十節/7
併設された駐車場に停まると、藍はエンジンを切る。
不思議に思いながらも、勇緋は彼女に感謝した。
「送っていただき、ありがとうございました。じゃあ、おれはここで──」
「いえ、私たちもここで降ります。リリス、降りますよ」
「……え?」
状況を飲み込めず、固まっていたリリスは正気を取り戻したのか、身を乗り出して藍に問う。
「ここはユウヒの家なのでしょう? ならば、わたくしと一条様が降りる必要はありませんわ」
「そうですが、降りなければいけないんです」
「……どういうことですの?」
「聞くよりも、先に見た方が早いですよ。さあ、付いて来てください」
疑問が解けないまま、二人は車を降り、藍とともに歩いていく。
ちなみにだが、リリスはシートベルトの外し方がわからずに勇緋に教えてもらった。
真面目な雰囲気を壊すような形になってしまったため、少しだけ恥ずかしかった。
マンションのエレベーターに乗り込むと、藍は十と書かれたスイッチを押す。
機械音が階層を告げ、鉄扉が開かれた。
外に面する廊下を歩き、とある部屋の前で止まる。
そして、勇緋とリリスに振り返り、ポケットからカードを取り出し、リリスに渡した。
「……何ですの、これ」
「カードキーです」
「……どこを開けるカードキーですの?」
「一〇〇九号室です」
「……ここ、ユウヒの家ですわよね?」
「はい。御剣さんのご住居はお隣の一〇〇八号室になりますね。ちなみに、私の部屋は一〇一〇号室です」
「……待ってください。理解が追いつきませんわ」
リリスが頭を抱えると、藍は何でもないように内容をまとめる。
「ここは機関が所有するマンションで、機関職員や関係者が入居しています。学園生や教師も例に漏れず、基本はこのマンションに住んでいます。リリス、貴方は明日から神楽高等学園に通ってください。身の回りの世話は私がしますので、困った際はお気軽に声をかけてください。以上です」
絶句。
目を見開き硬直したリリスは、手からカードキーを落とした。
勇緋はそれを空中で拾い、彼女の手に握り直させる。
錆びた機械のようなぎこちなさで、リリスは勇緋を見上げた。
「ユウヒは、すべて知っていましたの……?」
「いや、全部初耳だ。とても驚いてる」
「まったくそうは見えませんが」
「すまない。感情が顔に出にくいんだ」
「それは知っていますが……!」
拳を握り、わなわなと震わせる。
怒りと困惑が混ざった表情だ。
「じゃあ何ですの。わたくしに、学生として振る舞えと?
生まれてこの方、学生経験のないわたくしに?」
「ですから、そう言っているではありませんか。十五歳でしょう? 何の問題もありませんよ」
「あります、絶対ありますわ! というか、『身分は用意する』ってこういうことじゃないと思いますの!」
リリスは想定外の事態に叫ぶ。
鏡面世界で暮らしていたリリスは、暴れ始めた吸血鬼と、吸血鬼狩りの台頭について調査していた機関と接触し、協力関係を結んだ。
体力の限界が迫っていたこともあり、一度現実世界に避難することとなったリリスが、現実世界で暮らせるようにすると言ったのは機関であったが、流石にこのような立場になるとは想像していなかったのだ。
「ですが、貴方の年齢で、日中に外を出歩いている方が目立つでしょう?」
「そうかもしれませんけれど! でも、もっと前に言ってくれるとか……そう、他にやりようはありますわ!」
「色々時間がありませんでした。襲撃されて連絡が取れなくなりましたし」
「それなら仕方ありませんわね! ああ、もう……!」
半ばやけになって、話にけりをつけると、乱れた髪を払った。
「……過ぎた話に、何を言っても無駄ですわね。いいでしょう、やってやりますわ。納得はしていませんけれど。納得は、していませんけれど」
「ありがとうございます。必要な道具は最低限揃えてありますが、私服等は明日にでも買いに行きましょう」
「ええ……わかりましたわ……」
疲れきった顔のリリスに、藍はまた一つポケットからものを取り出した。
それは、携帯端末とその説明書だった。
「こちらをどうぞ。ご入用のときは、私に連絡してください。使い方は、見ればわかります」
「もうツッコむのはやめますわ。休ませてくださいまし」
「どうぞ。シャワーの使い方は……」
「……教えてください」
消え入りそうな声で、リリスはそう呟いた。
鏡面世界という神秘で何でもできる世界で暮らしてきた彼女が、神秘の使用を基本禁止され、機械を扱わなければいけない現実世界を生きるには、相当慣れが必要だろう。
カードキーを押し当て、電子音が鳴ると、扉の施錠が解除される。
「では、私は入浴の用意をしてきます。あとはお二人でお話ください」
カードキーを預け直し、そう言い残すと、藍はリリスの部屋に消えていった。
「……行きましたわね」
「……行ったな」
微妙な空気が二人の間に流れる。
好き勝手やって去っていった藍のせいだ。
無性にむしゃくしゃするが、あの女に何をやっても今の自分には勝てないだろう。
リリスは、何度目かの溜息を吐いた。
「『お話ください』なんて言われても、特に話すことはありませんわ。大体車内でお話しましたし」
「同感だ」
しかし、このまま別れるのは、どこかきまりが悪い。
何か話題はないだろうかと考えて、手すりに身体を預ける。
スーパーマーケットやコンビニなど、近隣施設が集まる一帯の外側には森が広がっていて、街の喧騒は届きはしない。
光も、鮮やかなネオンライトではなく、仄かな街灯と店頭の電灯くらいだ。
ふと、闇の中に見えた建物。
丁度良い話題を思いつく。
「そうですわ、ユウヒ。人間は、どうして学校に行きますの?」
「どうしてって言ってもな……」
「わたくし、学校なんて行ったことありませんもの。参考にさせてくださいな」
「それは責任重大だ」
理由、か。
改めて訊かれると、答えにくいものかもしれない。
現代人にとって、学校は行って当たり前のものである。
勇緋のような神楽高等学園の生徒も、同じだろう。
神楽高等学園は、普通の高校とは異なり、機関職員を育成するための学校だが、高等教育も行う。
感覚的には、『高校生』と変わりないのだ。
だから、勇緋が学校に行く理由も、おそらく、普通の高校生とそれほど変わらない。
「……基本、学校っていうのは、社会に出るために行くものだ。『社会の縮図』と言われるほど、学校は社会を学ぶことができる」
「なら、学校で学ばないと、社会に出られないのですか?」
「いや、そんなことはない。学校で学ばなくとも、社会に出ることはできる」
「では、行くだけ損になりませんこと?」
「逆だな。行くだけ得なんだ」
「『社会を学ぶ』のでしょう? わざわざ学校で学ばなくとも、社会で社会を学べばいい。ただ時間を浪費しているのでは?」
「確かに、それはもっともらしい意見もしれない。けど、学生には社会人にはない不利な条件がある」
「それは?」と、菫色の瞳が勇緋の顔を覗き込む。
純粋で、透き通っていて、世間の歪みや闇なんて知らない、『学生』らしい瞳だ。
「みんな、『子ども』なんだ。ほら、子どもは何も知らないだろ? だから、悪い大人に騙されてしまうんだ」
「子どもって……わたくし、子どもじゃありませんわ」
「見た目じゃない、概念的なものだ。社会を知らない人間は、みんな『子ども』だろ」
「人間でもありませんわよ、わたくしは」
「……そうだった」
上品に笑うと、リリスは話の続きを催促する。
その様子は、彼女の言動とは真反対に子どもらしい。
「悪い大人に騙されると、大小問わず損害が出る。その損害は、これからの人生の──夢を叶える旅路の障害になってしまう。邪魔を好き好んで受ける人は限られるから、『学校に行かない』っていう選択肢を取る人は、自然と少なくなる。要は、利益と不利益を天秤にかけて、利益に傾く方を選んでいる、ということだ」
リリスが深く頷く。
「……だから、学校に通う。夢を叶えたいから、学校に通うんだ」
「それなら、貴方の夢は何ですの?」
きっと、それは、無邪気な質問だった。
何も知らないから、何も思っていないから。
だから、心から出た問いだったのだろう。
一瞬の沈黙の後、勇緋は彼女に答える。
「──世界を守ること、かな」
人の身では到底叶えられないほどに大きく、実現不可能な願い。
荒唐無稽で、無茶苦茶で、不合理的な──子どもみたいな想い。
それが、御剣勇緋の『夢』なのだ。
だから、彼はどこか子どもらしいのだろう。
学校に行って、社会を学んで、成長して。
けれど、子どもみたいな希望を捨てられなかったから。
その『夢』を持って、ここまで歩んできたから。
だからこそ、御剣勇緋は『御剣勇緋』であるのだ。
淡く薄い唇が、弧を描く。
「きっと、貴方なら叶えられますわ」
その声は、夜闇のそよ風を貫くように凛としていて。
かき消されるなんてことはなかった。
あの時のような弱々しさなんて、もうどこにもなかったのだ。
「さあ、そろそろお互いに帰りましょうか」
「開け方は?」
「こう、でしょう」
自信満々に電子ロックを外し、胸を張るリリス。
それを微笑ましく見守りながら、勇緋は左手を機械にかざし、鍵を開ける。
「……何ですの、その謎技術!?」
「マイクロチップ。詳しいことは明日教えるよ」
「今教えてくださいまし。気になって夜も眠れませんわ」
「駄目。明日の楽しみだ」
むう、とリリスは頬を膨らませた。
そんな顔をされても、勇緋は意見を曲げない。
我が強い質であった。
「わかりました。では、明日は絶対に教えてくださいませ」
「了解。早く寝ろよ」
「貴方はわたくしの母ですか! ……また明日ですわ、ユウヒ」
「ああ。また明日、リリス」
そうして、勇緋とリリスはそれぞれの家に帰った。
扉を締めると、オートロックが作動する。
玄関先の電灯用のスイッチに触れれば、暖色の光が室内を照らした。
靴を脱ぎ、スリッパを履いて、やけに静かに感じる自室を歩く。
「……ただいま、みんな」
木製の棚の上。
そこには、伏せられていた写真立てが置かれていた。
映るのは、赤髪の少年と、その両親らしき人々の姿。
屈託のない笑顔の、幸せな家族写真だった。
目を閉じる。
目蓋の裏に映る暗闇を眺めていれば、徐々に身体が熱くなっていく。
焔が身を焼き続けているから。
痛くて、辛くて、苦しくて、哀しくて。
もう、死んでしまいたい。
「……忘れない」
けれど、死ねない。
まだ、何も成していないから。
まだ、『夢』を叶えていないから。
息が荒くなっていく。
焦燥、恐怖、あるいは興奮。
熱い。痛い。辛い。苦しい。哀しい。
でも、それが一番心地良い。
この焔が。
この傷が。
自分を、自分らしくさせてくれる。
空っぽで、底なしで何もない自分が、人間らしくなれるのは、きっとみんなの怒りがあるから。
六百六十六人の憤怒が、満たしてくれるから。
中身のない空白を、意味のない仮初で満たして。
そこに、純白のヴェールをかける。
ほら、これでもう何も見えない。
真っ赤に燃える焔なんて、見えやしない。
「……赦さない」
憎い。
みんなを殺したあの子が憎い。
憎い。
あの子がつくった人間が憎い。
憎い。
人間をつくった世界が憎い。
あの子がいなければ、人間がいなければ、世界がなければ。
みんな、死ななかったのに。
誰も、不幸にはならなかったのに。
だから、怒り続ける。
守り続ける。
いつか、己の手ですべてを壊すために。
すべてを終わらせ、不幸をなくすために。
今日もまた、どこかが軋む音がする。
歯車が外れてしまった機械のような。
壊れかけの機械が無理矢理動いているような。
そんな、音だった。
目を開ける。
明るい光が世界を映し出す。
この世界は、夢ではない。
けれど、ぼくの『夢』は。
おれの悪夢は。
まだ始まったばかりなんだ。




