第4章 帰るための地図
夜が浅い。風がまだ青い。
私は、夢の続きを覚えていた。
――門の向こうに見えたのは、あの抜け道とよく似た石の階段。
だけど、そこにはもう炎はなかった。かわりに小さな灯りが並び、柚子の香りがほのかに漂っていた。
目を開けると、まだ夜明け前の色だった。
寝台の上で体を起こし、昨夜の記録ノートをもう一度開く。
《信じるという実験・第2段階》
・三段降りる。
・帰る道を確かめる。
・“誰か”が毎朝灯りを整えている。
・優しさの定義:危険を知らないことではなく、危険の先に“帰る道”を残しておくこと。
――“誰か”という文字に、指が止まる。
マレーナ。
私が眠っている間、この城を守っている人。私が疑いの目を向けても、笑って受け止めてくれる人。
その人が、あの抜け道の灯りを点けている。
それを思った瞬間、胸の奥で何かがじんと熱くなった。
信じる、という行為は、きっと相手を“観察しないこと”ではなく、観察した上で、信じる方を選ぶこと。
私は今日、それを確かめてみたい。
――
朝の食卓で、兄様が言った。
「今日は父上が少し時間をくださるそうだよ」
「お父様が?」
「うん。君の“観察研究”に協力したいって」
「……あの父上が?」
「“観察されるのも王の務めだ”って」
思わずパンを噴き出しそうになった。
「それ、絶対に誰かが吹き込んだ」
「吹き込んだ、というより、説得したんだと思う。母上が」
そうして、私の一日は王の執務室で始まった。
父は大きな机の向こうに座り、書類を一枚ずつ丁寧にめくっている。
ペン先が紙をすべる音が、雨のように規則正しい。
「レティ。観察とは、見ることだけか?」
父が突然、顔を上げた。
「……見ること、だと思います」
「では、見えぬものをどう扱う?」
私は少し考えてから答えた。
「……仮説を立てて、確かめる?」
「なるほど。では、信じるとは?」
「……確かめきれなくても、“そうであってほしい”と願うこと」
父は静かに頷いた。
「ならば、お前の実験は正しい。王も国も、結局は仮説の上に立つ。確かめきれぬものを、どう扱うかが人の値だ」
――この父の言葉が、城の礎を支えているのだろう。
私は思わずまっすぐに姿勢を正した。
「……お父様」
「なんだ」
「この国の“過ち”って、何だったんですか」
父は少しだけ目を伏せ、机の上でペンを止めた。
長い沈黙ののち、低く答えた。
「力で、罪を焼こうとしたことだ」
「火、ですか」
「そうだ。火は便利だ。清め、照らし、守る。だが、一度“正義”を焼き印にすれば、誰もその熱を疑わなくなる」
父の声が、遠い記憶の中の焔と重なる。
「だから我々は、もう燃やさない。照らすだけにする」
私は唇を噛んだ。
――この人が、“終わらせた側”なんだ。
前世の私を焼いた者たちとは違う血筋のはずなのに、血の流れのどこかで、それが断ち切られた。
「レティ」
父が柔らかく続けた。
「お前がこの国を疑うのは、悪いことではない。むしろ必要だ。だが、いつか自分の中にも同じ炎があると気づいたら、どうする?」
「……それも照らすだけにします」
「なら、安心だ」
父は微笑み、書類を閉じた。
執務室を出るころ、兄様が待っていた。
「どうだった?」
「観察成功。王は優しさに理屈をつけるのが得意」
「“優しさに理屈”か。名言だね」
――
昼下がり。
私はマレーナを探して、回廊を歩いた。
彼女は洗濯場の裏で、灯りの油を点検していた。
「マレーナ」
「お嬢さま。お散歩ですか?」
「いいえ。研究です」
「研究?」
「昨日、三段だけ降りました。あの抜け道のことです」
マレーナの手が止まった。油の入った小瓶が光を弾く。
「……そうでしたか」
「マレーナ、毎朝灯りを確かめているんですよね」
「はい。王家の決まりです。誰かが帰ってくる道を、絶やしてはならないと」
「それって、“帰ってこなかった人”のため?」
「ええ。火に飲まれた者たちも、名を奪われた者たちも。――皆、帰ってきたがっているのです」
マレーナの声は、静かで、祈りのようだった。
「お嬢さま」
「はい」
「もし、灯りが消えていたら、どうなさいますか」
「……また点けます」
「どうして?」
「誰かが、帰ってくるかもしれないから」
マレーナは微笑んで、深く頭を下げた。
「そのお言葉、必ず記しておきます」
そのとき、背後から軽い足音。兄様が駆けてくる。
「レティ! 母上が探してたよ。音楽室で」
私が振り返ると、マレーナが手を合わせて言った。
「行ってらっしゃいませ。お嬢さま」
「うん。また灯りの話、しましょう」
「いつでも」
――
音楽室には、母のハープと、今日初めて見る見慣れない楽譜があった。
曲名は〈帰るための地図〉。
母が指を弦に置き、柔らかな旋律が流れ出す。
光がその音をなぞるように、部屋の中で漂った。
「レティ。この曲はね、王国で最初に“火を使わずに葬った人”のための歌なの」
「火を使わずに?」
「ええ。春の花を敷いて、その上に灯りを並べたの。――燃やす代わりに照らすために」
私は息を詰めた。
“照らすだけにする”――父の言葉と重なる。
「歌う?」
「はい」
母の声に導かれ、私は胸の奥で息を整える。
灯火がゆれるように、音が空気を照らす。
そのとき、私はほんの一瞬、あの抜け道の底で誰かが微笑む気配を感じた。
――帰ってきたんだ。
自分の中の“誰か”が。
曲が終わると、母が静かに言った。
「レティ。あなたの声、あの子に似ているわ」
「……あの子?」
「昔、この国で火に消えた少女。魔女と呼ばれたけれど、本当は優しい薬師だった。――でも、もう誰も彼女の名を知らない」
私は答えられなかった。
胸の中で、二つの名前がゆっくり重なり、そして一つに溶けた。
窓の外で風が光を運んでくる。
私は母の肩に頭を預けながら、囁くように言った。
「この世界の優しさ、裏があると思ってた。でも、裏は“帰る道”の裏側だったみたい」
「ええ。優しさにも地図があるのよ。迷ったときは灯りをたどればいい」
その夜、私は実験記録の最後の行にこう書いた。
――
《実験記録―5》
優しさの裏は、罠ではなかった。
それは、帰るための地図だった。
そして私は、ようやくその地図の端を指でなぞることができた。
明日も、灯火をひとつ足そう。
“少しずつ”を積み重ねていけば、いつか本当に――
私はこの世界を、信じられるようになる。