第15話:海軍提督の名誉(1)
その日、ランリエル王都にある海軍府にバルバール艦隊提督ライティラの姿があった。
バルバール海軍に比べまだまだ未熟なランリエル海軍である。バルバール海軍が誇る海戦の名将を招き、その教えを乞おうというのだ。
「面倒な」
辞令を受けライティラはその言葉通りの表情で呟いたが、名将と見込まれてという部分は悪い気はしないし、実際断れるものでは無い。何せ現在バルバール王国は、ランリエルの支配下にあるのだ。勿論表向きは、バルバールは、ランリエルに国土を防衛して貰う程の友好国であり、お礼に軍資金を提供しているという事になっている。信じている者など誰1人居ないとしても。
やむなく海路ランリエルに向かう。もっともランリエル王都フォルキアは内陸部にあり、王都に一番近い港に船を乗りつけた後は馬車に揺られ王都を目指した。そしてランリエル海軍の若き士官候補生達を相手に教鞭を取っていた。彼らはランリエル各地から集まった十代の青年達で、王都の宿舎で生活している。
教えを乞いたいとは言われたが、教師の真似までする気はライティラにはなかった。内心辟易したが、さすがに戦勝国であるランリエルに不満をぶつけないだけの分別はある。
机を並べ椅子に座るまだ肌に白さを残す若者達を前に、海の潮と日に焼かれ真っ黒となった顔で海軍戦略、戦術論を語る。2年前、ランリエル艦隊とバルバール艦隊はランリエル王国沖で一大決戦を行い、バルバール艦隊が勝利した。その時、バルバール艦隊を率いたのがライティラである。その名はランリエルでも知れ渡っており多くの尊敬の眼差しを受けた。
もっとも、憎悪の視線を感じることもあるが、それについてはライティラも、仕方が無いと考えた。その時の戦いはランリエル艦隊が8割以上の艦艇を失う大敗北だ。戦死者も多く、遺族がこの海軍府に居ても不思議ではないどころか、仇を取る為に海軍を志した者も居る。
その中でも特に眼光鋭い候補生がエリオ・バルバートという黒髪黒瞳の青年だ。中々の秀才だが態度は良いとは言えず、必要が無い限りライティラと口を聞こうともしない。さすがに気になり他の候補生に聞いてみたが、他の質問には素直に答える彼らも、ことエリオについてだけは歯切れが悪い。まあ、間違いなくランリエル王国沖海戦の戦死者の親族だろうと、ライティラは考えていた。
そのように、好悪相反する視線を受けつつ、ライティラは教鞭を執り数日が過ぎた。
「ライティラ提督。少しよろしいですか?」
候補生達への講義が終わり、自室へ戻ろうと廊下を歩いていると背後から声をかけられた。振り返ると茶色い巻き毛の青年が立っている。確かジェラルドという名だ。飲み込みも早く、秀才集団の一員だったな、とライティラは記憶を掘り起こす。
「何か用かね?」
「はい。実はライティラ提督にお願いがあるのです」
ジェラルドはそう返答し微笑む。この青年は彼を尊敬している側の候補生なのだ。だが、その返答にライティラが軽く青年を睨んだ。ライティラは気の長い方ではない。こっちが何か用かと聞いているのだから、そのお願いとやらをとっとと話すべきなのだ。青年もライティラの視線に気付き慌てて言う。
「失礼しました。もしよろしければ、私達をバルバール王国へと連れて行っては頂けないでしょうか?」
「バルバールにだと?」
「はい。このランリエル王国沖とバルバール王国沖を含むテチス海最強の海軍は、やはりバルバール海軍です。そこに連れて行って頂ければ、将来ランリエル海軍を担う我々にとってよき経験となると思うのです」
ジェラルドの言葉にライティラは少しの間考え込んだ。自ら海軍を担うと言い切るのは傲慢とも言えるが、頼もしいとも言える。それに、国家の規模、立場から見ればバルバールよりランリエルが圧倒的に上位。それをここまでバルバール海軍に敬意を表すのも好感が持てる。ランリエル海軍の将来を考えれば、それも良いかも知れん。
とはいえ重要な問題が1つある。それは、ライティラ自身が面倒くさくて嫌だという事だ。だいたいランリエルに来たのですら渋々仕方なくなのだ。それをどうしてこんなお荷物まで祖国に持って帰らなければならぬのか。
しかし彼とて多くの部下を従える海軍提督。不遜、尊大といわれる事も多々あるが、彼なりに部下の士気を維持する方法は心得ている。今ここではっきりと断れば彼らはやる気をなくし、講義にも身が入らないかも知れない。それによって彼らが伸び悩もうが知った事ではないのだが、やる気の無い者達の前では講義する方も不愉快だ。ここは返答を先延ばしにしつつ、さらに彼らのやる気を起させるのが上に立つ者の役目だ。
「なるほど。君の考えは良く分かった。それでは、それは今後の君達の成長を見てという事にしよう。勿論、見込みがあるのなら喜んでバルバールに連れて行く」
連れて行く気など、毛先ほども無いにもかかわらず平然と答えた。彼は生来表情に乏しいが、こういう時にはそれが役に立つ。
「本当ですか!? ありがとう御座います!」
青年は、既にバルバール行きが決まったかのように目を輝かせた。彼は成績優秀なのだ。バルバール行きが確実と考えるのも無理は無い。そしてすぐにでもそれを仲間に伝えたいのか、
「では、失礼します!」
と深々と一礼し、背を向けると駆け出して見る間に姿を消したのだった。その様子に、さすがのライティラも悪い事をしたかと、ちょっとだけ思った。
ふと、背後から殺気を感じた。その隠そうとすらしないあからさまな気配に歴戦の軍人たる彼は微塵も動じず、廊下に面した庭に目を向ける態を装い視界の片隅に殺気の主を掠めさせる。黒髪の青年が、背を向け走り去るところだった。
青年はそのまま宿舎まで駆け、さらに自室まで走ると寝台≪ベッド≫に身を放り投げた。運動能力に優れた彼が空中で身をひねり仰向けに圧し掛かると、ギシリと寝台から悲鳴が上がる。
「バルバールに行くだと!? ふざけるな!」
聞く者とて居ない部屋に青年の怒声が響く。
やつらには誇りというものが無いのか! バルバール海軍の奴等に、どれだけ多くのランリエル海軍の船が沈められたと思っているんだ! それを犬っころのように尻尾を振りやがって!
しかも、何が見込みがあれば連れて行ってやるだ!!
「絶対にいつかぶっ殺してやる!!」
再度叫んだ青年の寝台の上に、ランリエル海軍軍艦の絵画が飾られていた。仰向けになる青年の目にもそれが映る。大切にしていた絵だった。だが……それは無残にも大きく切り裂かれていた。
「ちくしょう……」
それは怒声ではなく、小さな呟きだった。
ライティラがランリエルに来て数日が過ぎた。ランリエル士官候補生達へ教鞭を執るのも毎日という訳ではなく、その日講義は無かった。
とはいえ、彼にはランリエルに知人などおらず、また候補生達と親睦を深める為に、わざわざ休日に皆を集め会食をするなどという性格ではない。さらに言えば、折角ランリエルに来たのだからと、ランリエル観光をしようなどという趣味もなかった。だが事実暇を持て余す。船に乗り海を旅する時は狭い船内で何ヶ月でも耐えられる男だが、陸に上がった時にまでその忍耐力を発揮する気は無い。
とりあえず当ても無しに部屋を出て、ランリエル王都の城下町を練り歩いた。さすがに東方一の大国と呼ばれるだけあって、祖国バルバールの城下町とは比べ物にならないほど人が多い。しかし彼にとっては、まさに「人が多い」以外の感想は無い。
「まったく! 海軍士官の教育なら、海でするべきだろうに」
潮の香りが懐かしく、つい愚痴が零れた。教える戦術を一々艦隊を出港させて動かして確認するなど、経費が掛り過ぎて不可能だ。机上学習ならば、候補生達を集めやすい王都でやるのがやり易い。だが、常に潮風を浴びる事こそが船乗りには重要なのだ。
同じ角度に船を曲げるにしても、風の強さの僅かな違いで傾ける帆の角度も違う。それは常に潮風に打たれてこそ分かる’感覚’であって、机の上で学べるものではないのだ。確かに彼らは士官候補生。自ら帆を張り櫂を漕ぐ訳ではあるまいが、船とはどの程度の動きが出来るか知らずに指揮など出来るものか。
ライティラにしてみれば、海軍軍略を学ばせる前に海に放り込むべきなのだ。それをこれが大国のやり方なのか、万事お上品過ぎて行けない。これでは先が思いやられる。ランリエルの国力を考えればバルバール海軍よりも遥かに大規模な艦隊を揃えられるのに、肝心のそれを統率できる提督が育ちそうにない。ジェラルドなどは優秀だが、その分小さく纏まっている感も否めない。大艦隊を率いるなら、才も必要だが器も必要なのだ。
そこに、ライティラの脳裏に1人の男の顔が浮ぶ。2年前のランリエル王国沖海戦で敵将だった男だ。ランリエル艦隊提督カロージオ。勇敢な男だった。己の能力を信じ他を軽んじる傾向のあるライティラにして、そう認めていた。
自分と比べればまだまだ未熟だった。自分が仕掛けた二重、三重の罠に嵌り、両国の艦艇は入り乱れ乱戦状態となった。そして数はランリエル艦隊が上回っていたが、艦艇、船員の質では比べ物にならず、バルバール艦隊の勝利は揺るがない。ならば負けるにしても、乱戦状態なのを幸いに敵艦を一隻でも多く沈める。並みの者ならそう考える。
ランリエル艦隊提督カロージオは違った。乱戦となり退却すらままならぬ体勢から、まさにその退却を行ったのだ。艦隊の役割とは制海権を取る事。その為には敵艦を全滅させるにしくは無い。バルバール艦隊の損害が増えようとも、敵艦隊を全滅させる為に乱戦に持ち込んだ。そのライティラの意図にカロージオは気付いたのだ。
彼ならば、ランリエル大艦隊を率いるに足る提督となった。だが彼はもういない。その時の戦いで、旗艦諸共、海に帰ったのだ。
惜しい男だった。ライティラは素直にそう思った。そして、休日にもかかわらず海軍府へと足を向けた。そこに行けばカロージオの墓の場所ぐらい分かるだろう。
そこは貴族用の墓地だった。ライティラから見れば、死者にこんな立派な物は不要、そう思うほどの美石で作られた墓が幾つも並んでいる。良く管理されているのか芝は綺麗に刈り揃えられ、まるで緑の絨毯のように広がっている。
海軍府で教えて貰った区画に行き、墓の名前を確認しながら探すとすぐに見つかった。墓にはマルコ・カロージオという名前と、生没年が刻まれている。勿論その終わりの年は、ランリエル王国沖海戦が行われた年だ。
しかしなんとなく思い立って来てみたものの、実際特に用がある訳ではない。花を持って来ている訳でもない。ましてや
「貴方に代わり、ランリエル海軍は私が立派に立て直して見せます」
などと言いに来た訳ではない。ランリエルには頼まれたから教えに来ただけで、ランリエル海軍はランリエル海軍将校達が立て直すべきなのだ。
ただなんとなく、カロージオ提督の墓石を眺めていた。改めて生没年を見て、33歳だったのかと思い、名前のところに蟻が歩いているを見て、蟻がこんなところに何の用があるのかと考えた。さらに隅々まで眺めた。墓石を眺めるのも意外と退屈せぬものだ。と、奇妙な感想を抱いていたライティラの背後から、不意に声が掛った。
「あの……どちら様でしょうか?」
ライティラはその声に目を向けた。長く美しい黒髪を持つ女性だった。瞳はそれに比べ薄く茶色がかっていた。それだけに黒髪の美しさが映え、風に少しなびいている。
思わず見とれた。ライティラは表情が乏しいのが幸いし間抜け面を晒さずにすんだが、女性はむしろ睨まれていると感じたようだ。そのせいか美しい黒髪に挟まれた視線が鋭くなる。
「それは、私の夫の墓なのですが」
それがバルバール海軍提督ライティラと、カロージオ夫人との出会いだった。
ライティラは、カロージオ夫人の邸宅に招かれた。それは立派な屋敷だったが、その門の前に立ったライティラは奇妙な感覚に襲われた。一瞬空き家なのかと思うほど全体が薄汚れている。
居間に通されるとそこは綺麗に掃除が行き届いておりおかしいところは無い。大国の事だ。変わった趣味の人なのかも知れない。気のせいと考え、勧められるままソファーに腰掛けた。夫人も御茶を運んで来た後、ソファーに向かい合って座る。
夫人がカップを口元に近づけながら口を開いた。
「夫は、よく貴方の話をしていました」
言った後、カップに口を付け音もなく一口茶を啜る。
「私のですか?」
「ええ。ランリエル海軍の技術は、バルバール海軍に10年は遅れている。しかもバルバール海軍には名将がいる。ランリエルに匹敵する大国であり、さらに技術においてもバルバールに負けないはずのコスティラ海軍の大艦隊に不敗を誇っている。この戦いが終わったら、ランリエル海軍は彼に教えを請うべきだ。夫はそう言っていました」
「そうですか」
面と向かい大絶賛され、さすがに自己の能力に自信のあるライティラすら面映ゆく感じた。微笑みライティラを見つめる彼女から目を逸らす為、俯いてカップに手を付ける。
「過去にも名将は大勢いるが、技術は日々進歩している。学ぶなら過去の名将より現在の名将に学ぶべきだ。って、貴方にお会いできる日を楽しみにしておりました」
その声にカップに伸ばした手を止め顔を上げると、悪戯っぽいものを含んだ笑みを浮かべる夫人の顔があった。
「夫は、本当に貴方を尊敬していて……。私が、少し焼きもちを焼いてしまうくらいに」
「そうですか」
どう言ったものかと考えたライティラだったが、結局さっきと同じ言葉を吐き、止めていた手の動きを再開させる。
「バルバールと戦うと決まった時、夫は言っていました。船の数はランリエルの方が多い。普通ならばランリエルの勝ちだ。だが、私は彼の足元にも及ばない。負けるとすれば、私の責任だ、て。そして私がもし帰って来なくても彼を憎むな、と。戦い負ければ命を落とすのは、相手も同じだって」
「では、貴方の夫を死なせた私を憎んでいないと?」
つい、ライティラは問うていた。それに対し夫人はカップに目を落とし答える。
「ええ。憎んではおりません」
「そうですか」
三度目の同じ言葉を吐き、ライティラはカップに口を近づけた。三度目の、そうですか、は幾分、ほっとした口調だった。
「嘘です」
「え?」
カップに口が触れる寸前、顔を上げたライティラの視線の先に、夫人の鋭い瞳があった。さっきまでの笑みは消えうせ、夫の仇を睨んでいる。
「冗談じゃありません。そんな訳ないじゃないですか。大切な人が殺されたのです。戦いの上でだからだなんて、そんな綺麗事で納得するほど、私は人間が出来ておりません」
夫人は彼を睨み続けている。ライティラは何も言えず、目を逸らす事も出来ない。夫人の言う通りなのだと、ライティラは思った。
立派な男だったのだ。彼は最後、敵将に頭を下げたのだ。無論命乞いの為ではない。負けた事を素直に求め、勉強になりました、と頭を下げた。誰にでも出来る事ではない。自分にも出来ない。そう思い、勝利したはずの自分が敗北感すら覚えた。2人と居ない男なのだ。それほどの男を失った女が、仕方がないのだと、そう簡単に相手を許せるはずが無い。
不意に、夫人が視線を落とし手に持ったままのカップを見つめた。
「でも、今日、お墓の前に居る貴方を見て、夫の言っていた言葉の意味が少し分かった気がします。男の人達って……そういうものなのでしょうか」
「あ、いえ、まぁ……」
カロージオの墓に行ったのは、ただの気まぐれなのだ。とも言えず、ライティラは口籠った。自身かなり図太い方だと思っているのだが、なぜかこの夫人の前ではそれが上手く出ない。
その後2人は黙り込み、しばらく黙々と茶を啜った。
「御代りは如何ですか?」
「あ、はい」
夫人の問いに、ライティラは反射的に答えていた。いつの間にかカップは空になっていたのだ。夫人がお盆を持って奥に下がり、しばらくした後、空のカップの代わりに御茶を満たしたカップを乗せ戻ってくる。やはり、おかしいと、思わず夫人に視線を向けると、その視線に気付いた夫人が自嘲気味な笑みを浮かべる。
「侍女も居ないのか、と、言いたいのでしょ?」
「ええ、まあ」
「みんな出て行きました。召使も全員。恥ずかしいからですって」
そう言いながらお盆を置いた夫人は、仕方ないですよね、というふうに肩を竦めた。
「恥ずかしいとは?」
ライティラが喋っている間に彼の前にカップを置き、夫人は自分のカップを口元に持って行き、唇に触れる寸前で止めた。
「だって、夫はバルバール艦隊の目の前まで行きながら、回れ右して敵前逃亡したのでしょ? そんな人が居た屋敷でなんて働けない、ですって。もしかして夫は、私の為に帰って来ようとしてくれたの――」
「馬鹿な!!」
思わず叫び立ち上がっていた。突然の夫の仇の怒声に、夫人は目を丸くしライティラを見つめている。
「私は彼ほど勇敢な男を見た事が無い。あの状況で戦闘を継続するなど馬鹿のする事だ! 海軍軍略とは制海権を取るか。取らせないかだ。敵に被害を与えても自艦隊が全滅しては意味が無い。勝利が見込めないなら、いかに艦艇を生き残らせるか。それを考えるべきなのだ。それを――」
「あの……すみませんけど、そんな難しい話をされても、私には分からないのですが」
見ると、夫人が困惑した表情で見ていた。その声に、つい取りみだしてしまったと、ライティラの頭も冷め改めて椅子に座る。
「これは、失礼しました」
と、手に持ったカップに視線を落とし口元に近づけた。だが、やはり納得出来ず怒りに眉間に皺がよる。
ランリエル海軍には、彼がなぜ退却したのか、それすら分かる者が居ないのか。自身が認める者が不当な評価を受ける事実に、ライティラは己が侮辱されたかのように感じた。
苛立ち、しかし夫人と目を合わせるのは躊躇われ、視線を泳がせるライティラの耳に、その夫人の声の震える声が聞こえる。
「でも、夫を……勇敢だと言ってくれた事は、お礼申し上げます。ありがとう……御座います」
その声にライティラが顔を上げると、夫人の目から涙が溢れていた。左右に流れる美しい黒髪の間に、宝石を溶かしたような滴が形のよい頬をつたり、口元にあるカップに波紋を作っている。
ライティラはその姿に見とれ、つい手元が緩んだ。
「わちっ!」
と、叫び、淹れたての熱い御茶を太ももに溢したバルバール海軍の名将は、椅子から跳びはねた。だが、手にしたカップを落とさず、さらに片手で御茶が掛ったズボンの部分を指でつまみ、太ももに当たらないようにしながら、カップをテーブルにゆっくり置いたのは、ある意味さすがだった。
夫の仇の失態に、夫人は涙を流しながらもクスリと笑い、ハンカチを取り出し、
「染みにならなければ良いのですけど」
と手を伸ばし、ハンカチをライティラの太ももに押し当てる。だが、瞬間ライティラはそのハンカチを取り上げていた。
「大丈夫です。自分で出来ます!」
「あ、そうですか」
と、夫人は唖然とし、まだ涙の残る瞳でライティラを見つめている。
決して若いとは言えないがライティラの心臓が、夫人に触れられた事に、思春期の少年のように激しく鳴り響いた。あまりの失態続きに、居たたまれなくなたライティラは、そのまま席を立つと
「今日はこれで失礼します」
と、挨拶もそこそこに扉へと向かった。
夫人も訳の分からぬまま、突然帰ると言いだした客人に引かれるように席を立つ。だが客人の足は速く、夫人が廊下に出たころには、既にライティラは玄関からも姿を消していたのだった。
足早に屋敷を出たライティラは、後ろに夫人の姿が無い事を確認すると足を緩めた。そして手に夫人のハンカチを握っているのに気付く。夫人から取り上げ、そのまま持って来てしまったのだ。
手に持つハンカチを見つめる彼の脳裏に、彼女の様々な姿が浮かんだ。返しに行かなくてはならない。だが、決断力に優れているはずのバルバール海軍の名将は、どうしたものかと、しばらくその場に佇んでいた。