白雲という存在
白雲が試合を始めてからのプレーは、ただ「すごい」の一言だった。
天井に届きそうな高いサーブ。
相手に取らせる気がまったくない強烈なスマッシュ。
どこに打たれても追いついて返す俊敏なステップ。
強弱を使い分けて相手を翻弄するショット。
女子と男子の体格差なんて感じさせない。
周囲がざわめき始めるのも当然だった。
スコアはあっという間に11対4。
そのとき、体育館の扉が開き、顧問の先生——いわゆる監督が入ってきた。
「お前ら、なにしてんだ?」
近くにいた部員が状況を説明すると、監督は静かに椅子に腰掛けた。
「……少し見るか」
試合はその後も勢いを増すばかりだった。
1点、また1点と着実に加点していく白雲のプレーは、まったく緩むことがなかった。
スマッシュが床に突き刺さる音が、体育館に響く。
観客がぽつりとつぶやいた。
「バケモンか……?」
「誰だよ、あの子……」
誰もが二人の試合に釘付けになっていた。
確かに体格差による苦戦は何度か見られた。
でもそれを跳ね返すだけの実力があった。
揺るがない、圧倒的な強さ——。
五十嵐先輩は悔しそうに喰らいついているが、白雲に追いつけない。
「石橋。お前、あれ見てどう思う?」
突然監督に声をかけられ、思わず戸惑う。
「……まず、威力が桁違いだと思います。相手の嫌なところを正確に突いてるし、何よりスピードが速い。でも……」
口にしながら、どこか自分でも言葉が追いつかない感覚がある。
他の選手と何が違うんだ。
何にこんなに目を奪われるんだ。
「それだけじゃない。よく見てみろ。お前に足りないものを、彼女は持ってる。技術もある。でも……もっと大事な、別の“何か”だ。」
——俺に足りないもの。
白雲は、どうやって戦ってる?
何を感じながら、コートに立ってる?
……あいつ、笑ってる?
シャトルを見つめるその顔は、どこまでも楽しそうだった。
真剣で、でもどこか幸せそうで。
「……楽しそう……」
思わず口にすると、監督は深く頷いた。
「ああ、そうだ。彼女は、誰よりも楽しそうに、心からバドミントンをやってる。これは、すごく大切なことだ。お前もバドミントンが好きなのは知ってる。強いのも知ってる。でもな、あれを見て、プレーしたくなっただろ?」
確かに。
羨ましいと思った。
あんなふうに、ただ純粋に、夢中になってバドミントンをしてみたいと——そう思った。
「彼女には、そう思わせる力がある。あれを真似しろとは言わん。あれは、ちょっと特殊だ。……けど、お前ならきっとできる。」
監督の言葉が、胸の奥にしみ込んでいく。
無愛想だとよく言われる俺。
けど、バドミントンが、好き。誰よりも。
白雲が眩しい。
ただ、心からそう思った。
ゲームは終盤。
白雲は、攻める手を一切ゆるめなかった。
20対8──マッチポイント。
五十嵐先輩は、もうただシャトルを返すだけになっていた。
でも仕方がない。
あの圧倒的な強さを前に、誰だってそうなる。
ラリーが続いた末、五十嵐先輩がドロップを高く打ち上げる。
白雲は一度、深く息を吸い込んだ。
落ちてくるシャトルを、真っ直ぐに見つめる。
そして、踏み込む。
床を蹴ったその瞬間、彼女の身体がふわりと浮かんだ。
まるで翼が生えたみたいに、軽やかに。
その表情は――楽しそうに、笑っていた。
そして、振り抜いた。
鋭く、迷いなく。
空を裂くようなジャンピングスマッシュ。
次の瞬間、シャトルは音もなく床に突き刺さった。
……そのあとに、遅れて「パァンッ」という音が体育館中に響いた。
「ゲームセット。白雲の勝利!」
審判の声が響いた瞬間、まるで魔法が解けたように周囲の空気が一変した。
「す、すげぇー!!」
「マジで……ほんとに……やばっ!」
歓声が飛び交う中、白雲だけは静かにラケットを見つめていた。
冷静で、どこか満たされたような顔。
そこへ、涙ぐんだ山下先輩と飯田が駆け寄る。
その光景を見ながら、俺の胸にもかすかなざわめきが生まれていた。
──初めてバドミントンを見た時の、あの感覚に似たものが。
「白雲唯……?」
誰かが小さくつぶやく。
振り向くと、メガネを直しながら震える声で多田が言った。
「その子……去年のインターハイ、個人シングルスの優勝者じゃ……っ!」
その一言が引き金となり、体育館中が一気にざわめきに包まれた。
「はぁ!? インターハイ!? そりゃ強いわけだよ……」
「五十嵐、どんまいすぎる!」
呆然とする五十嵐先輩を横目に、山下先輩がにやりと笑って詰め寄った。
「なぁ〜んか、言うことあるんじゃないの、五十嵐くん?」
五十嵐先輩は唇を噛みしめ、顔を真っ赤にしながら叫ぶように頭を下げた。
「す、すみませんでしたぁぁぁーー!!」
完璧な土下座である。
山下先輩は下僕を見るような目で満足げに頷き、白雲は困ったように苦笑い。
「あ、頭を上げてください……」
「約束、忘れてないよね?」
山下先輩の一言に、五十嵐先輩の顔がさらに険しくなる。
「いや、まさかこんな強いとは思わなくて……!」
苦しい言い訳に、周囲から一斉にブーイングが飛んだ。
「五十嵐!なんの約束か知らんけど、それはダサいぞ!」
「漢見せろーー!」
ガックリと肩を落とした五十嵐先輩は、次の瞬間、目を見開いて叫んだ。
「漢に二言はねぇぇぇぇ!!」
「よっしゃー!さすが五十嵐ー!」
周囲の盛り上がりっぷりに、こっちは練習時間削られるかもしれないってのに、ほんと呑気だ。
そのとき、監督が椅子から立ち上がった。
山下部長に抱きつかれてもみくちゃにされていた白雲の前に、まっすぐ向かう。
「うちの部員がすまなかったな。ちゃんと厳しく指導しておくから、どうか許してくれ」
その瞬間――五十嵐先輩は白目を剥いて、立ったまま気絶した。
「い、いえ。私もちょっと言いすぎたというか……」
白雲が少しうつむきながら答えると、監督がやや間を置いて言った。
「バドミントン、やらないのか?」
「あ……いえ、その……」
言葉を詰まらせる白雲。
あれだけ楽しそうにプレーしていた彼女が、やらない理由があるとしたら、それは簡単なことではないはずだ。
「もし入る気があるなら、たまにこっちの連中とも練習試合してやってくれ。今の君に対抗できるのは……せいぜい2、3人くらいだろうけどな」
そう言って、ガハハと豪快に笑う監督。
少し戸惑いながらも、白雲はふっと笑って答えた。
「……考えてみます」
その後──
「おい五十嵐、どんな失礼なこと言ったんだ? あァ?」
監督の声が低く響く。
普段は優しいが、マジで怒るとヤンキー顔負けの迫力になる。
部員たちが監督から遠ざかるように練習の準備を始める中、先輩は青ざめながら口ごもる。
「い、いや……そのぉ……」
「あぁん?」
そのとき、山下先輩が満面の笑みで手を挙げた。
「か・ん・と・く! ここに五十嵐の発言データ、ありますよ!」
なんでそんなの持ってるんだよ……
用意周到すぎんだろ。
「聞かせてくれぇぁ!」
録音は体育館全体に響き渡るほど大きな音で流され、周りのみんなはドン引き。
監督も血管が切れそうなほど顔を真っ赤にした。
──そして始まった、監督の2時間にわたる大説教タイム。
やるべきことを終えた山下先輩は、すっかり晴れやかな顔で自分のところに戻っていった。