第1話 現代社長、最底辺スタート
「……はは、結局俺は何を手に入れたんだろうな」
高層ビルの最上階、ガラス越しに沈む夕日を見下ろしながら、俺は一人呟いた。
名は◯◯◯◯。◯◯歳。大手IT企業の社長だ。
金も地位も、努力の果てにすべて手に入れた。大学時代に立ち上げたベンチャーが世界市場で成功し、気づけば俺の名前は経済誌の表紙を飾るようになっていた。
だが——気づけば、隣には誰もいなかった。
妻は俺の仕事中毒に耐えきれず、数年前に家を出て行った。子供もいない。社員や取引先に囲まれてはいたが、心を許せる人間など一人もいなかった。
「次の人生があるなら……今度こそ、全部手に入れてやる。金も、地位も、名誉も、愛も、力も、ぜんぶだ」
そう願った直後のことだった。
信号無視のトラックが俺の乗ったタクシーに突っ込んできたのだ。
激しい衝撃、痛み、そして——闇。
*
次に目を覚ましたとき、俺は赤ん坊だった。
どこか懐かしくも見知らぬ、木造の天井。
温かくて、優しげな声。両親らしき人物が俺に微笑みかけていた。
「名前は……ライガにしよう。ライガ・アルヴィス。強く、たくましく生きる子になりますように」
ライガ。なるほど、悪くない名前だ。
俺はこの世界に転生したらしい。
周囲の言葉も景色もまったく違う。だが、不思議と理解はできた。どうやらこれが“異世界”というやつか。
剣と魔法の世界……ゲームやラノベで散々見た設定だが、まさか自分がその中に入るとはな。
*
ライガとしての人生が始まり、5年が経った。
俺の生まれた村は辺境の農村「セレノア」。家は貧しいが、家族はあたたかく、毎日が新鮮で満ち足りていた。
この世界における“魔力検査”は5歳の誕生日に行われる。村の教会で神官が魔石を使い、子どもたちの潜在魔力量を測るのだ。
俺ももちろん受けた。もしかしたら、チート的な力が眠っているかもしれないと内心期待していたが——
俺の前に差し出された魔石は、まるで光るのを拒んでいるかのように、ただの曇った石のままだった。
「……結果が出ました」
神官の声は、まるで死刑宣告だった。
「ライガ・アルヴィスの魔力量……基準値の一割以下。判定、極めて低いです」
教会の中が静まり返る。誰もが信じられないという表情だった。
もちろん、悪い意味で。
「そ、そんな……うちの子が……」
母は顔を覆って泣き出し、父は沈痛な面持ちで肩を落とした。
村の大人たちは口々に呟く。
「これはもう、戦士にもなれん」
「魔法も使えないんじゃ、農作業くらいしか……」
「村の負担にならなきゃいいがな」
クソが。
この世界でも、数字ひとつで人間の価値が測られるのか。
社長時代の記憶がふっと蘇る。学歴、肩書、資本力。数字がすべてだった現世と、なんら変わらない。
だが——今回は違う。
俺はもう、ただの仕事人間じゃない。次こそは“全部”手に入れると決めたんだ。
教会を出た俺は、村人たちの視線から逃れるように人気のない道を歩いていた。
母も父も、沈黙したままだった。言葉をかけようとして、何度も口を開いては閉じていた。
いいさ。今は一人になりたい。
村の外れ、小さな森を抜ける裏道を通って帰る。普段は危険なんてない場所だが、その日だけは違ったようだ。
——ガサガサッ。
森の茂みが、不自然に揺れた。
「……っ!」
本能が警鐘を鳴らす。次の瞬間、飛び出してきたのは、イノシシに似た黒い毛皮の魔物だった。
いや、イノシシというには大きすぎる。体長は2メートルを超え、目は血走り、牙は剣のように鋭い。
【牙魔獣】。
俺の記憶にあるこの世界の知識が、その名を教えてくれた。
村の子どもが一人で対峙していい相手じゃない。
「くそっ……逃げ——!」
そう思った矢先、魔物が咆哮と共に飛びかかってきた。
動けなかった。恐怖に足がすくむ。心臓が悲鳴を上げ、視界が白く染まりかけた——
そのとき、近くの木陰に立てかけられていた一本の木剣が目に入った。
どうやら、子供たちが遊びに使って放置していたものらしい。
俺は本能のままに、それを掴んだ。
「来るなッ!!」
渾身の力で、木剣を横に払った。
——ズバッ!
重い手応え。衝撃。木剣の先が、魔物の肩を裂いた。
「……なっ」
傷ついた魔物は怒り狂ったように咆哮した。
次の瞬間、視界が牙で満たされる。ダメだ——俺はここで死ぬのか?
「無謀だが……よくやった、小僧」
その声と同時に、風が走った。
目の前に現れたのは、一人の男。白い髪に無精ひげ、片手には鋼の剣。
「はっ!」
一閃。
魔物の首が飛んだ。
瞬きの間に戦いは終わっていた。剣は静かに鞘に戻される。
男はゆっくりと俺の方を振り返った。
その目には、驚きと興味が混じっていた。
「……お前、剣は初めてか?」
「……はい。今日が、初めてです」
「それであの動き……しかも、あの魔物に傷をつけたか」
男は一歩近づき、俺の目をじっと見つめた。
「名前は?」
「……ライガ。ライガ・アルヴィス」
男は一瞬だけ沈黙した後、フッと笑った。
「なるほど。覚えておくさ。ライガ・アルヴィス。もしかしたら……お前には、“剣”の神がついているのかもしれんな」
あとで母親に聞いた話によると、その男の名はゼム・バルフォード。
村の外れにひっそりと住む、謎多き中年の男だった。
村ではただの風変わりな隠居と噂されていたが、俺はすぐに気づいた。
あの男は只者じゃない。
そして——この出会いが、後に俺を“剣帝”と呼ばれる存在へ導く、最初の一歩になる。