうのはベルトラムに逆らうだけではなくリンブルク大貴族にも逆らう事になるのだ。彼らは、ゴルシュタット人が総指令になるよりはマシ。と無理やり自身を納得させるしかなかったのだった。
鋭い眼光が洟垂れへと射抜く先を変え、今度は宿老の一武将と若造の総指令が睨みあった。正に猛虎と子犬の対決である。だが意外にも子犬は余裕の笑みすら浮かべ平然としていた。相手の力量を理解する能力すらないのだ。
その時間の無駄としか思えぬ、天と地ほども力量の差がある者同士の対決は、双方の力量を理解する第三者によって中断した。
「マインラート殿。総指令たる貴殿が、部下の言葉を一々気にするものでは有りませぬぞ。貴殿の命令に背くと言うならば、軍議に照らし処罰すれば良いのです」
「これは宰相閣下の仰る通り。私とした事がとるに足らぬ一武将を相手にしてしまいました」
「それも、マインラート殿の日頃から部下の言に耳を傾けようとするお心構えが故。配下の者達こそが分を弁えるべきなのです」
激高。居並ぶリンブルク将官達の全身の血が燃え上がった。あまりにもの屈辱に腰の剣に手を伸ばす者も居たが、ヴェンデルが目で制した。マインラートは何も考えていないだろうが、ベルトラムは明らかに挑発している。軍議には、当然ゴルシュタットの将官も出席し、さらに本陣を守るのは皆ゴルシュタット兵なのだ。
自身の血を燃やしながらも、ヴェンデルはそれを精神力で御しきった。総指令に向けた顔はむしろ穏やかである。
「これは総指令殿、失礼致しました。敵は小勢。我ら7千が一丸となれば破るのは容易いでござろう。それでは出陣の準備が御座いますので、これにて御免」
ヴェンデルはそう言って席を立ち、他のリンブルク将官達も、それでは私も、とその後に続く。ヴェンデルの言葉が皮肉である事すら察せぬ新総指令は、好きにせよと見送った。
天幕を出ると1人の将官がヴェンデルに近づいた。その表情には憤りが浮かんでいる。
「ヴェンデル総指令。やはり彼らの申し出を受けるべきです」
ヴェンデルは、自分を総指令と呼ぶ男を一瞥し、そのまま足を進めた。男もさらには口を開かず黙って従う。各部隊はそれぞれ集団で纏まっている。天幕から離れ、本陣と己の部隊との狭間まで来ると人の影も遠くなる。
「我らは最後までリンブルクを守らねばならん。軽々と動く訳にはいかんのだ」
「しかしこのままではゴルシュタット、いえ、ベルトラムの勢力が増すばかりです。今こそが千載一遇の機会なのではないですか!」
辺りに人がいないのに安心したのか、男の声が大きくなり、心にも強く響く。リンブルク軍の宿老は静かに目を閉じた。深く皴が刻まれたその顔に、苦悶、憂慮、義憤、様々な表情が浮かぶ。最後に浮かんだ表情、それは決意だった。
反乱軍は、左右を森に囲まれた幅2000サイト(約1.7キロ)ほどの草原の奥にある小高い丘に陣を置いていた。高所を占め、布陣は彼らが有利である。
反乱軍と対峙するリンブルク軍2千の背後には、ゴルシュタット軍5千が、彼らを取り囲むように翼を広げ隊列を伸ばしている。その背後の軍勢から一騎飛び出し先陣に吸い込まれると、そのしばらく後、ヴェンデルの前に1人の騎士が跪いた。
「本陣より伝令! 斥候を放ち探った結果、左右の森に反乱軍の伏兵はありません! 正面の敵を全力を持って叩けとの命です!」
老いた虎が小さく頷いた。しかし先陣は動かない。むしろ騎士達は、戦場に満ちる殺気を感じ逸る愛馬を御し落ち着かせる。
不意にヴェンデルが右手を上げ、それを合図に軍勢が3つに分かれた。左右では、歩兵が槍衾を作りその背後に弓兵が矢を番え、中央は騎兵である。戦意盛んな敵の突撃を正面から受け止めるのではなく、動きの速い騎兵で敵を引きつけ、左右からの射撃で敵を消耗させる。正攻法ではないが効果的な戦術である。
その敵を待ち構えるリンブルク軍の陣形に、反乱軍の首謀者であるコンラーディン伯爵は、見事な口ひげを震わせ歓喜の表情を浮かべた。
「突撃!」
「ゴルシュタットの下衆共を蹴散らせ!」
兵士達も吠え、騎兵のみならず歩兵、弓兵すらも駆けた。小高い丘からの逆落としを利用し、隊列すら放棄した速度に重きを置いた突撃である。僅か千余りの軍勢とは思えぬほどの地響きが辺りを圧した。
その腹の底に響くような地響きに耐え、リンブルク軍先陣の弓兵は、敵に狙いを定め士官からの命を待つ。だが敵が射程距離内に入っても士官は前方を睨んだままだ。
「いいか! 指示があるまで決して矢を放ってはならんぞ!」
「うおぉぉぉ!!」
反乱軍が雄叫びを上げ迫る。先陣まで100サイト(約85メートル)。もはや敵勢1人々々の顔までが見て取れた。決死の形相で駆けている。
とっくに矢の射程内だ。重装騎兵、重装歩兵達の甲冑を射抜くにはまだ遠いが、大多数を占めるその他の者達を倒すには十分な距離である。
リンブルク軍の弓兵達はちらちらと士官を振り返るが、やはり前方を睨んだまま口を噤んでいる。遂に、1人の弓兵が耐え切れず矢を放った。だが、その矢が敵に届くよりも先に、士官の拳がその兵士を襲った。殴り倒された兵士にさらに士官が詰め寄った。
「馬鹿者が! 誰が討てと言ったか! 他の者もだ! 次に、命なく矢を放てば切り捨てるぞ!」
その怒声に、弓兵達は改めて矢を構え前を向いたが、既に敵は指呼の距離。敵は左右に分かれた歩兵、弓兵の間の騎兵を目指し突撃してくる。
敵の突撃を騎兵で受け止め、足が止まったところを狙い撃ちする気か? 兵士達は士官にちらりと視線を送った。
足の止まった敵を狙う方が効果的だ。だが、それだけ危険も増す。寒風吹き荒れる原野にもかかわらず、兵士の額に汗が流れた。
そして遂に、敵勢と騎兵がぶつかった。今が矢を放つ時。しかし士官からの命令はない。いや、そもそも味方は敵勢とぶつかってはいなかった。
なに!? 兵士達は我が目を疑った。
敵とぶつかる寸前、なんと味方の騎兵は左右に分かれ敵を素通りさせたのだ。まさか一兵士である自分達には秘密の作戦があるというのか? 兵士達はこの状況に戸惑ったが、事実敵はこちらを攻撃してこず、味方騎兵も敵を攻撃しない。しかし兵士達以上に取乱したのは、この戦場で最も地位の高いの武官だった。
「どうなっておるのだ! どうして敵を迎撃しない!」
顔色を赤く、次に白くし叫ぶ総指令に、騒がしい奴よ。と、背後から向けたベルトラムの視線は冷ややかだ。だが、発した言葉と口調は、その感情を僅かにも表面に浮かべず落ち着いたものだった。
「どうやら、先陣の者共は敵に寝返ったようですな」
「ば、馬鹿な! なぜそのような事を!」
相手の誇りを散々傷つけながら、その者からの反撃を予想しない、自儘な小児の精神のまま成長した貴族の跡取りが振り返り絶叫した。その声に愛馬が驚き小さく跳ね、慌ててその首にしがみ付いた。
その無様を眺めるベルトラムは、一瞬この者の処遇に頭を巡らしたが、ここで死のうが生き残ろうがどうとでも利用できると結論付け、すぐに頭からこの問題を追いやりった。改めて敵勢に視線を合わせると、既に先陣の騎兵も馬首を返し矛先をこちらに向け、さらに左右の兵士達に檄を飛ばしている。
「敵はゴルシュタット軍! そしてベルトラムだ! かかれ!」
一兵士達にとって士官からの命令は絶対である。ましてやゴルシュタットの為に命を掛け寝返りに反対する理由はない。すぐさま命令通りに騎兵の後に続く。千2百だった反乱軍は一瞬のうちに三倍近い勢力となり、発する地響きはさらに周囲を圧っした。
ゴルシュタット軍は5千。兵力は上回るがその陣形は横に広く層が薄く、しかも先陣の突然の裏切りに浮足立っている。反乱軍の隊列は強引な突進と反転により乱れに乱れているが、ベルトラムがいる本陣だけを狙えば、それを差し引いても反乱軍が有利だ。