十節/3
この世界は、神秘で満ちてしまった。
人間は誰しも異能を持ち、秩序に支配された社会の裏には、ただ己の夢だけを求める者たちの混沌たる欲望が隠されている。
表と裏は、ただ曖昧な境界ただ一つにより隔たれていて、それはどうしようもなく脆い。
だというのに、境界を越えてしまえば最後、『無辜の市民』ではいられなくなる。
馬鹿げている。
そんなルールがまかり通るものか。
けれど、それは紛れもない事実なのだ。
知らなかった、なんて言い訳は通じない。
ただ『境界を越えた』という事実だけが、人間という生物のラベリングを決定する。
だが、藍は──行く末を知っている愚か者は、まだ未来のある少年を救いたくて仕方がなかった。
「……今なら、まだ戻れます。すべて忘れて、何も知らない一市民として、幸福を享受できるんです。友人や家族とともに過ごして、仕事に苦労する大人になって。やがて、年老いた貴方は、皆に見守られながら、寝台の上で眠りに就く。戦場ではない日常の中で、貴方は息を引き取るべきなんです」
藍は二十二歳の若造だ。
機関に所属して早四年。
類稀なる才能と努力に培われた卓越した技術によって、序列四位の座に座り続ける女傑。
しかし、そこに至るまで、何人もの死を見てきた。
かたちも遺らずに消えていった、勇敢な彼らを。
身を挺してまで他を守り抜いた、高潔な彼女たちを。
けれど、それは皆が『大人』であったから。
自分の意志で、自分の未来を決めていたから。
だから、許されるものだった。
目の前の少年は、まだ十五歳の子どもだ。
未来は、まだ変えられる。
戦場で命を散らすなんて運命から、逃れられる。
それに、彼は──。
「それでも」
緋い目が、見ていた。
「それでも、おれはこの道を進みます。やりたいことが……叶えたい夢があるんです」
それは、と藍は小さく呟く。
知っている。
この先、貴方が何を言うか。
私は、それを知っている。
けれど、それはあまりにも──残酷な言葉なのだ。
「──この世界に存在する、ありとあらゆる敵をなくしたいんです。世界喰らいも、あの人たちみたいに道を外れてしまった人たちも。それをなくせば、きっと、皆生きていける。皆、救えるんです」
あまりにも、壮大な『夢』だ。
ありとあらゆる敵をなくす。
それはすなわち、彼が生きている間に生まれるすべての『悪』を斃すということ。
『正義』に反するものを、皆殺しにするということ。
そして、その果てにある想いが『皆を救うこと』だなんて。
それでは、まるで、神や救世主のような。
『こうであれ』とつくられた理想のような、願望なのだ。
「……最後に、一つ聞かせてください」
声が震えないよう気を張り詰めて、藍は『それ』を問う。
──貴方にとって『正義』とは何か、と。
「……それは、おれが定めるものじゃありません。ルールの上にある倫理的な、あるいは道徳的な多数派の意見を『正義』と言うのでしょう。なら、おれはそれに従うだけです」
何の迷いもない。
そんな顔で、貴方は答えた。
御剣勇緋というものは、とても歪な構造をしている。
まるで、誰かに意図的につくられたような。
『善人』で『従順』で、けれどどこか『人間味』を持ったどこにでもいる『普通』の少年。
でも、それは人間としておかしいのだ。
人間が、人間味を持つなんて、おかしいのだ。
人間に、人間味なんて必要ない。
だって、それがなくとも人間は『人間』なのだから。
『人間』らしくある必要は、まったくない。
しかし、御剣勇緋は『人間味』を持つ。
人間らしくあろうとする。
機械が『人間』の皮を被るように。
「……おかしなこと、言いましたか?」
黙りこくる藍を、『それ』は見上げた。
その仕草は、どこか子どものようだった。
そこから先、藍は自分の言動をよく覚えていない。
聴取を終えた勇緋を帰そうとして。
その時、見計らったかのように容子から連絡が来て。
『念の為もう一度検査したい』と言われたから、医務室まで連れて行って。
医務室では設備が足りないから、と地下にある検査室へ向かって。
そして、今、こうして彼の検査が終わるのを待っているのだったか。
廊下の長椅子に座り、壁に背を預けている。
隣には、彼の帰りを今か今かと待つリリスが座っている。
緩く巻かれた白銀の髪が、少女の動きにあわせて揺れた。
何も知らない彼女らしい、無垢な行動だ。
だからか、気づけば藍は口を開いていた。
「……リリス、お聞きしたいことがあるのですが」
「どうしましたの?」
「貴方にとって、御剣勇緋とはどのような方ですか」
腕を組み、リリスは悩む。
「大人っぽく見えて、子どもっぽい。真面目なように見えて、どこか抜けている。人に興味がないように見えて、人情に厚い。冷静に見えて、無鉄砲で向こう見ず。……こう羅列すると、本当におかしな人ですわ」
たった数時間の交流だ。
それでも、勇緋とリリスは友人であるし、互いをそれなりに把握している。
だからこそ、リリスはこの答えを出した。
「一言で表すなら──面白い方、でしょうか。見ていて飽きない。ずっと一緒にいたいと思ってしまう。そんな、不思議な人が私にとっての彼なのです」
貴方にとっては、どうなのですか。
自分だけ答えるのは不公平だ、とリリスは質問を仕返す。
そうですね、と空返事をする藍。
その顔はどこか苦しげで、その眼差しは会ったばかりの他人に向けるものではなかった。
不審に思いながらも、リリスはそれを追求できない。
だが、勇緋と藍の間には、自分が知らない事情があるのだと察したのだった。
数秒の沈黙の後、藍は言う。
「……概ね、貴方と同意見です。好ましい方ですよ、彼は」
昨日、容子に無茶振りされた時と同じ答え。
だが、そこに含まれるものは、どうしても異なってしまう。
御剣勇緋は、世間一般からすれば、お手本のような善人である。
それは、藍から見ても変わらない。
しかし、一度彼の本質を知ってしまえば、そうは思えなくなる。
溢れんばかりの伽藍堂。
器みっちり詰まっているように見えて、何も入っていない。
ただ、そう見えるだけなのだ。
それは、本来あるはずの中身がなくなってしまったから。
一度器が壊れてしまったから。
だから彼は、『無』を中身にして、中身があるように偽っている。
ああ、ずっと前から彼は──御剣勇緋は、どうしようもないほど壊れてしまっているらしい。




