第1章 優しすぎる世界の点検日
――優しすぎる。
この世界は、どう考えても優しすぎる。
目覚めて二日。私はまだ“観察中”だ。
ふわふわのベッド、甘い牛乳の匂い、朝になると小鳥がきっちり時間通りに鳴くし、廊下の絨毯は雲を歩くみたいで足音が吸い込まれていく。――ここまで完璧に「安全です」って主張されると、逆に疑わしい。
だから私は、今日も点検する。優しさの裏を。
カーテンが光を含んで波打つと、扉が二度、控えめに叩かれた。
「お嬢さま、入ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
入ってきたのは侍女長のマレーナ。落ち着いた灰茶の瞳のひと。いつも私の目線に合わせて膝を折り、ゆっくり話す。幼女扱いしすぎない距離感が逆に高度な“信頼形成術”っぽくて怖い。
「本日はご体調もよろしいとのことで、朝餉は温かいパンとポタージュに……あとは、蜂蜜を少々」
「蜂蜜は三滴まででお願いします」
「三滴、承知いたしました」
ほら、絶対に逆らわない。罠だ。従順すぎる。私は試すように言う。
「じゃあ、四滴」
マレーナは一瞬だけ目を瞬かせてから、微笑んだ。
「四滴に変更いたします。ただし本日は侍医の指示で甘味は控えめに、とのことですので、四滴が限度で」
「……」
限度。線引き。きちんと理由。――あれ? この反応、まともだ。まともすぎる。怖い。
私はベッドを降りる。絨毯の端に足を沈めながら、窓辺で背伸びをした。ガラス越しに、日の光に濡れた庭が見える。薔薇のアーチ、噴水、さっきから繰り返し輪を描く白い鳩。舞台美術の手配がよすぎる。
「お母様は?」
「王妃陛下は、午前の祈りののち、薬草園の巡視へ。お嬢さまのご様子をたいそう案じておられました。お手紙を託かっております」
差し出された封には、淡い香草の匂い。封蝋の印は王家の百合。
私は開封前から胸があたたかくなる気配を感じ、慌てて心を冷蔵庫にしまった。
――落ち着け。これは作戦かもしれない。
「あとで読みます。今は……」
「ご朝食の前に、侍医より問診がございます。昨日は『ちょっとこわい夢』を見られたとか」
「夢なんて見てません」
「“ちょっとこわい夢”と、昨夜はおっしゃっていました」
「忘れました」
「では、忘れた夢のことは、忘れたままで」
私の逃げ道を塞がない。追い詰めない。優しさの型が、徹底している。
着替えは淡いクリーム色のワンピース。襟も袖も柔らかく、金糸の縁取りが控えめに光る。鏡に映る私は、見慣れない。
前世の“魔女”だった私は、最後の夜に汚れた外套しか持っていなかった。煤で曇った手鏡に映る顔は、誰かの物語から追い出された悪役の顔だった。
――だから、今の私は、どこか嘘みたいだ。
リボンを結ぶ手を見ていて、指先が震えているのに気づく。私は震えを隠すために、軽口で上書きした。
「この服、逃げやすい素材ですか?」
「逃げやすい……でございますか?」
「走ったり、隠れたり、木に登ったり」
「お嬢さまが木に……?」
マレーナは真面目に考え込む。
「布は丈夫で、丈は少し短めにいたしましょう。走るときは裾を摘まんでください。木登りは……できれば庭師か護衛をお呼びください」
「……木登りを禁止しないんですね」
「止めるより、安全に登っていただくほうが現実的でございます」
危険の否認ではなく、危険の管理。理に適っている。罠にしては丁寧すぎる。
朝食室に入ると、パンの香りに混じって温かい笑い声が流れてきた。
「レティ!」
最初に手を振ったのは兄様――第一王子のアドリアン。明るい栗色の髪、空色の瞳。笑うと、天井が一段高くなる気がする。
「おはよう、よく眠れた?」
「眠れた。二時間ごとに目は覚めたけど」
「それは“よく”とは言えないね」
兄様は椅子から半分立ち上がり、私の椅子を引いた。私は座り、慎重に距離を測る。
向かいには父――国王である。沈黙が重たい人かと思っていたら、今朝は焼きたてのパンの方をじっと見ている。
「レティ、パンは端から食べる派か? それとも真ん中派か?」
「……端からが正しいと聞いたことはあります」
「正しいことは大切だが、美味しいことはもっと大切だ。真ん中が一番柔らかい。今日は真ん中からにしてみるといい」
王の助言に真顔でパンの真ん中をちぎる幼女。滑稽なのに、なぜか胸がほどける。
口に含むと、外の冷たい空気が薄まっていく。バターの音、蜂蜜の光。
――危ない。美味しいは、心の隙になる。
「レティ、今日は何をする?」
兄様が水差しを手に取りながら尋ねる。
「観察です」
「……観察?」
「この世界が、どれだけ優しくできているのか。どこが綻ぶのか。誰が優しすぎるのか。私をどう利用するのか」
「利用、か」
兄様は頬杖をつき、少しだけ目を細めた。その目つきは、どこか私に似ていた。
「じゃあ、僕も観察に付き合うよ。観察対象は――僕と父上、母上、侍女のマレーナ、庭師のエド、侍医のカラン先生、そして……」
「そして?」
「王城の図書塔」
図書塔。聞いた瞬間、背中が熱くなる。
魔女だった頃、本は私にとって唯一の味方だった。紙の間にだけ、私の居場所があった。
「図書塔に入っていいの?」
「君は王女だよ。禁書庫以外は、好きなだけ」
「――禁書庫」
禁じられると、覗きたくなる。
「覗かないよね?」
「覗きません」
私は即答した。兄様は肩を震わせ、ひそひそと付け加える。
「今日は“覗かない”。明日は知らない」
「どうして、私の心の声を読むの」
「顔に書いてある。可愛い字体で」
食後、兄様と手を繋いで回廊を歩く。壁にかかったタペストリは王国の歴史を織り込んでいるらしく、戦場、収穫祭、戴冠式が順番に続いている。鮮やかな糸の波に、私はふと、火の色を思い出して息を呑んだ。
「レティ?」
「……なんでもない」
兄様の手の力が、ほんの少しだけ強くなる。
「いつか、話せるときに話して。僕は急かさない」
――急かさない、という約束ほど、心を救う言葉はない。
図書塔の扉は重い樫で、触れるとひんやりした。螺旋階段は私の足には少し大きく、段差を上るたびに兄様が合図のように「いち、に」と数えた。
最初のフロアは地図と年代記。
二つ目は博物誌。動物の絵、植物の押し花のような挿絵。
三つ目が――神話学と呪術史。
足が止まった。
前世の私は、そこにいた。黒いインクで塗られた頁、焼け焦げた断簡、禁じられた名前。
兄様は私の視線を追い、静かに尋ねる。
「この棚は……こわい?」
「少し」
「別の階に行こうか」
「――少しだけ、見たい」
私は自分に命じるように言った。逃げ続けると、優しさに溺れてしまうかもしれない。怖さを、少しだけ自分で触る。
棚から取り出したのは、薄い革表紙の本。題名は『地方伝承集第二巻』。呪いの手引きではない、はず。
頁をめくると、春の野の歌、祈りの言葉、助産婦の知恵。
――あれ。思っていたより、生活の本だ。
「レティ、これなんてどう?」
兄様が別の本を差し出す。『薬草でつくる冬の保存食』。
「魔女、って呼ばれていたけれど」私は言っていた。「私、ほんとはこういうのが好きだった」
「知ってるよ。君の机の上の乾いたカモミール。見た」
私は耳まで熱くなり、慌てて棚の陰に隠れた。
「観察されてるのは、私の方かもしれない」
「相互観察。公平さは大事だからね」
昼前、侍医のカラン先生が図書塔まで来た。
「体調の聞き取りを、とのことだ。レティ殿下、少しよろしいかな」
「“殿下”は、むずむずします」
「では“レティ”で。昨夜の夢は覚えているかな」
「忘れました」
「よろしい。忘れられる夢は、体に害がない。覚えてしまう夢は、少しずつ薄くする」
「どうやって?」
「新しい匂いと、新しい習慣。たとえば、眠る前に同じ歌を聴く、同じ香りを嗅ぐ」
先生は小瓶を差し出した。薄い青色のガラス。
「ラベンダーに少し、柑橘の皮を。きつい記憶を柔らかくする」
「……薬というより、やさしい魔法みたい」
「そう言われたのは、初めてだ」
先生の目尻に刻まれた皺が、陽の光で深くなる。
私は瓶を胸に当てて、頷いた。
――優しさは、必ずしも陰謀ではないのかもしれない。
頭ではわかっても、心は簡単に許さない。だからこそ、習慣に頼る。新しい優しさを、繰り返し体に覚えさせる。
昼餉のあと、私は自分から提案した。
「庭に出たいです。点検の一環で」
「点検?」父が笑う。「庭の?」
「はい。花壇の配置は逃げ道を遮っていないか、樹の幹の太さは隠れるのに適しているか、池の橋は落ちにくいか。あと、見張りの視線の死角」
父は驚いた顔で私を見、それから小さく頷いた。
「よろしい。護衛は二人。だが先を歩かせはしない。君が先頭だ。自分の足で確かめよ」
私は胸が少し熱くなるのを感じた。命令ではなく、許可。許可ではなく、信頼。
庭に出ると、風が金糸をくすぐるように髪を撫でた。薔薇のアーチの根元には細い通路。大人は身を屈めなければ通れない。
私はしゃがみこみ、葉の隙間から通路の先を覗いた。小さな石畳がパティオにつながり、そこから厩へ、そして城壁の見回り道へ。
「逃げるなら、こっち」
思わず口から漏れた独り言に、兄様が困ったように笑う。
「逃げないでね」
「逃げないために、逃げ道を知るの」
「……それは、理に適っている」
兄様は真剣に頷き、私の手を握った。
「でも、できればここを“帰ってくる場所”として見て」
帰ってくる場所。私はその言葉を喉の奥に転がし、飲み込んだ。甘いのに、少ししょっぱい。
池の橋は思っていたより丈夫で、足を踏み出すと木が低く鳴いた。護衛のひとり――赤茶の髭のグレンが、橋の下を覗き込みながら言う。
「殿下、橋板の釘は昨日打ち直してます。今度は外れません」
「“今度は”?」
「小さな子がかけっこして、板が跳ねましてね。尻もちをついたのは……内緒の話だ」
グレンは口に指を当てて笑う。
隣で、庭師のエドが帽子を押さえた。
「殿下。アーモンドの若木に触れるときは、こっちの面から。芽がね、陽を追うんだ。撫でられると、うれしそうにする」
「木が?」
「木も、うれしい」
エドは当たり前のように言い、私の手をそっと導いた。芽の先が、指先に柔らかな息を吹きかけるように触れる。
私は笑ってしまう。
笑った瞬間、胸の奥の硬い塊が少し、形を変えた。
午後の終わり、回廊の陰で、私は偶然それを見つけた。
壁の彫刻の影――百合の蔓が絡む浮き彫りの下に、小さな石板がひとつだけ色の違うもの。指で押すと、かすかな音がして、石がわずかに奥へ下がった。
……え?
空気が動き、細い隙間から冷たい風が頬を撫でた。
秘密の抜け道。
私はぞくりと背筋を震わせる。
――やっぱり、あった。こういうの。
「レティ、何してるの?」
兄様の声がして、私は慌てて手を引っ込めた。
「観察です」
「どのあたりを?」
「壁の色味。あの、日当たりによる退色の……」
「ふうん」
兄様は私の顔と壁を交互に見て、わざとらしく視線を逸らした。
「じゃあ、今日は観察はここまでにして、音楽室へ行こう。母上が新しい歌を覚えてこられたから」
「歌?」
「眠る前の歌。習慣にするといいって、カラン先生が」
私は、胸元でラベンダーの小瓶を握りしめる。
「……うん」
夕暮れ、音楽室。
母が座るハープの弦が、緋の雲を溶かすみたいに鳴った。最初の一音で、目の裏に火の色が立ち上がりかけ、同時に香りを吸い込む。
ラベンダー。きれいな紫の坂道を下るように、呼吸が深くなる。
母の歌は、遠い昔から知っていた気がした。
誰かが、どこかで、同じように歌ってくれた。
――いや、そんなはずない。私はずっとひとりだった。
それでも旋律が古い螺旋階段を降りて、胸の奥の硬い塊の中心に触れる。
ぽきん、と音がした気がした。
私は目を閉じ、まぶたの裏の火を、音と香りで薄めていく。
優しさは罠だ、と何度も自分に言い聞かせてきた。
けれど、罠だったとしても――私はもう、少しだけかかってみたいのかもしれない。
罠の縄が、もしも温かい手だったなら。
歌が終わると、部屋は柔らかな静けさで満ちた。
「レティ」
母の声が私の名前を撫でる。私は頷く。
「今日、庭でね。アーモンドの芽が、くすぐったかった」
「まあ」
「それから、図書塔で“保存食”の本を見た。冬の柚子皮の砂糖漬け、って書いてあった」
「じゃあ、今度一緒に作りましょう」
「……いいの?」
「もちろん」
私はその言葉を掌で転がし、服のポケットにしまった。なくさないように。
部屋に戻ると、ベッドの上に置かれていた。朝に受け取った母の手紙。
封を切る。紙の温度が、指の腹に移る。
『レティへ
あなたが目を覚ましてから、まだ数日しか経っていないのに、わたしたちは何度も“ありがとう”を言いたくなります。朝の光の中であなたがまばたきをする、そのたびに、この城は明るくなります。
あなたが何かを怖がるとき、その怖さがどこから来たのか、私たちはすべてを知ることはできません。でも、あなたが怖さに触れるとき、いつでも一緒にいます。
あなたが疑うことを、恥ずかしいと思わないで。疑うのは、大切なものを守るための力だから。
眠る前、今日は新しい歌を贈ります。
――母より』
読み終えた瞬間、胸の中で何かがほどけて、同時に、別の何かがきゅっと結ばれた。
私は窓を細く開け、夜の匂いを吸い込む。
遠くで、城壁の上を歩く兵の足音がする。規則正しい、頼りになる音。
――この音は、私を閉じ込めるためのもの? それとも、守るためのもの?
どちらにしても、今はいい。
私はラベンダーの瓶の栓を外し、枕元に一滴、落とす。
目を閉じる。
眠りに落ちる最後の瞬間、昼間の壁の石板が、頭の片隅で光った。
秘密の抜け道。
私は――明日、観察の続きをする。
優しさの裏を確かめるために。
そして、もし裏が“本物の愛”だったなら、そのときは。
そのときは、初めて“ただいま”と言ってみよう。