第6章 風見の丘の地図
風が、春の匂いを少しだけ含んでいた。
まだ雪は溶けきっていないのに、光の中に草の気配がある。
私は、兄様と並んで丘の道を登っていた。
足元の土は凍っているのに、鳥の声が柔らかい。
空気の層が変わっていく。あの風見の丘の上には、たぶん何かが待っている。
途中、兄様がふと立ち止まる。
「昨日、ルサール卿が言ってた“風見の印”、気になるんだろ?」
「うん。……あの印が、本当に“帰る地図”の一部なら、見ておきたい」
「今日は観察じゃなくて、調査だね」
「調査の定義は?」
「観察したあと、自分の言葉で書き換えること」
「……兄様、それ“研究主任”っぽい」
「研究主任の妹だからね」
笑い合って歩き出す。
丘の上に着くと、風見塔の根元に古い石板が埋まっていた。
表面の苔を指で払うと、刻まれた線が露わになる。
北、南、東、西。
それぞれに細い線が伸び、途中で枝分かれして円を描いている。
「……これ、地図?」
「たぶんね。王都を中心に、各地の“灯火所”を結んだ道筋だ」
「灯火所?」
「昔、王国中にあった。災いの時に、人々が帰る方角を示す灯りを保つ場所。
――廃れたと思われていたけど、残っていたんだ」
私は膝をついて、線を目で追う。
東の枝の先に、王城の形によく似た模様がある。
「兄様、ここが今の城?」
「そうだ。……そして、この線が“抜け道”と重なる」
「じゃあ、帰る道は最初から王国全体に繋がってたんだ」
「そう。レティ、君が見つけた抜け道は、地図の一部に過ぎない」
風が頬を撫でる。
この国の優しさは、ひとつの家族のものじゃなく、昔から続く“仕組み”のような気がした。
「……灯火所、今もあるのかな」
「試してみようか」
兄様が腰の袋から、昨日の柚子の瓶を取り出した。
「灯りを点ける代わりに、匂いを置こう。君の研究の最新版」
瓶の栓を開けると、風がふわりと柑橘を運んでいく。
それは、冷たい空気の中に春の形を描いた。
そのとき、丘のふもとから馬の嘶きが聞こえた。
振り向くと、ルサール卿が馬を引いてこちらへ向かってくる。
「お二人とも、早いですね」
「卿も?」
「王の命で、記録を写し取るようにと。――これは思った以上に貴重です」
ルサールは石板を見下ろし、眉を動かした。
「……風見の印。懐かしい」
「卿、知っているの?」
「ええ。私の祖先は、灯火所の守人のひとりでした。
火を見張り、風を読む家系。だから私は“風を読む目”を持っている」
「刃の光みたいな目?」
「ほう。よく見ておられる」
ルサールの口元がわずかに笑う。
「刃も灯火も、研がねば鈍る。灯りを守るとは、刃を向けないための技でもあるのです」
兄様が地図の上の一点を指さした。
「この印の形、少し欠けてる。南西の枝が、途中で切れてるんだ」
「そこは、古戦場だ」
ルサールが即答する。
「失われた灯火所がある。……王は再建を考えておられる。
ただし、それを点ける資格があるのは、“灯火の継承者”だけだ」
「灯火の……継承者?」
「血筋ではなく、“灯りを怖れずに手で触れた者”。」
その言葉に、兄様が私の方を見た。
私は、何も言えなかった。
昨夜、私は確かに、消えた灯りの代わりに息を吹きかけて、火を点け直した。
――怖かった。でも、手を伸ばした。
ルサールは馬を風見塔の影に繋ぎ、私の前で片膝をついた。
「王女殿下。お願いがございます」
「……お願い?」
「この地図を“今の灯り”で繋ぎ直してください。
あなたの書く文字で。匂いでも、歌でも構わない。
かつての灯火所は、言葉の途切れとともに消えたのです」
私は兄様と視線を交わす。
「兄様、私、できるかな」
「研究主任としての最初の実地試験だよ」
「……そう聞くと難しい」
「簡単だ。自分の信じた光を一行、書くだけ」
私はノートを取り出した。
風がページをめくり、空の一枚で止まる。
ペン先を置く。インクが一滴、紙に落ちる。
そして、ゆっくりと書いた。
――“優しさの地図、帰る道は今も灯っている。
誰かが消したら、誰かが点ける。
その手が届く限り、私は信じる。”
書き終えたとき、風が一度、強く吹いた。
塔の頂の風見が回る。金属のきしむ音が空に混じる。
ルサールが息を呑んだ。
「……聞こえましたか?」
「何を?」
「鐘の音です。古い灯火所の鐘が、ひとつだけ鳴った」
兄様が空を見上げた。
遠くの雲の向こう、微かな音。
それは確かに、誰かが“帰ってきた”合図のように響いていた。
風が止むと、丘に静けさが戻った。
私は紙を折り、石板の隅に置いた。
柚子の香りが、それを包む。
「これで、再点灯完了」
兄様が言う。
「実験成功です」
「観察記録に書かないと」
「それなら今度は、“王国観察記”だね」
「そんな大きな研究は、まだ早いよ」
「でも、きっと君が書く。灯火の継承者として」
私は顔を上げ、笑った。
丘を降りる途中、空が明るくなった。
遠くの町で、新しい灯りがともったのが見えた。
たぶん、昨日消えたあの灯火が。
風はもう冷たくなかった。
私は心の中で呟く。
――優しすぎる世界。
その優しさは罠なんかじゃない。
たくさんの灯火をつないだ、帰るための地図だったんだ。
そして私は、その地図の上を歩きながら、次の一行を考える。
“信じるという実験は、今も続く。
今日の灯火を、明日へ渡すために。”