十節/8
朝が来た。
いつもの通り、日課をこなして、朝食を摂り、身支度を整えると、時間に合わせて外へ出て、彼女を待つ。
少し違うのは、身にまとうものが制服だというところだろう。
白いセーラー襟が特徴のダブルブレストの黒いジャケット。
コルセット風の黒いスラックスは、スカートとの選択肢制だった。
変わったデザインなのは、男女共通で着れるようになのだろうか。
中学は詰め襟の学生服だった勇緋には、馴染みのない服装である。
シャツは色は自由らしいが、白か黒が無難だというので、黒を選んだ。
黒い方が汚れが目立たないと思っての選択だ。
ネクタイ、もしくはリボンの着用も自由らしく、付けないという選択肢を取る者もいるらしい。
勇緋はマネキン通りの白色を選ぼうとして、赤を勧められたため、赤いネクタイを付けている。
ボタン式ではないので、結び方を知る必要があった。
練習したから問題なく付けられたものの、もしリリスがネクタイを用意されていた場合、不器用らしい彼女は結べないのでは──そう思っていたとき、右側の扉が開く。
「おはよう、リリス」
「……お待たせしましたわ。おはようございます、ユウヒ」
「時間通りだから、気にしないで……って、やっぱりそうか。……ん?」
俯いた彼女の手にあったのは、紫の生地の縁が黒く彩られた布。
しかし、素材はネクタイではなく、どちらかといえば──
「リボン……? もしかして……」
「……言わないでください。身支度はずっと妖精に任せていたのですわ。藍はわたくしがそこまで何もできないと思っていなかったらしく、早めに家を出ていってしまいまして」
「誰にも頼れなかった、と」
「はい……」
彼女の弁によると、賃金として神秘的エネルギーを与える代わりに、身の回りの世話を行わせる妖精を雇っていたらしく、自分で家事や身支度を行ったことはないのだという。
それでも衣服の脱ぎ着くらいはできるので、制服の大まかな部分は着れたのだが、リボンを結ぶことができなかったらしい。
現代の制服のリボンは、既に整形されたアジャスター型のものが多く、結ぶようなものは極少数なのだが、これはおそらく、アジャスター型では混乱してしまうだろうという藍の気遣いが、あらぬ方向に牙を向いてしまったのが原因なのだろう。
現に、昨日のリリスはシートベルトすらできなかったものであるし、手元が見えなくなるリボンでは、更に苦戦することは想像に容易い。
しかし、リボンを結ぶことさえできなかったのは、藍としても想定外だったのだろう。
「ほら、それ貸してくれ。結ぶから」
「自分が情けなくて涙がでますわ……」
「後で結び方も教える。体育のときとか困るだろうし」
シャツの襟を立たせ、するりと結ぶ。
「……慣れてません?」
「義妹がいるからだろうな。『結んで』ってよくせがまれる」
「妹……!?」
「義理の妹だからな。血が繋がってるわけじゃない。引き取られた家の子だよ」
「……おいくつですの?」
「今年で十一。五つ下だな」
「ふーん……随分可愛がっているみたいですね」
「可愛がるって……まあ、かわいい子だとは思うけど」
リボンの形を整え、立てた襟を戻し、屈んでいた姿勢を戻そうとする。
その時、リリスがネクタイを掴んで勇緋の動きを止めた。
顔が同じ高さに固定される。
視界の占有率は、九割がリリスだ。
少し頬を赤らめた彼女は、目を逸らしながら口を開く。
「……何か言うことがあると思いません?」
「そうだな……制服、似合ってるよ」
「違いますわ」
「ええ……?」
急にどうしたのだろう。
そう思いながらも、リリスが求める回答を探る。
鍵となるのは、先程までの会話だ。
そこで、一つ確信に近い言葉を見つけた。
「……かわいい?」
「何で疑問形なんですの!」
「かわいいかわいい」
「今度は雑ですわ!」
合っていたようで、リリスは勇緋の雑な『かわいい』連呼にご立腹になる。
「女の子が感想を求めたときはね、褒めてほしいときなんだよ」と豪語していた義妹の顔が浮かんだ。
肩を揺らす彼女をなだめ、暴れたせいで少し乱れた髪を直す。
「大丈夫。ちゃんとかわいいと思ってるよ」
リリスと目を合わせて、勇緋はそう口にした。
思わず声が出そうになるのをどうにか抑え、リリスは彼を小突く。
「貴方という人は……!」
「おれ何も悪くないだろ……」
「悪いですわ! いつもいつも乙女の純情を弄んで!」
リリスの抗議の拳は、勇緋にとっては甘噛み以下であるが、それがどんな意味を持つのかは理解できなかった。
嫌がっているようには見えなかったが、乙女心というものは難しい。
「……と、そろそろ出ないと。ほら、行こう。……どうしたんだ?」
「……何でもありませんわ」
マンションの下には、他の入学生が動き始めていた。
その波に乗り遅れないよう、勇緋はリリスの手を止め、先を促す。
不満げに頬を膨らませる彼女の内心など、わかりもしなかった。
肩を並べて、校舎までの道のりを歩む。
今にも雨が降り出しそうな曇り空は、とても良い天気とは言えない。
けれど、特に気を落とすこともなく、二人は会話に花を咲かせる。
内容は、昨晩約束したマイクロチップについてだった。
二十年ほど前から、先進国では体内にマイクロチップを埋め込むことで、鍵や支払い、身分証明などに用いてきた。
現在では、三十代以下の保有率はほぼ九割で、四十代以上も半数は保有している。
「利き手の反対側の手首につける人が多い。おれは両利きだけど、左手につける人が多いから左につけてる」
「なるほど。わたくしもつけた方がいいのですか?」
「いや、どうだろう。幻想種は人間と構造が違うことも多いし……それに、携帯端末を持ち歩いていれば、ほとんど同じことができる。わざわざする必要はないんじゃないか?」
「そうですの?」
鞄から取り出したスマートフォンには、紫と白のカバーがかけられていた。
昨日、藍があの後渡したものだろう。
少し抜けているところのある彼女が、カバーなしで携帯端末を持ち歩くのは不安だった。
「操作は慣れたのか?」
「まだ説明書を読みながらでないと使えませんわ」
「おれもそんなものだからなあ……そっち方面はあまり教えられない」
「……貴方、仮にも現代で十五年生きてますわよね?」
「現代人でも、わからないものはわからない。自分用の端末を持ち始めたのは一週間くらい前の話なんだ」
「貴方のことだから、てっきり何でも知ってるものかと」
「知らないものは知らないよ。人間だからな」
十分ほど歩けば、校門が見えてくる。
入学式と書かれた看板が立てられているのは、お約束のようなものだ。
「そういえば、リリスは日本語が読めるのか?」
「読めませんし話せません。今日本語を話しているように聞こえているのは、魔術で翻訳しているからですわ」
「だと思った。口の動きと音が一致してないから。……今思ってること言ってみてくれ」
「えっ……ちょっと気持ち悪い」
直接的な罵倒に思わず心臓が跳ねる。
「おれも傷つくときは傷つくからな……」
「ごめんなさい。でも、それくらい細かな動きで特定できるのは、人間やめてるとしか思えませんわ」
「みんなできるよ、これくらい」
「撤回させてください。人間がおかしいですのね」
そうしているうちに、二人は昇降口に辿り着く。
そこには、紙に印刷されたクラス名簿が貼られていた。
日本語が読めないリリスの代わりに、勇緋が二人分の名前を探す。
「おれもリリスも、一年二組だな」
「一年二組、ということは一組もあるのですか?」
「ああ。どっちのクラスも三十四人いるみたいだ」
下駄箱へ案内し、鞄から上履きを取り出して履く。
リリスとしては、室内で靴を脱ぐのならともかく、別の靴を履くことに違和感があるらしい。
一年二組の教室は三階の階段横にあった。
黒板に貼られていた席順通りに座ると、リリスとの距離はとても遠かった。
それもそのはず、『ヴィオレット』であるリリスの出席番号は二番、『御剣』である勇緋の出席番号は三十四番だからである。
縦横六列ずつで並べられているため、ほぼ対角線上の位置に座っていることになる。
また、リリスは、それはもう目立つ。
外国風の名前というだけで噂になっていたのか、姿を表せば視線の量は針のむしろのようだった。
席に座り、名と体が揃ってしまえば、あとは質問攻めの地獄である。
ほぼ全員初対面かつ入学式前だというのに、そんなことお構いなしと女子生徒に囲まれ、しどろもどろになるリリス。
助けを求めるように勇緋を見るが、彼が手でバツ印を作り増援を拒否したこともあって、逃げることは許されなかった。
ああ、可哀想に。
他人事に眺めていると、一人の生徒が勇緋に近づいてきた。
「よっす。なあ、キミ。あの子の知り合い?」
「一応。隣の部屋に住んでるんだ」
「なるほど、だから一緒に登校してきたわけだ。いやあ、あんなにキレイでカワイイからさ。彼女の話題で皆盛り上がっちゃって……ボクの席取られちゃったんだよ」
「困っちゃうなあ」と彼は笑う。
癖のある黒髪に黒い瞳の少年。
今の時代では、もう珍しくなったその色彩を持つ彼に、勇緋はどこか懐かしさを感じた。
「おっと、そうだ。まずは名乗らないとな。ボクは一条玄。玄人の『玄』って書いて『はるか』って読むんだ」
「一条……って、もしかして」
「ご明察! ねーちゃんが世話になったみたいでね、ご挨拶をと思ってさ」
世界というのは、意外と狭いものらしい。
勇緋の机の前で屈み、玄は勇緋と目線を合わせる。
「つーことで、一条じゃねーちゃんと被るから、『はるか』って呼んでくれよ。ボクも『ゆうひ』って呼ぶからさ」
「……おれ、名乗ったか?」
「前見りゃわかんじゃん。『みつるぎゆうひ』くん」
席に一直線に来るのなら、名前くらい確認しているか。
考えてみれば当たり前のことだった。
「なら、改めて名乗らせてくれ。御剣勇緋だ。これからよろしく頼む、玄」
「こちらこそ、どうぞよろしく!」
差し出された手を、勇緋は握り返す。
──やはり、どこか、彼を知っているような気がした。
「……玄。少し、変なことを訊いてもいいか?」
「ん、なーに?」
──おれたち、どこかであったことがないか?
彼は、一度目を見開き、そして、目を伏せる。
「……いいや、ないよ。今まで一度も、ボクとキミは会ったことがない」
「そうか……なら、気のせいかもしれない。すまなかった」
「気にしないで! デジャヴってよくあることだし!」
顔を上げた彼は、憂いのない笑顔で勇緋を励ました。
声も、顔も、すべて覚えのないもの。
なのに、どうしてか、初めて会った気がしない。
何か、大切なことを忘れている気がするのだ。
暗い顔の勇緋に、彼は眉を下げる。
「何だよお、体調でも悪いのか?」
「……いや、体調が悪いわけじゃいんだ。忘れちゃいけないものを、忘れているような気がして」
「ほーん。『忘れちゃいけないもの』、ねえ……。何だろ、子どもの頃の夢とか?」
「それは忘れてない」
「マジ? いいねえ、そういうの」
けらけら。
彼は、笑い続ける。
「ま、大事なものなら、いつかは思い出せるっしょ。そう悩まなくていいんじゃね?」
「そうか?」
「そんなもんだよ、人間って。ほら、忘れた頃に……ってやつ」
気づけば、外には雨が降っていて。
周りは、新入生が集まっていて。
けれど、勇緋と玄だけが、まるで世界から切り離されているみたいに二人ぼっちで。
しかし、それは終わりを告げる。
「ありゃ、もう時間だ。あっちも話し終わったみたいだし、先生が来る前に席に戻らないと。じゃあ、また後で」
彼の後ろ姿に、手を振る。
玄の席は、リリスの一つ前。
出席番号は、一番。
勇緋とは、完全に正反対に位置している。
リリスよりも、距離は遠い。
ふと、彼と握手を交わした右手に視線を落とす。
あのとき、伝わった熱は、温かかった。
熱いわけでも、冷たいわけでもない。
人肌そのものだ。
だから、違う。
この胸の昂りは、的外れなものなのだ。
彼が太陽を蝕む深淵のような黒を持つものだったとしても。
彼は、『彼女』ではない。
今にも溢れ出しそうなこの焔は、ただの勘違い。
そうでなければ──きっと、彼を殺してしまう。
けれど、まるで『彼女』の鏡映しのようなその少年の笑顔を、勇緋は忘れられなかった。
ぽつりぽつりと世界に雨が降る。
ぽろりぽろりと桜の花弁が地面に落ちる。
雨露に濡れた花は、緋色が滲んで深まったように見え、より一層美しい。
けれど、この雨では、燃えたぎる業火は消せやしない。
消そうと思えば、それこそ、世界そのものを沈ませるような──ノアの方舟が必要なくらいの大雨にならなければいけないだろう。
戯言は花弁と同じように捨て去られ、誰の記憶にも残らない。
きっと、戯言を生み出した張本人でさえも、他愛もない妄想として、他のものと同じように忘れていく。
そう、どうでもいいことだから。
どうでもいいことだから、忘れていくのだ。
だって、それが人間だろう。
──序章【未だ白紙の英雄譚】




