六節〈若者の人間離れ〉/1
視界が開けたかと思えば、足裏に硬い床の感覚がした。
窓も家具もない、殺風景なコンクリート造りの空間。
特徴は、壁の一面がすべて鏡になっていることだけだ。
じっと鏡の中を見てみる。
映っているのは暗赤色の髪と赤い瞳の少年──他ならぬ勇緋であり、特に変わったところはない。
表面に再び触れても、先程のように入ることはなく、ガラスの硬さと冷たさだけが伝わってきた。
神秘というものは、本当に不思議なものだ。
「……気になりますか?」
「まあ、はい。存在自体は知っていたのですが……何分慣れていないもので」
「機関としては、慣れている方が困ります」
「……そうですよね」
近づいてきた藍の腕の中には、リリスはもういなかった。
「彼女は他の職員に受け渡してきました。……ご心配なさらずとも、命に別状はありません。直に目覚めますよ」
「わかりました。ありがとうございます」
「礼には及びません。むしろ、申し上げるべきはこちらです。貴方がいたからこそ、彼女は無事……ではありませんが、五体満足で生き抜くことができました。
本来、護衛の任に付いていたのは、私たち機関の者。妨害工作の対処に時間がかかってしまっていたことを加味しても、我々が不出来であったことは明白です。本当に、申し訳ございませんでした」
彼女は深々と頭を下げた。
人から謝罪されるという経験に慣れていない勇緋は、慌てて首を振る。
「勝手に首を突っ込んだのはこちらなんですから、そう気にしないでください。それに、今回に関しては、貴方が来てくださらなかったら、きっと二人とも死んでいたので……。一般人がこういうことに関係するのは、あまり褒められることではない、ですよね?」
「……そうですね。私たちの使命は、市民の皆様をお守りすることです。貴方方が危険に晒されることが想定される行為の実行は、推奨されていません」
藍からすれば、勇緋は突然降って湧いて出てきた謎の人物だ。
想定外も想定外。
彼女らの計画か狂った一因でもあるのだろう。
だからこそ、藍たち機関側が謝罪する必然性は、それほどないのである。
「なら……お互い様、ということで手を打ちませんか? 機関の方々は再発を防止するように、こちらは不用意に手を出さないように、と」
虚を突かれたという風に、一瞬目を見開いた藍は、硬い表情を少しだけ綻ばせた。
「……はい、それが一番の落とし所ですね。お気遣いありがとうございます」
「いえ、こちらこそありがとうございます」
互いに腰を曲げれば、そこで話は終わった。
これから先は、事後処理についてだ。
「先よりお話していた通り、これから事情聴取をさせていただくことになります。……今更で失礼ですが、どこかお怪我はありませんか?」
「ああ……そういえば、高所から落下したり、ビルの倒壊に巻き込まれたり、頭を潰されたりしたりして、結構大変だったらずなんですけど、今はどこにも傷がないんです。何かご存知ですか?」
和やかだった空気が、たちまち冷え込んだ。
「……はい?」
「あ、いや。嘘を吐いているわけじゃないんです。ただ、いつの間にか、怪我がほとんど治ってしまっていて……確かにあったはずなんですけど……」
「……少々お時間をください」
勇緋の荒唐無稽な主張に、藍は頭を抱えた。
聞き間違えでなければ、彼は今、死んでいてもおかしくない状況の数々を列挙した。
藍が到着する前に、いったいどれほどの戦闘が行われたのだろう。
今現場を見に行けない彼女には、正確な判断はできなかった。
負傷度合いの詳細は不明だが、あの男に受けた傷はともかく、高所からの落下とビルの倒壊で負った怪我というのは、ほんの数時間前の話であり、すぐに治るわけがない。
──いや、覚醒させたのであれば、そうでもないのだろうか。
取り敢えず、検査は行わなければならないだろう。
本人がまったく堪えていないように見えても、検査しなければ機関側が納得いかない。
携帯端末を手に取った藍は、施設内の医療部に連絡する。
今なら、一人くらいならすぐに診てもらえるはずだ。
「……御剣さん。少し予定を変更して、貴方も一度検査を受けていただきます。軽い体調チェックのようなものですので、そう気負わずに」
何も知らず、純粋に頷く勇緋。
間もなくして、二人は医療部の人員が待機する医務室へ向かうことになる。
藍は先に挙げられた負傷を気にしつつも、けろりとした顔で歩く彼に、何も言い出せなかった。




