二節〈紅の邂逅〉/1
掌に花弁が舞い降りる。花脈を辿るように広がる紅が、白を侵食していた。
「……桜、か」
見上げれば、桜の木々が枝を揺らしている。
穏やかな風だが、あの細枝では爛漫の花々は支えきれないだろう。
まだらに咲いているところを見るに、樹齢はそこまで高くない──この場所が建設された当時に植林されたものなのだから、精々二十年ほど。
数か月前に十五歳になった自分と比べれば、少し年上ということになるのだろうか。
この桜がソメイヨシノならば、寿命は約六十年。
人間とそう変わらない命だというのに、春を迎えたときのみ花を咲かせるだけ。
それに、何の意味があるのだろうか。
誰かのために?
それとも、己のために?
ただ花開くだけなんて──いや、そうか。
ただ、生きているだけなのか。
意味も、理由もなく。
ただ生きるために、それらは花を咲かせている。
生きて、命を繋ぐために、花を咲かせるのだ。
ああ、そうだ。
人間と変わりないじゃないか。
ふと、桜の根本を眺めた。
櫻の樹の下には何とやらとは言うが、現実的に考えて、新設されて日も浅く、監視の目もあるこの近辺に、屍体が埋まっているなんてあり得ない。
どれほど紅くとも、それが血であることはあり得ない。
だから、この話はもう終わりにしよう。
少年は、視界の端に揺れる赤髪、その左側を耳に掛ける。
部屋を出て、大凡一時間が経過した。
夜風に当たったおかげか、いつの間にか身体の調子は整っている。
また夢見が悪くなる可能性は、かなり低いだろう。
この春、少年は長年育った地を離れ、東京にやってきた。
進学先の高校が東京にあるためだ。
新居で過ごし始め、早二日。
ようやく落ち着いてきたというところで、慣れない環境の疲れからか、悪夢を見てしまったのだ。
幼い頃から度々見ることもあり、対象法はよく知っている。
誰もいない静かな場所で、一人過ごすこと。
ただし、閉鎖的な空間や暗い空間ではないことが必要だった。
だから、少年は自室から出て、マンションの周囲にある広場を歩いていたのだ。
地元と違って、ここの街灯は夜中もずっと点いている。
そのせいか、空に浮かぶ弓張月の光は、家の縁側から眺めたときよりも弱く感じた。
それでも、月の美しさは変わらない。
淡い光も、また一興ということだろう。
スマートフォンの液晶で時刻を確認すれば、現在は午前二時頃。
日の出まで、あと三時間ほどだ。
明日もまだ休みとはいえ、夜更かしはあまり良くない。
そろそろ、部屋に戻ろう。
そう思い至って、踵を返したときだった。
──……誰か。
小さく、弱く、けれど響く。
鈴を鳴らすような、少女の声。
聞こえたその声の出処を探すように、少年は周囲を見渡す。
記憶を思い返し、方向の予測を付けた。
「……こっち、か?」
しかし、そこにあるのは手入れされた花壇と噴水のみ。
人影は、微塵もない。
だが、妙な胸騒ぎがした。
『それ』が答えだ、という確信があった。
身構えながら、ゆっくりと近づいていく。
飛沫が跳ねる音、風が木々を揺らす音。
その中から、少女の声を聞き分けようと耳を澄ました。
──……お願い、誰か。
先程より、随分と明瞭に声が聞こえる。
予測は、間違っていない。
声の主は、この噴水だ。
少年は身を乗り出して、水面を覗き込む。
しかし、映ったのは、見覚えしかない自分の顔と身体。
どこにも『少女』は見当たらない。
「……気のせい、なのか」
そして、自分の姿を掻き消すように、水面に触れた。
──助けて……!
瞬間、頭に響く叫び声。
抵抗する間もなく、身体が水面に引きずり込まれた。
流動的な冷たさを抜ければ、自由が利かない浮遊感に包まれる。
咄嗟に閉じた目を開くと、広がるのは一面の夜空。
ゆっくり遠ざかっていく、満天の星々と月。
「……は?」
超高速で回転する脳が、けたたましい警鐘を鳴らしている。
こんな状況でなければ、心地良いはずの風を感じながら、何度かまばたきをした。
『何が起こった』と思考停止している暇もなければ、『綺麗な夜空ですね』と現実逃避をしている暇もない。
おそらく、残された時間は両手で足りるほど。
そうして、意を決して背後を振り返ったとき、少年は理解する。
──これは、死ぬだろ。
目に入ったのは、崩壊したビル街と、瓦礫が散乱する道路。
クッションになり得そうなものは、ただ一つもない。
いや、こんな高度から落下すれば、どんなものでもクッションにはならないのだろうが。
今の少年は、鳥のように飛ぶこともできなければ、ヒーローのように華麗に着地することもできない。
まして、落下の衝撃に耐えられるような耐久性も持ち合わせていない。
このフリーフォールから生存する可能性は、絶望的だ。
それでも、少年は迫り来るアスファルトを目の前に、せめてもの抵抗として受け身を取った。
諦めなければ、きっと大丈夫だと自分を鼓舞して。
数秒後、途轍もない衝撃が少年を襲う。
だが、それは地面との激突ではなかった。
別の『何か』とぶつかった。
否、少年と『何か』がともに弾き飛ばされたような衝撃だった。
地面を何度か跳ね、転がり、やっとのところで動きが止まる。
痛む身体、揺れる視界。
片腕で支えながら、自分に重なる『何か』を見た。
赤黒い血で染まった、服と髪。
浅い呼吸で上下する、胸と肩。
全身に刻まれた傷は多く、まだ新しい。
意識が混濁しているようで、揺すって声を掛けても反応は薄かった。
顔と身体を見れば、大体同年代の少女だと察しは付く。
また、例の声の主が、この少女であるということも。
正面から、いくつか足音が聞こえた。
「あ? 何か一人増えてんだけど」
「マジ? ……ガキじゃねーか。しかも、こりゃあ……一般人だぜ。普通の人間だ、人間」
「境界超えられる一般人がいて堪るか」
「いんじゃねーか目の前に」
「いるから困ってんだよ」
柄の悪い成人男性、三名。
軽い口調で話すが、彼らが手に持つのは、剣、斧、棍棒。
つまり──凶器。
「で、どうするよ? 完全に見られちまったぜ?」
「そりゃあ、ねえ……」
まだ動けず、呻く少女。
少年は、彼女が何者かを知り得なかった。
けれど、彼女と同じような姿をした者たちを、知っていた。
だからこそ、理解する。
ここが戦場であることを。
彼女が逃亡者であることを。
彼らが追跡者であることを。
そして──
「殺すしかねーだろ」
──自身もまた、追われる立場にあるということを。