九節〈久遠の紅焔〉
雲一つない群青の空。
ぎらぎら輝く純白の太陽。
東京のビル街を、夏の熱気が包んでいる。
あまりにも暑いものだから、いつも元気な少年も、休日だというのに、今日ばかりは外に出る気になれなかった。
父も母も暑さに参ってしまって、皆クーラーの効いた部屋でアイスを食べたり、ゲームをしたりして過ごしていた。
特に母は、腹の中に六か月にもなる胎児がいたため、体調には気を遣わなければいけない。
どうやら女の子のようで、少年にとっては妹となる初めての存在だった。
しかし、まだ五歳だった少年は、『妹』という存在がよくわからず、言われるがまま母の腹に耳を当てて、ぽこりぽこりと胎児が腹を蹴る音を聞くくらい。
『新しい家族』という言葉に、ぴんと来ることはなかった。
それでも、少年は、妹の誕生を望んでいた。
両親も、娘の誕生を望んでいた。
そうして、家族四人で、ずっと幸せに暮らせる未来を思い描いていた。
そんな、とある夏の日のこと。
何でもない、平凡な日常。
──けれど、それは。もう、どこにもない。
警報がけたたましく響いた。
大きな揺れがあった。
お昼のバラエティから、緊急速報に切り替わったテレビ。
ニュースキャスターも、番組制作陣も、落ち着きがなくて。
まだ幼い少年でもわかるくらい、現場は逼迫していた。
『何があったの』と少年が訊いた。
父が『逃げよう』と言った。
母が『大丈夫だよ』と言った。
両親は、答えてくれなかった。
おそらく、少年を不安にさせないためだ。
はっきり言えば、少年はどうしようもなく怖かった。
あんなに笑っていた人たちが、皆急に怖い顔をし始めて。
父も母も、顔は笑っていたけれど、どこかピリピリしていて。
子どもながらに、今が一刻を争う非常事態だということを認識した。
数分後、少年は父に抱えられて家を出る。
どうやら、『避難所』に行くらしい。
身重の母を支えつつ、三人は目的地へ向かった。
避難所──千代田区に置かれた世界神秘管理機関日本本部本拠点へ。
太陽の熱が、じりじりと肌を焼いた。
昼時の日光は、非常事態を気にも留めず、自分勝手に輝いている。
こんなに自分は怖いのに、太陽は何も知らずに笑っている。
人間のことなんて、何一つわかってくれないのだ。
夏が嫌いになったのは、多分、きっとこの時だった。
三十分も経たず、三人は千代田区へ足を踏み入れた。
あと五分ほど歩けば、本拠点につくだろう。
三人以外にも、多くの人が本拠点に向かっていた。
少年は父の胸に顔を埋めていたから、どのくらい人がいたのかはわからなかったが、後の話を聞く限り、少なくとも五百人はいたようだ。
喧騒や怒号が、目的地へ近づくほど大きくなっていく。
少年は、大きな音が苦手だったこともあり、耳を塞いだ。
まったく聞こえないわけではなかったが、気休めくらいにはなった。
そして、避難者一同は本拠点を目にする。
そこでは、機関の職員が避難誘導をしていた。
ようやく安寧の地に辿り着いたのだ、と皆が胸を撫で下ろす。
本拠点は、機関が誇る要塞施設だ。
一度入ってしまえば、危険に晒されることはない。
だから、考えていなかった。
──これから死ぬ、なんてことは。
ふと、空を見上げた。
勘が良かったのか、それとも、ただの偶然か。
彼らは、彼女らは、『それ』を見つけてしまった。
黒い髪に黒い瞳。
それとは対照的な、血色の悪い白い肌。
烏色のドレスを身に纏った少女が、太陽を背にして浮かんでいる。
それはまるで、日が蝕まれているようで。
真夏の燦々とした日光をすべて飲み込んでいるようで。
見惚れる観客を、情熱という名の焔で燃やしてしまうほど──美しかった。
まず、目が焼けた。
次に、喉が焼けた。
皮膚、髪、内臓、骨。
轟々と燃え盛る焔が、人々を焼き焦がす。
それは、少年も例外ではなかった。
声を上げることも、逃げ出すことも許されず、ただ痛みに耐えるしかなかった。
己が死に絶える、その時まで。
辛うじて見えた右目。
それが、自分を庇った両親の死に様を捉える。
すべてが灰となり、影も形も残らない。
両親だけでなく、周りにいた約五百人も皆灰と化していた。
その地獄を前にして、元凶たる少女は笑っている。
業火を輪舞曲にして、踊っている。
──何かが壊れる音がした。
どうして、あの子は笑っている。
どうして、あの子は踊っている。
何が面白いのだろう。
何が愉しいのだろう
ぼくらは、こんなにも熱くて、痛くて、辛くて。
泣きたくなるほど、苦しいのに。
──ああ、赦せない。赦さない。赦してはいけない。
憤怒の焔が、少年の内から湧き上がる。
お父さんと、お母さんと、妹。
それと、他の人たち。
あなたに殺された、みんなの想い。
ぼくは、ずっとそれを抱えよう。
ぼくは、ずっとそれを忘れないでいよう。
少年は、太陽に手を伸ばす。
「──殺してやる。いつか、あなたを。絶対に」
その言葉は、音にはならない。
けれど、決意として、心に刻み込まれた。
深く、深く。
壊してしまうほど。
目を閉じ、思い描くのは、いつかの未来。
少年は、剣を片手に少女に相対する。
そして、八つ裂きにするのだ。
声も出せず、逃げ出せず、ただ死ぬことだけが運命づけられる。
そう、彼女に殺された人々のように。
ぐしゃり、と何が墜ちて潰れる音がした。
きっと、それは少年の腕なのだろう。
焼け焦げた身体には、もう感覚が残っていない。
腕が落ちても、痛みは感じなかった。
暗闇の中、可憐な少女の声が聞こえた。
鈴を鳴らすように綺麗な、笑い声だ。
最期のときまで、少女はずっと笑っていた。
青い空と白い雲。
赤い炎と黒い少女。
それが、少年の原風景。
あの苦しさは、あの怒りは。
燦爛たるこの感情は。
どれほど時間が経ったとしても。
たとえ、少女を斬り殺したとしても。
ずっと、忘れることはない。




