第7章 灯火の継承
夜が降りる。
風見の丘で見た光景が、まだ瞼の裏に残っていた。
あの鐘の音。遠くから響いた、たったひとつの音色が、いまも胸の奥で続いている。
部屋の中は静かだ。
机の上には、今日書いたばかりの観察記録のノート。
柚子の瓶。ラベンダーの瓶。そして、折りたたんだ紙――
風見の丘で書いた、「優しさの地図」。
私はペンを取った。
インクをつける指が震える。
でも、それは寒さのせいじゃない。
――何かが、変わる気がした。
ドアが、二度叩かれる。
「入っていい?」
兄様の声。
「どうぞ」
彼が入ってくる。少し息を弾ませていた。
「ルサール卿が父上のもとへ行った。……“灯火の継承式”を提案したんだ」
「継承式?」
「昔、火の時代に行われていた“誓い”の儀。
でも、今回は“照らすだけ”の灯りとして――王国が正式に、新しい灯を立てる」
「それって……」
「うん。君が“初めての継承者”になるらしい」
ペンが手から滑り落ちた。
「私が……?」
「君が消えた灯を点け直した。あれは儀式でも偶然でもない。
怖れを受け入れて、信じて、灯した。
それを見た人たちが、“もう一度、この国を照らせる”って」
「……そんな、大それたこと」
「大それてなんかないよ。昨日までの実験の延長だ」
兄様が笑う。
でも、その笑みの中に、少しの緊張が見えた。
「いつ?」
「明日。夜明け前」
「夜明け前……」
「光がいちばん必要な時間だから、だって」
私は頷いた。
怖くないわけじゃなかった。
でも、逃げたいとは思わなかった。
――
翌朝。
空の底が、少しずつ群青に変わっていく。
礼拝堂には、家族と数名の臣下だけが集まっていた。
祭壇の上には、銀の灯台。その芯はまだ空のまま。
ルサール卿が前に出て、低い声で言う。
「火は過去を焼き、灯は未来を照らす。
本日より、王国は“灯火の誓い”を新たにする」
彼が一歩下がり、私を見る。
兄様が頷く。父と母も、静かに微笑んだ。
私は歩き出した。
足音が石に吸い込まれていく。
手の中には、柚子の瓶。
ラベンダーの瓶。
そして、ノートの切れ端――“優しさの地図”と書いた紙。
祭壇の前で立ち止まり、瓶を開ける。
香りが、夜明けの空気に混ざる。
柑橘と花と、少しの蜜の匂い。
「……この世界は、優しすぎると思っていました」
声が震えた。けれど、続けた。
「でも、優しさには裏があるんじゃなくて、裏にも誰かの手がありました。
灯火を渡してくれる人たちがいました。
だから、私は――この灯りを、渡します」
紙をそっと、灯台の下に置く。
兄様が、蝋燭の芯を差し出した。
私はその先端に、柚子のオイルを一滴垂らす。
火をつける――のではない。
手をかざす。
瞬間、光が生まれた。
炎ではなく、光。
燃えるのではなく、照らす。
柑橘と花の匂いが重なって、礼拝堂全体が薄く金色に染まった。
ルサール卿が膝をついた。
父が深く頭を垂れ、母の瞳が光を映した。
兄様が、そっと私の肩に手を置く。
「レティ。灯りは、君が思っているより遠くまで届く」
その言葉とともに、鐘が鳴った。
今度はひとつではない。
遠くの町々から、いくつもの鐘の音が重なって響いてくる。
――風見の丘の地図が、再び息を吹き返したのだ。
私は、光の中でゆっくり目を閉じた。
前世の記憶が、最後の焔のように揺れて、静かに溶けていく。
“魔女”だった自分の手を、“灯火の継承者”として見つめ直す。
火は、もう怖くない。
光は、燃やすためではなく、渡すためにある。
やがて鐘の音が止み、光が静かに落ち着いた。
礼拝堂の扉が開く。
朝の風が流れ込み、空が淡く白む。
私は振り返り、家族を見た。
父がうなずき、母が微笑み、兄様が親指を立てる。
ルサール卿が言った。
「これで、王国の地図は、再び灯りました」
私は微笑みながら答える。
「観察、終了です。――結果は“信じてよかった”」
外に出ると、朝の光が眩しかった。
遠くの丘の上、風見塔がゆっくりと回る。
その羽根が朝日を掴んで、きらりと光った。
私は胸の中で呟く。
――ありがとう。優しすぎる世界。
あなたは、確かに本物でした。
そして歩き出す。
この灯りを、次の誰かへ渡すために。
(完)