向こう岸の煙突
夕方、川沿いのベンチに男は座っていた。ポケットには鍵がひとつだけ入っている。どこの鍵か、男自身にもはっきりしなかった。重さだけが、やけに現実的だった。
川面には光がまだらに揺れている。上流では工事の音がしていたが、ここまでは届かない。代わりに、時折、遠くの踏切の警報が風に混じって聞こえた。男はそれを、何かの合図のようにも、ただの雑音のようにも感じていた。
しばらくして、女が隣に腰を下ろした。互いに顔は見ない。二人の間には、空気よりも薄い沈黙があった。女の手にも鍵があったが、男はそれに気づかないふりをした。気づいたところで、言う言葉が見つからなかったからだ。
「まだ間に合うと思う?」と女が言った。
男は答えなかった。何に対してか、わからなかったからだ。間に合うという言葉は、希望にも後悔にも、どちらにも聞こえた。男がふと草をもぎ取ると、四葉のクローバーだった。もちろん、男は無視してそれを草原の中に捨てた。
川を一艘の小舟が通り過ぎた。乗っているのは老人一人で、櫂の動きはゆっくりだ。男は、あの速度なら、どこへでも行ける気がしたし、どこにも辿り着けない気もした。
女は立ち上がり、鍵をベンチに置いた。「預かって」とだけ言って、背を向ける。男は呼び止めなかった。呼ばなかったことが正しかったのかどうかも、判断できなかった。
日が沈み、川は急に暗くなった。男は二つの鍵を手のひらで転がす。噛み合うことはないが、捨てる理由も見当たらない。
やがて、男は立ち上がり、どちらの方向とも言えない方へ歩き出した。踏切の音は、いつの間にか止んでいた。
「煙突は五つありますよ」
と川の上で老人の漕ぐボートに乗った女は叫んだのだった。男がみると、川の向こうには煙突が三つ煙を出している。
「向こうの町でもウェイター!頑張って!」
と男は叫ぶと走り出した。草薮には、三人の屈強な男たちがしゃがんでいた。通り過ぎる男を見ると一人がつぶやいた。
「これだから、ファミリーレストランが潰れるんだよ」
男は走りながら、自分がどこへ向かっているのかを考えなかった。考えた瞬間に足が止まりそうだったからだ。煙突が三本しか見えない町と、五本あると言い切った女。その食い違いは、訂正すべき事実というより、選択肢のように感じられた。
草薮の三人組の視線が背中に残る。彼らは追ってこなかった。ただ、世界の側に立って、世界の都合を代弁しただけだった。男は一度だけ振り返り、彼らがもう話題を変えているのを見た。自分が通り過ぎたこと自体、すでにどうでもいい出来事になっていた。
川沿いの道を抜けると、白い建物が見えた。看板は外され、窓には紙が貼られている。男は立ち止まり、ポケットの鍵を一つ取り出した。合うかどうかは問題ではなかった。ただ、差し込むべき場所が、そこにある気がした。
鍵穴は思ったより浅く、抵抗もなく回った。音はしなかった。中に入ると、テーブルと椅子がいくつか残っていて、床にはまだ、油と洗剤の混じった匂いが残っていた。男は、ここで何年も立ち続けていた自分の姿を、他人事のように思い出した。
ベンチに置かれたもう一つの鍵を、男は掌で確かめる。こちらは使わなかった。使わないという選択をした、というより、使う理由がなかった。それでも捨てなかったのは、誰かの未来を完全に否定するほど、彼は確信を持てなかったからだ。
外では、煙突の煙が風に流れて、数がわからなくなっていた。三本にも見えたし、五本にも見えた。男はそれを確かめに行こうとは思わなかった。確かめた瞬間に、どちらかが消えてしまいそうだったからだ。
男は椅子に腰を下ろし、しばらく何もしなかった。踏切の音はもう聞こえない。代わりに、どこかで食器が触れ合うような、かすかな音がした気がした。それが幻でも構わなかった。
やがて男は立ち上がり、灯りを点けずに扉を閉めた。鍵はかけなかった。必要な人が来たら、入れるように。
川の方から、老人の櫂の音が一度だけ聞こえた。
男はそれを合図とも雑音とも取らず、ただ、今日の出来事の終わりとして受け取った。
「俺よりもあの爺さんを選ぶんだな……キャサリンは……」
船の上の爺さんは煙突工事の天才であった。彼の作る煙突は普通の煙突よりも二倍持つのらしい……。もし、男に煙突工事のスキルがあったらこんな悲劇は起こらなかっただろう……。




