第2話 呼吸法、そして勝利
翌朝、まだ太陽が顔を出しきる前——。
俺たちアルヴィス家に、あの男が現れた。
「おはよう。悪いが、少しだけ時間をもらえるか」
昨日の“剣士”。ゼム・バルフォード。
母は少し怯えた様子で後ずさったが、父は礼を言いながら家に招いた。彼は椅子にも座らず、まっすぐ俺に視線を向けて言った。
「ライガ、お前に剣を教えたい。……どうする?」
両親が目を見開く。父が口を開きかけたのを、俺が先に遮った。
「……お願いします。教えてください」
自分でも驚くほど即答だった。
魔法がダメなら、剣で手に入れる。それが、俺の答えだった。
連れてこられたのは、村の外れの小さな岩場。枯れ木が多く、人気もなく、誰にも邪魔されない。
ゼムは黙ったまま、俺に一本の木剣を渡した。
「まずは構えてみろ」
俺はそれを握り、前に構える。重さはないが、手に馴染む感覚があった。
「……何か違和感がある」
「ふむ。剣は“持つ”ものじゃない。“握る”ものでもない。“感じる”ものだ」
「……なんですか、それ」
思わず本音が漏れる。
ゼムはにやりと笑い、ゆっくりと自分の剣——あの、日本刀のような細身の鋼の刃を抜いた。
「剣を扱うには、まず“呼吸”を知れ。力ではない。筋肉でもない。“呼吸”こそが、お前の力になる」
呼吸? 剣と呼吸に、何の関係が?
そう思った瞬間だった。ゼムが軽く一歩踏み出し、空を斬る。
——ヒュッ!
ただの一振り。だが、その“音”が違った。
空気を割ったというより、斬った。それも、静かに。
「これは“剣息”と呼ばれる技術だ」
「剣……息?」
「人間は力を出す時、息を止める。だが、それでは本当の力は引き出せん。呼吸を合わせ、剣と身体と心をひとつにする。そうして初めて、剣は“速く”“深く”“重く”なる」
ゼムは手にした剣を鞘に戻し、再び俺に向き直った。
「お前には、魔力がない。それはもう、どうしようもないことだ。だが、呼吸と剣術だけは——誰にでも平等にある。お前が手にするべき“力”は、ここにある」
俺は木剣を見つめた。
軽くて、ただの木の棒。でも——あの一振りを、俺もできるのなら。
「……教えてください。俺に、その“呼吸”ってやつを」
ゼムは頷いた。
「ではまず、“立つ”ところから始めようか」
こうして俺の剣の修行が始まった。
構え、足の位置、呼吸、目の使い方——何から何まで、一からだった。だが、やってみてわかった。
この男は本物だ。
一挙手一投足に無駄がなく、理に適っている。感覚ではなく、体系化された“技術”がそこにあった。
「剣士は、力があるから強いんじゃない。考え、工夫し、積み重ねるから強くなるんだ」
その言葉に、どこか懐かしいものを感じた。
仕事もそうだった。戦略も、交渉も、積み上げた経験と技術の差が、勝敗を決める。
この男は、“戦うこと”を知っている。
それが、俺には嬉しかった。
*
日が暮れる頃には、全身が鉛のように重くなっていた。
家に戻る途中、ゼムがぽつりと言った。
「明日から毎朝、ここに来い。口を開く前に、まずは呼吸から覚えろ」
「はい、師匠」
俺がそう呼ぶと、ゼムは少し驚いたような顔をした。
「……師匠か。悪くない」
*
その夜、布団に横になりながら俺は思った。
この世界では魔法は使えない。
けれど——
「剣でなら、勝てる。そう思える気がする」
静かな夜、月明かりの中で、俺は拳を握った。
「やってやるよ。この世界でも、“全部”だ」
*
数日後——。
「いいか、ライガ。呼吸は“力”を導く術だ。ただの空気の出し入れじゃねぇ」
師匠――ゼム・バルフォードは、静かな森の中、一本の木を前に俺に語った。
「呼吸を極めれば、剣は鋼を裂く。骨を断ち、風をも切る。剣士が魔法に対抗するために磨いてきた、人の技だ」
その目は真剣だった。まるで“本物の戦場”を思い出しているような――そんな鋭さがあった。
「教えるのは、壱ノ型《斬風》。これは基礎中の基礎だが……極めれば、一撃で風すら断つ」
ゼムは静かに構えた。右足を前に、肩の力を抜き、剣を斜めに構える。
「深く吸って、臍下に気を溜める。溜めた力を、全身に一気に解き放て」
ヒュン――。
空気が引き裂かれた。
気づけば、目の前の木が斜めに断ち割られていた。
切り口は滑らかで、美しい。あまりに一瞬すぎて、斬られたことさえ木は理解していなかったように見えた。
「……これが、壱ノ型だ。お前もやってみろ」
俺は息を吸い込む。肺いっぱいに、空気を貯めて――
(落ち着け……力むな……構えろ……)
肩の力を抜き、剣を斜めに構える。
「――はっ!」
風を裂く感触。刃が空を切るときの爽快感。
だが、結果は……木に浅い切れ目が入っただけだった。
「……なるほど。悪くない」
ゼムが微かに笑った。
「お前は“感覚”を掴むのが早い。数をこなせ。体が覚えるまでな」
俺は深く頷いた。
*
その日の帰り道。
村の井戸の前で、小さな騒ぎが起きていた。
「おい、なんか変な呪文唱えてみろよ! 魔法使いなんだろ? なら役に立てって!」
「水、出してみてよ。失敗したら水くぐりな!」
そう叫んでいたのは、村の子供たちの中でも体格のいい、年上のガキどもだった。彼らが囲んでいたのは、一人の少女。
年は俺と同じくらいか、少し上に見える。淡い銀髪を後ろでまとめ、小柄な体には泥がついていた。
少女は困ったように、小さく手を前に出していた。
「……わ、わたし、まだ詠唱が安定してないの。練習してるけど……」
「言い訳かよ。天才って言われてるくせに、使えねぇのな!」
そう言って、一人が少女の肩を突き飛ばした。
ドサッ、と倒れる音。少女の瞳が潤んで震えた。
(……クソッタレども)
俺の足が、自然に動いていた。
「やめろよ」
低く、だがはっきりと声を出した瞬間、全員の視線が俺に集まった。
「なんだよ、ライガか。魔力量“一割以下”のお荷物が何の用だよ?」
ニヤニヤと笑うその顔が、妙に癪に障った。
「その“お荷物”に、今からお前が負けるって言ったらどうする?」
「……は?」
「決闘だよ。俺とお前で一対一。勇者様ごっこ、俺が止めてやる」
俺の声に、周囲の子供たちがざわめき始めた。
「お、おい、やめとけよ! ライガ、相手はカイルだぞ! 村の訓練場でも一番強いって言われてんだぞ!」
「相手にならねえって!」
だが、カイルと呼ばれたガキは鼻で笑った。
「いいぜ。泣いて土下座しても許してやらねえからな」
こうして、即席の決闘が始まった。
決闘の場所は、村の広場の一角。周囲を囲む子供たちの輪の中、俺は木剣を構える。
(落ち着け……“呼吸”だ)
ゼムの教えを思い出す。
深く、腹の底まで吸い込む。そして、ただ振るうだけじゃない。力を“通す”意識を持て。
「始めッ!」
「ライガァッ!!」
叫ぶと同時に、カイルの掌に紅い魔法陣が浮かぶ。
「《ファイアスパーク》!」
火花が飛び散るような熱線が一直線に放たれる。それを俺は横跳びでかわす。
(来るぞ!)
その直後、カイルが抜刀し、突き込んできた。火の魔法と剣の連携――たしかに強い。
だが、俺も――
「壱ノ型、《斬風》!」
風のような踏み込み。剣先がカイルの剣を逸らし、その肩口をかすめた。
「くっそ……!」
カイルは後退しながら叫ぶ。
「舐めんなよ!! 《火蛇》!」
地面から立ち上がるように、火の蛇が這い寄ってくる。
(前世の人生、数字で勝ち続けてきた俺が、こんな火遊びで負けるかよ!)
剣を両手で構え、一気に突っ込む。
「――《斬風》!」
己のすべてを込めた一撃。斬撃の風が火蛇を切り裂き、カイルの懐に飛び込む。
「がはっ……!」
木剣が、カイルの腹を正確に突いた。
沈黙。
次の瞬間、子供たちの歓声が爆発した。
「勝った!? ライガがカイルに勝ったぞ!!」
*
カイルは何も言わずに立ち去った。負けを認めたような、悔しげな顔だった。
残された俺は、少女に顔を向けた。
「大丈夫か?」
「う、うん……ありがとう。あんなふうに助けてくれる人、初めてだった」
「そうか。それなら良かった」
少女は、少し顔を赤らめてうつむいた。
その夜。
家に帰ると、師匠がすでにそこにいた。
「お前の剣、少し“らしく”なってきたな」
「……ありがとうございます、師匠」
ゼムは、微笑んだかと思うと、急に真剣な顔をした。
「明日から、“弐ノ型”に入るぞ。お前の戦い方じゃ、この先通用しない相手が出てくる」
俺は頷いた。
(次は……もっと強くなる)
この世界で、剣の道を極めるために。