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第5章 灯火の試験

 朝の光はやわらかかったが、城の空気にはほんの少しだけ、金属めいた緊張の匂いが混じっていた。

 廊下を渡る兵士の足音が、いつもより半拍早い。台所の鍋も、やや強い火にかけられている。何が起きるのか、まだ誰も言葉にしないのに、音だけが先に知らせてくる。


「レティ」

 兄様――アドリアンが部屋に入ってきて、いつもの笑顔を少しだけ引き締めたものに変えた。

「今朝、北方から使者が来る。父上の前で“古い儀礼”の記録を照合したいと申し入れてきた。礼拝堂も見たいらしい」

「古い儀礼……」

 胸の奥を小さく棘がかすめる。《火》のページが脳裏に浮かぶ。

「私は?」

「君は普段どおりでいてね。ただ、東棟には僕と一緒のとき以外は近づかないこと。いい?」

「……はい」

 素直に頷きながら、指先に力が入る。守られている、と分かるほど、外の風が鋭利になる。


 午前。執務室に向かう父の背はいつもどおり真っ直ぐで、しかし肩の上に置かれた空気の重さは違って見えた。

 母は袖口を整えながら、私の頬にそっと触れる。

「今日は歌の練習は夕刻にしましょう。昼は、お手紙を書くのを手伝って」

「どなたへ?」

「城下の孤児院へ。冬の支度のための寄付と、灯りの油の小瓶を数本。あなたの言葉でね」

 小さな任務が与えられると、心の波が少し落ち着いた。灯油の小瓶に紐で結ぶ紙片の文言を考えながら、私は机に向かう。


 ――“灯りは帰る道。もし迷ったら、この匂いを嗅いで、胸の真ん中の灯火を思い出してください。必ず誰かの手が、そこへ続いています。――レティシア”

 書いているうちに、文面が自分の胸にも返ってくる。

 封を結び終えたちょうどそのとき、遠くで鐘が二度短く鳴った。合図。来客の到着だ。


 昼前、城の中庭の端で一行を見た。毛皮の縁取りをした外套、硬い目つき、礼を欠かさない動作。

 先頭で挨拶を交わしている父と、その横で一歩引いて全体を見ているルサール卿。

 刃の光沢を持つ笑みは今日も変わらない。だが、その刃は向けられていない。今は鞘の中で、状況を測っている顔だ。


 兄様は私の肩に手を置いた。

「近くで見るのはここまで」

「うん。……礼拝堂は、連れていくの?」

「見せること自体は拒めない。王国は“火をやめた”ことを、公に示してきた。だから隠さない。でも、境界線は守るよ」

「境界線」

 私の言葉を兄様が繰り返し、片目をつむる。

「君の研究、王国版」


 正午を少し回ったころ。薄く曇った空が、淡い灰を庭に落とす。

 私は音楽室へ向かおうとして、足を止めた。心の中で、ひっかかる音がしたのだ。

 ――灯り。

 抜け道の灯りは、今朝、誰が確かめたのだろう。マレーナ? それとも彼女は使者への応対で手が離せない?

 胸がきゅ、と小さく収縮する。

 “帰る道”が、今日だけ手薄になる可能性。

 私は迷って、それから決めた。

 観察者は、恐れから逃げずに“測る”。

 私は東棟へ足を向けた。


 回廊は静かだった。礼拝堂の手前で、私は足音を最小に落とす。

 扉は閉ざされている。人の気配は遠い。

 祭壇の横、石の板。

 手を当てると、いつものように軽く動いた。冷たい空気が頬を撫でる。

 階段の上で深呼吸。今日の境界は“二段”。それだけ降りて、灯りを確認する――それが目的。


「一段」

 石の感触を確かめる。

「二段」

 目を凝らす。闇の底で、小さな粒のような光――いつもの灯りが、規則正しく間隔を開けて並んでいる。

 安堵が胸をゆるめる。

 ――大丈夫。帰る道は、今日も点いてる。

 踵を返しかけた、そのときだった。

 遠くの方で、微かな“風の吸い込み”の音がした。灯が、ひとつだけ、ふっと揺らぎ、消えた。


 私は息を呑んだ。

 何かが通った? 風圧? それとも――

 耳を澄ませる。静寂。だが、静かすぎるのは、音の代わりに気配が濃いから。

 私は境界を破らなかった。足を踏み出さず、上を向いた。

「……戻る」

 決めた通りに。私は階段を上がり、石を閉じた。


 礼拝堂の扉に手をかけた瞬間、外から音。

 誰かが近づく足音。二人分。

 私は祭壇の影へ身を滑らせた。

 扉がきしみ、淡い光の帯が床を横切る。

「ここだ。古い堂」

 低い声。北方の言葉の訛り。

「王は“廃した”と言う。だが、廃したものほど跡が濃い」

「……儀礼の痕を確かめる、と」

 もうひとりの声は若い。紙をめくる音がする。

「もし床下の通路が生きているなら、我らの城にも同じものが眠っているはずだ。戦の折には“帰る道”は攻め口にもなる」

 私は思わず拳を握った。

 帰る道を、攻め道に。

 言葉にした瞬間、喉の奥が熱を持つ。

 ――違う。

 それは違う、と声を上げたくなった。けれど、今は影。観察者。

 兄様なら、こう言うだろう。“聞いて、測って、持ち帰る”。

 私は自分の心を、柚子とラベンダーで落ち着かせる。

 靴音が近づき、祭壇の前で止まる。

「床の石を起こした跡があるな」

 冷たい視線が石をなぞる気配。

 次の瞬間、もう片方の足音が駆け寄ってきた。

「ここで何をしている」

 兄様の声だった。

 強くはないが、揺らがない声。

「王子殿下。礼拝堂の構造を拝見しておりました」

「案内なく開けることは許されない。これは“記憶”の部屋だ」

「王国の記憶を学びたいのです」

「なら、言いなさい。境界線は、守るためにある」

 短い沈黙。

「失礼を」

 北方の使者が頭を垂れる気配。兄様は彼らを扉へと導いた。

 扉が閉じ、足音が遠ざかる。

 私は影から姿を出す。胸の鼓動で肋骨が細かく震えている。

「……境界線、ありがとう」

 誰にともなく小さく言って、私は音もなく礼拝堂を後にした。


 回廊に出ると、ルサール卿が待っていた。

「王女殿下」

 刃の光沢の笑み。だが今日は、ほんの少しだけ、刃の面が私に寄り添っている気がした。

「よい観察をされましたね」

「……見ていたの?」

「礼拝堂は“古い記憶”です。記憶は、目が多いほど歪みにくい」

 ルサールは声を落とす。

「火はもう使わない。だからこそ、道を消さずに“使い方”を守る必要がある」

 私は頷いた。

「灯りがひとつ、消えました」

 言うか迷ったが、言った。

 ルサールの瞳がわずかに細くなる。

「場所は?」

「階段を二十数えた先。左の壁際」

「……風か、あるいは」

 彼は言葉を切り、短く頭を下げた。

「報せを感謝します。灯りは今日、二度点検しましょう」


 午後。

 使者は執務室で父と長く話し、やがて城門を出て行った。

 雲は低く、雪になるにはまだ早い冷えが空気に混ざる。

 私は音楽室で母と歌った。〈帰るための地図〉は、二度目には少し違う景色を見せてくれる。

 灯火は動かないが、灯りを見る私の目が、昨日より遠くまで届くのだ。


 歌い終えると、母が囁く。

「今日はよく、“待つ”ことができたわね」

「……聞こえてた?」

「礼拝堂の空気が、少し乱れたから」

 母は少しだけ眉を寄せる。「怖かった?」

「怖かった。でも、境界線が助けてくれた」

「境界線を自分で決めて、それを守る。――それは、自分を守る方法でもある」

 私は深く息をつく。

「ねえ、お母様。あの灯りは、誰のためのもの?」

「“戻る人”のためのものよ」

「今日、灯りが一つ消えたの」

 母は目を伏せ、それから静かに頷いた。

「消えることもある。だから、また点ける。あなたが今日書いた手紙と同じ」

 言葉が胸の中で円を描き、静かに落ち着く。


 夕餉の少し前、兄様が駆け込んできた。

「レティ!」

「どうしたの」

「城下で小さな火事。鍛冶屋の炉が吹いたらしい。――大丈夫、怪我人は少ない。けれど、避難の手引きに“帰る道の地図”が役立つ。父上が灯油の小瓶を余らせていないかと」

「孤児院への分なら、もう準備してある!」

 私は机から包みを抱え上げ、兄様に手渡す。

「もうひとつ。礼拝堂の抜け道の出口――外壁の近くの出入り口も念のため確かめる。道が塞がれていないか。ルサール卿とグレンが行く。……来る?」

 喉まで出かかった「行く」を、私はかろうじて飲み込む。

 境界線。

「私はここで、歌と匂いを用意する。戻る人のために」

 兄様は、満足そうに頷いた。

「頼もしい研究主任だ」


 夜。

 外は喧噪と、やがて静けさ。

 私はハープの横で母と並び、柚子の瓶と、ラベンダーの瓶を並べた。

 窓を少し開ける。冷たい風が香りを運んでいく。

 遠くから、足音。急ぎ足。

 扉が叩かれ、マレーナが入ってきた。

「ただいま戻りました。抜け道の外口、無事でございます。道の脇に、古い木箱が倒れておりましたので除けました。……あの灯りは、私が点け直しました」

 私は息を吐いた。

「ありがとう」

「いえ。――お嬢さま。城下の広場に仮の焚き火が。皆、寒さをしのいでおりますが、火の側で、あなたの手紙を回し読みしていました」

「手紙?」

「はい。“灯りは帰る道”と。……皆の顔が、少し和らいで」

 胸がじんわりと温かくなる。

 火は怖い。でも、照らす火は必要だ。

 “燃やすためではなく、帰るために”。

 私は窓辺に立ち、闇の向こうの小さな光を見た。

 多くは焚き火。いくつかは行灯。ひとつは、たぶん星。


 その夜は長く、けれど静かに更けた。

 眠る前に、私はノートを開く。


《実験記録―6》

・礼拝堂で“外の思惑”に出会った。帰る道は、攻め道にもなりうる。

・境界線を守ることで、守れる灯火がある。

・灯りは一つ消え得る。だから、点け直す人がいる仕組みが必要。

・匂いは届く。窓から出した香りが、遠くの人にも“帰る場所”を思い出させる。

・恐れは消えない。でも、測れる恐れは味方だ。


 ペン先を止めると、扉がノックされた。

「レティ、入っていい?」

「どうぞ」

 兄様が入ってきて、部屋の灯りを見回す。

「柚子とラベンダー。混ぜると、いい匂いだね」

「少しだけ、蜂蜜も」

「三滴?」

「今日は二滴」

 二人で笑う。

 兄様は窓辺に立ち、外を見下ろした。

「広場の火は消えた。大丈夫そうだ。――抜け道の出口のそばで、古い印を見つけたよ」

「印?」

「百合の印じゃない。もっと古い、風見の形。方向を示す。多分、昔の“帰る地図”の一部」

「風見……“風見の丘”と同じ?」

「そう。あの丘を中心に、帰る道が描かれていたのかもしれない」

 胸が熱を帯びる。

「見たい」

「明日、明るいときに。ルサール卿にも見せた。彼は、『過去の地図は、今の約束で読み直せる』と言ったよ」

「……刃の笑みの人、いいこと言う」

「うん。彼の刃は、今は僕たちの側で光ってる」

 兄様が私に向き直る。

「レティ。君は今日、どれくらい信じられた?」

 私は考え、指を折る。

「自分を“半分”。家族を“ほとんど”。世界を“少し”。」

「“少し”が、だんだん広がってる」

「うん。……ねえ兄様」

「なに?」

「今度の歌に、もう一節足してもいい? “帰るための地図”に」

「どんな歌詞?」

 私は窓の外の暗さに向けて、ゆっくり言葉を置く。

「『灯火は、誰かが運んだ手のぬくもり。消えたら、別の手が渡す』」

 兄様はしばらく黙って、それから小さく拍手をした。

「いい歌詞だ。明日、母上に見せよう」


 灯りを落とす直前、私は胸の奥の門に触れた。

 門は昨日より軽く、鍵穴は昨日より温かい。

 ――“少しだけ”、開ける。

 そこから入ってくる風は、柚子とラベンダーと、遠い焚き火の匂いが混ざっていた。


 夢。

 暗闇の中、細い道。小さな灯りが等間隔に並んでいる。

 私は幼い私と並んで歩く。

「怖い?」と幼い私が聞く。

「ううん。怖いけど、帰れる」

 幼い私が笑い、指を前に伸ばす。

 灯りの先に、誰かの影が立っていた。

 母? 兄様? マレーナ? ルサール? 父?

 ――みんなの影が重なって、ひとつの輪になった。

 輪は私たちの上に灯りを掲げ、こう言った気がする。

 「帰っておいで」


 翌朝。

 私は目覚めるとすぐに、ノートの新しい頁に一行を書いた。


《研究仮説》

 “優しすぎる世界”の裏側には、たくさんの手がある。

 その手が灯火を運び、地図を直し、境界線を磨いている。

 ――だから私は、この世界を“少しずつ”信じていい。


 そして、“試験”は続く。

 今日の境界は、四段。

 戻る道は、昨日より明るい。

 灯火は、昨日より多い。

 私は、昨日より――ほんの少しだけ、軽い足取りで扉へ向かった。

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