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作者: macbex

賞に落ちちゃったので公開します。


高野さん

こんばんは。突然のメールで申し訳ない。

他に連絡を取る手段がわからなかったので、どうしようかなってだいぶ困りました。

今は図書館も休館しているのかな? コロナの影響で全国的に図書館が休んでいると聞きました。みおさんは喘息の気があったから、コロナ騒動は本当に気がかりでした。元気で過ごしていたら良いのだけれど。

さて本題なんだけれど、以前鍵を返してもらえるって話だったと思うんだけど、今どこにあるのでしょう? ポストの中を探してみたけれどなくって、自分はてっきり高野さんが持って帰っちゃったのだと思ってました。すごく申し訳ないのだけれど、鍵についての情報だけ教えてくれるかな? 返信待ってます。

追伸

あんまり興味ないかもしれないけど、自分の近況についてです。コロナの影響で会社が五月の中頃まで休業になり、固定部分のみだけ給料になります。だからこの一週間くらい家にいるのだけれど、その間に小説を書き始めました。

自分は四年前以来、もう絶対に小説なんて書かないって決めたのだけれど、形だけでも書きたいと思っています。江古田文学賞に向けてやっています。コロナでどうなるかわからないけれど。

 長くなってごめんね。鍵の件だけでも、よろしくお願いします。


 また嘘をついた。俺は小説なんて書いていない。

でもこう書いたら高野さんは返信をくれるかもしれないと思ったのだ。もっと言えば、俺への興味を少しでも回復してくれるのではないかと思ったのだ。

 ここは新宿駅徒歩一分の武蔵野ビル。一二階から見下ろす新宿の街は寒々しい。通りを歩く人は絶無と言ってもいい。靴の音が聞こえなくなると不況の音が聞こえてくる気がする。

「ケン、まだ帰らないのか?」

 振り返ると、春物のトレンチコートを着た李さんが立っていた。

「今何時ですか?」

「もう間もなくデスクに布団を敷かなきゃいけなくなる」

「転職情報誌を枕に?」

「枕になるほどの厚みもない」

 李桃、正しくはなんと読むかはわからないし、本人も名乗らない。お客には「(ご主人の場合)桃さん」「(奥様の場合)桃ちゃん」と呼ばれている。俺は李さんとしか呼ばない。李さんの鍵閉めを手伝いながら、転職とか考えてるんですか?と聞いた。

「タイタニックの船長じゃないんだから、沈むなら逃げる。渦潮に巻き込まれないうちにね。でも他の奴らみたいに、時給1100円のコンビニバイトを有難がるのは御免だね」

「李さんならどこだってやってけますよ」

「ケンはどうなんだ?」

エレベーターホールに続く重い扉を閉める。

この4年間で扉の開け閉めが上手くなった。

「作家にでもなろうかな」

 地下パーキングには選ばれた営業しか停めることはできない。以前、ダイハツのタントを誰かが勝手に止めて、レッカーをかけられてるのをみた。景観法だと李さんは笑った。

新宿一分立地の駐車料金が分刻み何円なのか知る人は少ないだろう。俺は李さんのジャガーの助手席にお邪魔して、扉を閉めた。バン。打ちっぱなしのコンクリートによく響く。

「それは夢のあることだ」

 リモコンキーで電動シャッターを開けると、ジャガーが夜を切り裂いた。

 

 俺は芸術系の大学を出るのと同時に、二つの道で迷っていた。4年も前の話だ。一つはホテルマンだった。東京から遠く離れた場所で働きながら、全部忘れてしまおうと思ったのだ。

しかし俺は外国語ができなかった。集団面接にこぎつけても、必ず何ヵ国語話せるのか質問されて閉口した。そして俺の左右の人々は決まって、バベルの塔崩壊を知らない無垢の人々だった。

 第二の道が今だ。新宿を中心に投資・居住用の住宅を売る仕事。一言でいえば過労死したかったのだ。俺は履歴書の裏に遺書でも書こうかと思った。でも不思議なことに、遺す言葉なんて何一つ浮かばなかった。白紙の遺書を見て採用担当もにっこりした。理想的人材と思われたに違いない。

初めて李さんに営業同行をしたとき、小説を書いていたんだって?と聞かれた。

「ここだけの話、俺はフィッツジェラルドが好きなんだ」

 後からわかったことだが、李さんはお客の開襟を緩めるために「ここだけの話」を多用していた。俺もその手管にはまったわけだ。

「フィッツジェラルドの何ですか?」

「全部好きだよ」

 李さんが本当に読んでいたのかは未だにわからない。

「ケン。君は売れるよ。君を最高に活躍させる舞台がここにはある」


 ジャガーは西新宿JCTから首都高に入り、破壊的なスピードで走った。李さんの家は小金井市にある。俺の家は府中。ほとんど目と鼻の先だ。首都高は前方にテールランプを確認できないくらいに空いていた。越さないのかと李さんは言った。多分、言ったんだと思う。なにせジャガーの静粛性と言ったら大したものだ。

「今年の八月に更新なんです。それに、鍵を返してもらってない」

「鍵なんて変えちまえばいい」

 彼女が持ち続けている鍵、それが俺たちの唯一で最後の共通点だった。彼女はスイカのパスケースにキーを付けていて、まだ図書館に勤めているのであれば、それは毎日目にされているはずなのだ。

 パスケースを出す。改札が開かれる。

 いつか何かの拍子で、その鍵でもう一度扉を開いてみようと思うかもしれない。そうでなくても、鍵を返しにくる一瞬に会えるかもしれない。俺は折衝成約率が高いのだ。会えさえすれば、手はいくつも思いつく。

 稲城ICで降りて、競馬場通りを走る。俺の家は是政にあって、もうすっかり見慣れた景色になっている。李さんはスピーカーでお客と話していた。明後日に控えた大口の契約がよれそうになっているのだと噂を聞いた。

 お客は50代のマダムで、コロナ関連のニュースが地上波される度に、この二週間李さんに電話をかけてくるようになった。一律十万円給付金が決まって、日本国の税制はまずいことになるんじゃないかとマダムは不安に思ったそうだ。

「大丈夫ですよ。諸外国では普通のことではないですか」

「でも、マスクを配ったり、和牛券とか…もう日本はだめなんじゃない?」

「医療崩壊も感染爆発も、水際で食い止めてますよ。だから大丈夫。それに新宿のタワマンなんて、『円』よりも資産性があると思いませんか? 分散投資的な意味合いとしても良い選択だと思います」

「そう思う?」

「ええ、もちろん。もしよければ明日の夜にでも夜景をご覧になりに来ますか? 日本の明りを一望できますよ」

 マダムはうふふと笑うと、電話を切った。あと二日の辛抱だと、李さんは自分に言い聞かせるように言って溜息をついた。

この業界に入るまで、人は合理的に家を買うものだと思っていた。でも実際は違う。人は感情で家を買う。人間は人間が考えているよりも非合理で感情的な生き物で、合理的に判断できるのは重要でなく自分に関係のない物事だけだ。

俺たちは購入申し込みを受けてから契約するまでの一週間余り、お客の心の火が風に吹き消されないように、両手で守るしかない。大丈夫。大丈夫と何度も口にしながら。でも本当は何が大丈夫かなんてわかりはしないのだ。

「たばこいいか?」

「李さんの車ですよ」

 是政は府中のなかでも、四谷に続いて人気のないエリアになる。街灯が少ないため夜道が暗く、住宅地として開発されつつあるものの、玉砂利の敷かれた駐車場や田畑がまだまだ目立つ。そして南を向けば、空を遮るように高速道路の高架があり、多摩川氾濫時には水深五mの底に沈む。

 俺のアパートは片側二車線の幹線道路の沿いにある。築の新しい旭化成の軽量鉄骨で、オートロックがついている。是政駅までは徒歩七分ほどの立地だ。この家は二人で選んだ。高野さんはペット不可の点だけが納得いかなそうだったが、引っ越し記念に二人でワインを飲んだ時には確かに満足そうな表情を浮かべていたものだ。

 李さんに缶コーヒーを持ってくと、晩酌が待ってると辞された。

「ケンの契約はだいじょうぶなのか?」

「あとはローンを通すだけなので」

「山梨?」

「いつもの奴です」

 李さんは器用だなぁと言って笑った。そして、思い出したように「明日のことがあるんだから、早めに寝とけよ」と言った。俺が知ってたんですか? と聞き返すよりも早く、李さんは窓を閉めると、地面が揺れるほどのエンジン音を響かせて発進させた。

 携帯を開くと、メールが一件入っていた。山梨中央銀行の飛田さんからだった。長瀞さんの案件、早く小説を書いてくれとのことだった。


 飛田さんとの出会いは、李さんを除けば俺の人生で最も『金になった出会い』だった。飛田さんは山梨中央銀行のバンクマンで、ブラウンの髪を後ろに撫でつけた、針金のように細い男だ。案内同行の翌日に李さんに紹介され、飛田さんからも「小説を書いていたんだって」と言われた。

「芸術系の大学から不動産に入ったのは何で?」

「もう創作はしたくなかったんです」

「ふーむ」飛田さんは顎を指で撫でながら「それは困るな」と言った。

 それは困る?

「君の小説を待っている人が、それこそ百はいるんだよ」

 悪い冗談だと思ったが、果たして本当に百じゃ利かない人々が俺を待っていたのだ。お客はすぐに俺の元に列を作ることになった。

 二〇一八年一月『スマートデイズ』が経営破綻を起こし、スルガ銀行の不正融資が明るみにでた。スルガ銀行は投資用住宅ローン(金利四%前後)で融資しなければいけない案件を、居住用住宅ローン(金利一%前後)として融資を出し続けたのだ。この一連の流れは「かぼちゃの馬車事件」と呼ばれている。

 この事件に関して、飛田さんや山梨中央銀行が絡んでいたわけではない。問題はこの事件のハーレーションにあった。この事件以降「単身者」の住宅ローン審査が途轍もなく厳しくなったのだ。

 スルガ銀行が半年間の業務停止を金融庁から命じられたのが、相当ショッキングだったのだろう。ほとんどの銀行が首をすくめる中、飛田さんだけは違った。東京へ進出するならこのタイミングしかないと飛田さんは言った。

「今東京の単身者でローンが組みたい人は五万といる。しかしどこも受け付けない。単身者に金を貸すのは大きなリスクだと上は思っているんだ。でもそんなのはおかしい話だろう? 俺も、君も、李も独り身だ」

「ならそういう宣伝をされれば良いんじゃないですか?」

「単身者は賃貸転用の疑惑から今逃れられない。大事なのは物語なんだ。この人は居住用の住宅を投資用の賃貸に回したりしない。上がそう納得すれば融資は降りる。この人が単身でも家を買う事情があるのだと、文脈を作ってほしい。つまり、物語にしてもらいたいんだよ」

 翌日から仕事が始まった。飛田さんは窓口にやってきた単身者の人に、俺の名刺を配った。その日のうちに一人の女性が会いに来た。事務所の接客スペースの一角は、白いレースのカーテンで仕切られ、お客が不安そうな面持ちで席に着いた。飛田さんから紹介されてきたのですが、と女性は言った。

「あの、こちらは不動産屋さんですよね? 融資と関係があるんですか?」

「関係があります。恐縮なのですが、単身者の方へのローンはとても通り辛くなっているんです。ご存じですか?」

「はい。いろいろ当たってはいるんですけど、独身だと難しいって皆さん仰って」

現れた女性は佐伯里香さん、29歳、エネルギー関連会社の課長補佐で、年収は700万円程。立派な経歴だ。でも、銀行はこの人にお金を貸して投資資金に回されないかが怖いのだ。

「大変失礼な質問になってしまうのですが、佐伯さんはどうして一LDKのマンションを買われるのですか?」

「…と言いますと?」

「佐伯さんはとてもお若い。この後の人生にどんな良い出会いがあるかは、私にも佐伯さんにも分かりません。ですが一LDKのマンションを買うということは、佐伯さんの人生を限定する可能性だってあります」

 俺はなるべく真摯に、そして率直に疑問を投げかけた。銀行マンには出来ない質問だった。そしておそらく、それが聞けないことが銀行にとって一番怖いことなのだ。

佐伯さんは一瞬の驚愕を顔に滲ませるが、俺が融資を通すのに必要なことなのですと念押すと、観念したように話し出した。

「それはわかります。同僚にも気が早いって。でももう良いんです。逆にさっぱりするんです。こうした方が」

「何か思うことがあったんですか?」

「こんなこと話すのは変かもしれないのですが」

「続けてください」

「私は十五年間も生理が来たことがなくて。それで結婚を考えていた方とも上手くいかなくって。だったらもう、結婚を諦める踏ん切りにもなるのかなって…」

 それから30分ほど佐伯さんは話し続けた。途中、営業の勝川さんがお茶を入れ替えにやってきた。涙を浮かべながら話し続ける佐伯さんに、ギョッとした様子だったが、それすらも佐伯さんは気にせずしゃべり続けた。

 俺は佐伯さんにハンカチを手渡すと、今検討されている物件でローンを通せるよう、尽力すると約束をして、彼女をエレベーターホールまで送った。佐伯さんはお願いしますと軽く頭を下げて去っていった。

 ちょうど営業から戻ってきた李さんと佐伯さんは行き違いになった。李さんもギョっとしていた。

 俺は飛田さんにメールを打った。こんな内容だ。

「佐伯さんは埼玉県の上尾に生まれて小学6年生までは円満な家族の元で育ったのですが、中学進学と同時に両親が離婚しました。両親は6年も前から仮面夫婦で、子供の中学進学を機に別れることが決まっていたそうです。それを知った佐伯さんは以後生理が止まり、14歳の子供の頃から29歳の今まで自分が『普通』の家庭を築けるか不安を抱えていました。

今回長くお付き合いされていた方から子供のことで婚約破棄に遭い、形式上の慰謝料として200万円(今回の頭金です)もらったそうなのですが、もうこれできっぱり『普通』の家庭を築くのをあきらめて、小さいお家を購入することに決めたそうです。

今回の審査対象物件は一LDKですが、LDK部分に間仕切りをして2DKにする予定もあるそうです。もし自分に理解を示してくれる方が現れたら、子供がいなくても幸せな家庭を築けるように」

 そして俺は佐伯さんが検討している物件の間取り図に、勝手に線を一本書き加えて山梨中央銀行に出した。その三日後、ローン承認の連絡と、佐伯さんからの感謝の電話が来た。すぐに契約が決まる。1980万円×0.03+6万円の売り上げがグラフをのばす。新宿で不動産を営む人からすれば、雀の涙のような売り上げだ。別段、誰も褒めやしなかった。「小口で残念だったね。せめて両手契約なら」と、気の毒がられたほどだ。でも、俺や李さんにはわかった。ここはとんでもない金鉱だった。


 アラームを止めていても七時に目が覚めてしまう。今日はオフの日だからゆっくり眠りたかったのだが、上手くいかない。李さんにしてもそうだが、不動産屋にオン/オフは存在しない。携帯への着信に出れるか出れないかで、契約の可否が決まることが往々にある。俺は一度同僚同士の結婚式に出たことがあるが、それはひどいものだった。こんな日くらいみんな電源を落とせば良いのに。

 携帯にはラインが一通届いていて、勝川さんからだった。緊急のアポ無い? 俺は無いよと返事して、13時に迎えに行くと続けて送信した。シャワーを浴びて、剃刀をあてながら、ピンク色の歯ブラシに手を伸ばしたが、わざわざ今日という日に捨てる必要もないだろう。不倫の時に結婚指輪を外すドラマじゃあるまいし。

WICに入り、7着のスーツと21着のワイシャツと63本のネクタイをかき分けながら、なんとか私服らしいものを探した。ティーシャツにジャージみたいな生地の上着、そして七分丈のスキニーのジーンズに真っ白のテニスシューズ。中古のBMWの鍵を指にぶら下げて家を出た。テレビでは外出自粛の要請を小池百合子が繰り返し訴えていた。

彼女が家を出て行ってから、今日で92日になる。92日と言えば不動産慣行上の瑕疵担保責任から免れるくらいの日数だ。「もう自粛はいいでしょう」と勝川さんは言った。それは納会が潰れて、二人で中央線に乗っているときの会話だ。

勝川さんは大学2年までソフトボールをやっていた体育会系で、今会社に残っている俺の唯一の同期だった。いかにも健康そうな褐色の肌と、くりくりした目。会社内のみならずお客からも可愛がられるタイプの人だ。

 深夜の中央線は岩手あたりを走っている私鉄なみに人影はなく、ノートパソコンの入った重いバッグを座席に置いて、二人で四席使ってもぜんぜん平気なくらいだった。こんなこと、3年間の間に経験したことがなかった。

「気分転換にどっか行こうよ」

「なかなか肝が据わってるね」

「会社にバレたら怒られるかもね」

 でも会社は俺たちを普通に新宿へ呼びつけて、あちこちの物件の写真をパシャパシャ撮らせているのだ。休日に車を走らせたって、怒られるいわれはないだろう。

「どこか行きたいところでもあるの?」

「どこでもいいよ。大音量で音楽聞きながら、そこらへんドライブしようよ」

「じゃあついでに下見とかしていい?」

 勝川さんはジトっとした目で俺を見る。まあいいけどね。

 そんな訳で、俺は調布にある勝川邸へと出向いた。クラクションを短く鳴らすと、アパートのエントランスからパタパタと出てきた。キレイ目のワンピースに丈夫そうなアーミージャケットを羽織っている。今の流行りらしい。彼女の私服を見るのは久しぶりだった。

「まずどこ行くの?」

「調布市役所」

「1回目のデートで役所に行くと思わなかった。戸籍課に用はないわよね?」

「もし行くなら、最後のデートだ」

旧甲州街道は普段通らないが、今日に限ってはがらがらに空いていた。勝川さんはブルートゥースオーディオで髭男dismやking gnuを好んでかけた。助手席を軽くリクライニングにして、飯田君の家は木造? と聞いた。

「いや軽量鉄骨」

「大和さん?」

「旭化成の方」

「いいな。うち木造だから音すごいよ。隣ん部屋のカップルとか神経に触るから、いちゃつき始めたら般若心境かけてやることにしてんの」

 引っ越し先は木造、鉄骨に貴賤なく考えていたつもりだったが、今の話を聞いてこだわろうと俺は思った。そして隣の部屋に勝川さんのいないことを確認してから賃貸借契約をしよう。

「役所にいるとき勝川さんはどうする?」

「調布市役所って西棟、東棟に別れてるでしょ。私西棟やっといてあげる。飯田君は都市計画課のある東棟の方から…ってこれ時間外で申請できないの!?」

「ガソリン代くらいは出るかもね」

 調布市役所の地下駐車場は満杯だった。よって駅の近くの高額なパーキングに停めざるを得ない。勝川さんはヒールを履いてきたことを後悔していたが、市役所に行くのはそんなに嫌そうな顔はしなかった。

「調布は横田飛行場の航空法と、調布飛行場の航空法がかぶってるエリアだから気を付けてね」

 そう言い残して、彼女は西棟の方へ。俺は東棟の方へ行った。7階の都市計画課から、下水道課、道路課、自然環境課、防災課と回っていく。飛沫感染防止のためか、天井からはビニールがぶら下がり、掃除のおばさんがアルコールスプレーを持ち周回し続けていた。職員同士のデスクの間には、段ボールを接着剤でつなげて作ったのだろう、即席の衝立ができており、俺の回ったフロアはどこも静かだった。

42のチェックリストをメモで埋め終わった。1階に戻ると、そこは給付金やら納税やらで殺到した市民でごった返しており、とてもここを突っ切っていく気になれなかったので裏口から迂回して役所を出た。

勝川さんは先にBMWのところに戻っており、アーミージャケットから出した煙草で一服していた。俺もボンネットに腰を下ろすと、彼女から一本拝借する。彼女から受け取ったリストは完璧に埋められていた。

「一階の混雑見た?」

「ああ、避けて通ってきた」

「クラスターだったね。終息は来年になるか、再来年になるか」

「サンドイッチでも食べる?」

「いいね」

 ここだけの話だが、調布には正午ぴったりにしか開かない、黄金の食パン屋さんがある。焼きたて2時間以内に売れない場合、かわいそうな食パンは廃棄されるのだ。俺と勝川さんはそこで作られたサンドイッチと、アイスコーヒーを買った。

彼女はサーモンと生クリームと枝豆のサンドイッチで、俺はバターと小倉とホットチキンのサンドだ。調布市役所を南に少し行くと河川敷があり、多摩川堤通に車を止めてベンチでご飯にした。

 久々に感じる自然の空気は、市役所でめげさせられた俺たちの気持ちを少しだけ上向かせた。土手下のグラウンド上では休校に飽かした子供たちが野球をやっている。白球をたたく金属バットの音が青空に吸い込まれる。

「勝川さんは子供のころどんな子だった?」

「だいたいあんな感じ。男の子たちとずっと遊んでた。野球帽かぶってたから、本当に男の子と見分けがつかなかったの。試合の時にお父さんがずっと別の子撮っちゃったりして」

「それは後で見返したときショックだったね」

「うん。でもそう悪いことばっかりじゃなくて。その時好きだった子がずっと撮られてたから、変かもだけど未だに宝物なの」

「ちっとも変じゃないよ」

 俺はハンカチを渡すと、勝川さんはやや顔を赤らめながら口元についたクリームをぬぐった。洗って返すと聞かなかったので、ハンカチはそのまま手渡すことになった。

 そのあとは、柴咲クロスガーデンに行って買い物をすることになった。この大型ショッピングモールは、いくつかの店舗を残して休業しており、二階に上がるエスカレーターは止められていた。

一階のスーパーで白ワインと赤ワインを一本ずつ、他につまみになりそうなチーズ類や出来合いの総菜をいくつか選んだ。店を出る頃には、太陽は多摩川の河川敷に向こうに落ちかけており、白色のBMWは紺色の空を映していた。

 勝川邸の来客用駐車場に車を停めて、彼女の家に食材を運び込む。一人暮らしにしては大きいお家だなと俺は思った。玄関部分は二人で靴を脱ぐことができるくらいは広かったし、I字型キッチンも2250型で注文住宅によく使われるようなサイズ感だった。一枚ガラスの大きな開口部からは多摩川原橋がよく見えた。1SLDKタイプ、LDKにくっつく形で納戸があり、そこはもっぱら寝室として使われているようだった。

 ウォールナットのローテーブルに買ってきたものを並べる。肉じゃが食べると勝川さんが聞いた。なら最初は赤にしよう。結婚式の引き出物で貰ったらしい、背の高いシャンパングラスに赤ワインを注いで、テレビをつけた。東京では本日168人の感染者が新たにピ

ッ、消した。

「肉じゃがなんて久しぶりに食べた」

 きりりと冷えたワインに、肉じゃがは驚くほどよく合った。白滝まで入っているのは驚きだった。白滝なんて一人暮らしを始めてから買ったことがない。勝川さんはワインとチーズに交互に手を伸ばしながら、料理しないの? と言った。

「ほとんどしなかったね。俺たちはどちらも料理に興味がなかったから。食事は好きだったから、外食で済ませることが多かった。それか、出来合いのものを買ってきたりとか」

「彼女さんってどういう人だったの?」

 俺は肉じゃがの器を置いた。

 どういう人だったのだろう。

 今となっては良く分からない。

 93日前までは、過不足なく説明できた気がする。いや、実際に他者に対して説明を何度もしていたのだ。でも、結果から言って俺は間違った説明、あるいは不足と過剰が含まれた説明をしていたということなのだろう。

 そうでなければ、彼女の気変わりや、とつぜんの出奔にも、何かしらの予兆を感じとることができたはずだ。こんな風に、はしごを外されたような感覚を抱くことはなかったはずだ。

 そもそも、俺たちが知っている他者なんて、水平線の向こうにぼんやりと見える孤島の影から、なんとか全容を推測しようとする妄想の域を出ないんじゃないか? それでは不都合だし、怖いから、知ったような気持ちになっている。

「うまく説明できないな」

「でも飯田君の仕事って、誰かを説明することでしょう?」

「便宜性を与えてるに過ぎないんだよ。2×3だとわかりづらいから、俺と勝川さんがそれぞれリンゴを3つ持っている。合計で何個でしょう? って」

「そんな単純なことなの?」

 そう。単純なことなのだ。俺の仕事は小説ほど難しくはない。

 高野さんは小説を書いていた。卒業制作では学部長賞も取ったし、たくさんの講師が彼女の将来を嘱望していた。俺も凄い才能の持ち主だと思った。でも、卒業してから執筆活動は上手く進んでいないように見えた。

最初の頃に落選を何度か経験すると、賞用のものはほとんど書かなくなってしまった。原稿用紙300枚の小説を書くのは、出産みたいにエネルギーを使う。そして産まれた作品は世に出ることなく流産していく。この繰り返しを何回か経て、疲れ果ててしまったのだ。

 そういうこともあるさと俺は言った。

 まだ彼女は22歳で、来月には23歳になる予定だった。その時にはどこか旅行へ行ってお祝をしようよ。俺は温泉が好きでさ、鬼怒川に気になってる温泉宿があるんだよ。露天風呂からの眺めが凄くって、空が澄んでいて…。

「電気弱めていい?」

 部屋が薄暗くなって、赤ワインは血のように暗くなった。


 物語を売るとは何だろう。

 佐伯さんの案件が無事終わると、飛田さんの案件は激増した。一つの川の流れがそこには出来上がっていたのだ。単身者は新生銀行・ソニー銀行を初めとするネット系0.4%台の超低金利を目にする。申し込みを行うが、ネット銀行は仮に地球が滅亡してもローンの返済を続けられるプライム客しか相手にしない、単身者は石油王だって融資を下ろさない。

 ならばとメガバンク系列の0.5%台に当たる。三菱や三井住友やみずほなど、それは彼らにとっては妥協だった。「でも七大疾病特約はメガバンク系の方が強いものね」。しかしメガバンクも通さない。失望と挫折と怒り。

 もうどこでも良い、とにかく良い返事を欲しい。「貴方は社会的信用度の高い、ひとかどの人物です」と誰かに言ってほしい。そうして地方銀行系に当たりはじめる。0.6%台。

カウンターに座ると、他の銀行で提出した時のコピーを出す。免許証保険証のコピーと収入証明おもに源泉徴収票二年度分、自己資金のある人は通帳のコピーなど資産状況のエビデンス。そしてそこでも保留になる。恐慌。

 私の人生ってなんだったの? そんなに私って信用がないの? 銀行担当者はなぜ保留になったのかの理由を明かすことはできない。保証会社とはそういう機密契約があるからだ。担当者は「厳正な審査の結果…」と定型文をメールして終わり。

 絶望の淵に沈んだ単身者の前に、どこからともなく飛田さんは現れる。弊行なら単身者の方にも強いローンが組めます。それも変動金利なら0.525で。ご興味ございませんか? これに飛びつかないお客はいなかったと言っても良い。

 そうして俺の元にお客がやってきた。個性的な単身者達。彼らは出エジプト記のユダヤのように疲れた表情をする者もいれば、自暴自棄や自己憐憫、放っておいたら明日にもジョン・デリンジャーに変貌しそうなほど怒り狂っている者もいた。

「なぜお一人でお家を買いたいのですか?」

 俺は彼らの傷ついた心を救い上げ、AからZまで整理し、「そうして彼/彼女は家を買うことにしたのでした」とエンディングを付けて銀行に送った。ほとんどの人は融資が下りた。結局は銀行と単身者の間の、大したことのない摩擦やすれ違いなのだと、俺はすぐに実感した。

1000万円~3000万円の、新宿の不動産にしては小口の取引が連続した。普通の営業が月に1~2件、5000万円前後の契約を決めていく中、俺だけはまるで違った数字の作り方になった。俺は月に10件~20件の小口の契約をし、仲介手数料は合計1200万円前後で安定した。その3分の1が俺の月給として支払われた。

 飛田さんはよく俺を飲みに誘った。俺が入社して1年になった頃、飛田さんは新宿支店の支店長補佐になっていた。オフィスが大きくなり、歌舞伎町にも顔が利くようになっていたし、クラブの会員権もいくつか持っていた。

「こんなに美味しいお酒ってないと思いませんか? 我々は哀れ独身者のヒーローですよ。誰かを騙したり、悲しませたりしていません。非常に綺麗なお金で買った、クリアなお酒」

 飛田さんの言葉は正しい。俺は契約後に好意で届けられるお菓子の餞別で、ちょっと太っていた。誰かを助けて、それがお金になる。真っ当な循環があり、自然に利潤が生まれる。

 でも、俺が飛田さんから振られる案件は、すべて潔癖なものという訳ではなかった。そう明言された訳ではないが、隙があれば投資用の不動産に回しそうな単身者も多くいたのだ。

「家賃がもったいなくなったので」

 と彼らは繰り返した。それ以上もそれ以下もない。物語が熾きる為の『灯』のようなものが決定的に欠落している。

しかし、俺は彼らに対しても等しく物語を与え、足りないところ、あるいは審査の狭き門に引っ掛かりそうな過剰なところをトリミングし、銀行へ提出した。そういう客の物語を創作することこそ、俺は楽しく感じていたのだ。

 おいおい、わざわざサブプライムリーな客を相手に喜ぶのは、おかしいんじゃないか?

 そういう客の物語は、他のお客の物語よりも長編になり勝ちだった。いつだって真実を語るよりも嘘を騙る者の方が饒舌なのだ。物語性の欠片もないお客、じゃあ彼らに付与された物語はどこから湧き出てきたんだ?

 俺は銀行口座にお金をプールすることはなかった。給料日になると、山梨中央銀行の口座(付き合いで作らされたのだ)に給料が振り込まれる。窓口ですべてを下ろし、『山梨中央銀行』と書かれた帯封の札束を茶封筒4つに分けて受け取った。BMWの助手席に金を放り込んで家に帰り、李さんから誕生日プレゼントで貰った金庫に放り込む。

 今月は幾ら儲かったよと高野さんに言う。ふーんと返事が返ってくる。この話題がそれ以上の発展性を見せたことはないのだ。それでも、俺は彼女に対して仕事のことを話したい。なんでだろう?

「今日来た人は長瀞さんって言うんだけど。あの、秩父にある観光名所と一緒の字の。長瀞さんは彼女と一緒に住む家を買いたいって思ってるんだ。だから単身者って扱いだね」

「結婚しないの?」

 高野さんは初めて興味を示したようだ。パソコンに向かっていた指が止まる。

「二年前に奥さんに不倫されて、それでバツがついた。だから結婚って形じゃなく、内縁とか、同居って形で家を買いたい。それでこのお話を書いたんだけど、審査に落ちちゃったんだ」

「どうして落ちちゃったの?」

「わからない。飛田さんからは、『ローンを払っていく責任感をもっと盛り立てて』って言われたんだけど、筆が止まってる」

 長瀞さんは瓶の底みたいに厚い眼鏡をかけた、細身の男性だ。髪は硬い天然パーマで、ちょっと堀辰雄に似ている。話し方もおどおどしてて、コーヒーを出されるとごめんなさいと軽く会釈する。でも、測量事務所で5年間測量士補をしていて、今年測量士の資格の勉強をしている立派な人だ。

「まだ家を買わなくてもいいんじゃない?」

「いや、そんなことは絶対に言っちゃだめなんだ。それは越権行為なんだよ」

 お客はよく考えたうえで、買いたいと思ったから来ているのだ。

「でも、無責任だよ。その人は」

「そんな事ないよ。絶対にない。長瀞さんはちゃんとした人だよ。給料も返済比率内だし、自己資金も用意してるし、勤め先は業界内でもシェアが」

 高野さんはもう何も喋りたくなくなったようで、俺を置き去りに小説の執筆に戻ってしまっていた。

彼女がその時書いていた小説は経血に関するお話で、母親が生理の血で濡らした布団を、母娘がいっしょに洗濯するシーンが大きな山場になっている。田山花袋の『布団』の裏返しのようなモチーフだけど、幻想小説のナラティブで語られるので、洗濯のシーンは鮮血の赤、布団の白、青空と緑雨のコントラストに三頁一二〇〇文字も使っている。今は丁度そこを書いていたのだ。江古田文学賞に出すと言っていた。

 良ければ読もうか? と俺は恐る恐る聞いた。彼女は「いい」と短く言っただけだった。彼女は読書会サークルに身を置いていて、そこで知り合った友達にいつも読んでもらっているのだ。

その読書会サークルの面々に言わせれば、俺のしていることは「嫌韓」本やら「反安部」本やらと同じくらい卑しいことらしい。高野さんはそんな風に揶揄されてから、俺の存在をサークル内では抹消していた。そう思ってもらって構わないと思ったし、高野さんに抹消されたことはショックだったけれど、仕方ないと飲み込んだ。

 俺は小説を書くのを止めた時に高野さんと知り合った。自分が小説の夢を果たせないのなら、彼女に果たしてもらおう。俺が現実で頑張れば、彼女はもっともっと小説に打ち込めるはず。そして、きっと俺にとっても、彼女にとっても大切な物語が生み出されていくのだ。

 俺は仕事の順調さに歩を合わせるように、自分の目標を過労死からシフトしていった。それは俺の人生で唯一と言ってよい、充実した時間の連なりだった。俺は彼女の役に立っている。俺は彼女にとって無くてはならない存在なのだ。俺は…でも、ルノアールに呼び出されて彼女の隣に知らない男がいた時、深いため息をついた。上手くいくはずがないのだ、こんな関係が。


 俺が二塁ベースに足をかけた時、携帯が鳴った。俺は画面を見る。いいじゃないと勝川さんは言った。俺も携帯を手に取ってから、こんな時くらいいいじゃないかと思った。だから要件だけを見て閉じようと思ったのだ。でも、送信者名には「高野」の文字があり、俺はベッドから身を起こすと、行かなきゃと言った。

「え?」

「ごめん、でも、ちょっと出なくちゃいけなくなったんだ」

「出るって、仕事?」

 そう、仕事と俺は言った。ティーシャツを頭からかぶって、けんけんしながらズボンを履いた。そのとき、テーブルに脛がぶつかって、ワイングラスが倒れる。わずかに残っていた赤ワインがテーブルにこぼれ、滴った。

「ごめん! カーベット弁償するから」

「いいよ。洗えば落ちるし。でも、…電話するだけだよね?」

「いや、帰る。ちがう、新宿に資料があるんだ。それで、取ってくるよ」

 勝川さんは、そう、と言って、掛布団を抱きしめた。俺は鞄に一通りものを詰め込むと、高校の名前の書かれたジャージを羽織った勝川さんが、玄関まで見送りに来た。

「車は置いてっていいから、電車を使ってね」

「うん、ああ、そうする」

 俺は外廊下から電子キーで車を光らせる。

勝川さんが俺の腕を掴んだ。

「ねぇ、縋ってるわけじゃないから。今の飯田君運転したらまずいよ。ぜったいお酒残ってるよ」

「ああ、でも、ゆっくり走るから」

「甲州街道? それとも首都高を?」

 言葉が詰まった。メールが来てから、初めて勝川さんの顔をまともに見た。彼女は眉を落として、でも残念というよりは哀れみに近い声音で、帰ってもいいけど電車で帰ってよと言った。

「ごめん。そうする」

 俺は勝川さんに車のキーを渡すと、明日取りに来るからと言った。

「いつでもいいよ。とって食べたりしないから。でも家の鍵はいいの?」

 キーフォルダーには俺の部屋の鍵がついている。でも俺は財布にスペアが入っているので、そのままでいいと言った。

 相模原線の京王多摩川駅から稲田堤に向かっている間に、メールを開いた。タイトルはお久しぶりですだった。敬語、と俺は思った。

『飯田君 鍵は郵送します。あと、ネットフリックスが私の口座からまだ引き落とされているので、解約してください』

「ネットフリックス…」

 がらがらの相模原線に、俺の独り言が響いた。

 そのメールにはどうやら二つ要件があるようだ。

①鍵は郵送する。

②ネットフリックスを解約しろ。

以上。終わり。

 俺はでも、相手から別の話題を出してくれたことを前向きにとらえようと思った。物件の紹介メールでも、断りのメールを返信してくれる人は大抵そのあとに繋がるのだ。俺は稲田堤から是政に行く間に、ネットフリックスについての詫びと、良ければ3か月分の2000円を渡したい旨を送った。

『振込先を送ります。(以下振込先)』

『手数料が800円くらいかかっちゃうから、良ければ鍵と交換でどこかで会えませんか?』

 その後返信はない。

 家について、俺はソファーで丸くなった。彼女が出て行ってから、俺はベッドで寝るのが怖くなった。ベッドで寝ると嫌な夢を見る。高野さんからの着信で俺が起きて、俺は声を弾ませて電話に出る。向こうからはやけに上気した高野さんの声が聞こえて、今誰それとセックスしているのと言われる。その相手は李さんであったり、見知らぬ男であったり、高野さんが連れてきた男だったり、様々だった。そんな夢を一週間続けて見てから、俺はベッドで眠るのをやめた。

 毛布を頭からかぶっていると、枕元に置いてある携帯が夜だけで3回も着信があった。一つは飛田さんからだった。寝る前に送った俺のメールの内容が良かったという話だった。

「飯田先生の筆は冴えますな~」

 と、昭和時代の編集者みたいな口調で飛田さんは言った。

「結婚しない理由を不倫の過去ではなく、コロナで挙式ができないという風に変えたのは見事でした。これなら上も納得するでしょう。ん? 飯田さん今どこにいらっしゃるんですか? お声が遠いようですが」

 今は布団の中にいます。

「はっはっは、夜分すいませんでしたね。ほら、読み終えると作者と会話したくなる小説なんてあるでしょう? 飯田さんにこの感動を伝えたい! みたいなね」

 次の電話は李さんからだった。

「やあケン、悪いニュースと悪いニュースがあるんだけどどっちを聞きたい?」

 今はどっちも聞きたくないです。

「お疲れみたいだね。振られたか?」

 もっと悪いです。

「うむ。どうやら現実というのは俺たちの想定する最悪を、軽々と超えていくみたいだぜ。明日会社で打ち合わせるから、お昼ぬけることにしよう。それじゃあ気を落とすなよ。女なんてめぐり合わせさ」

 最後の電話は勝川さんだった。

 でも、その電話には出なかった。

 とにかく疲れてて、眠りたいからだ。


 出勤している営業は少ない。弊社でも7割減を目標に、多くの社員がテレワークに移っていた。その中に李さんの姿もあった。李さんは椅子の背もたれにどかっと体重を預けながら、お客と話している。コロナについてだった。話の内容から察するに、今日も118人の感染者が出て、日本はちっとも食い止められていないんじゃないか? というのがテーマらしかった。俺の隣に座る営業が、李さんはもう2時間もああやってしゃべってるぜと教えてくれた。

「水際で食い止められていますよ。実際、他国と比べて感染者の増加自体は食い止められているじゃないですか? ね?」

 李さんはうんざりしているのが見え見えだったが、声音だけは誠実そのものだった。李さんの上席は電話の行方が気になって仕方ないらしく、おちおち契約書も作成できないようだった。たびたび立ち上がってブラインドを指で触って、ティッシュで指についた埃を払うのを繰り返している。

 いつまでも聞いていられない、俺は俺で長瀞さんの最終資料を作らなければいけないのだ。山梨中央銀行でローンは通る、その前提でクロージングをする戦略を立てなければいけない。

 だが、李さんみたいに苦労することはないだろう。俺のお客はローンだけという人が大半で、融資がおりて購入をキャンセルするという人は滅多にいないのだ。それに長瀞さんとはコロナ騒動の前からのお客さんで、付き合いも長い。

 朝礼が始まると、李さんはデスクから姿を消した。まだ電話が続いているのだ。店長が心なしか小声で最近契約キャンセルが相次いでいるといった。

「今までも申し込みの受理から契約までの『ヨレ期間』はありましたが、今回は不安に駆られたお客様の手付解除が多くなってます。手付解除は完全にお客様の損失になってしまうので、そのリスクをちゃんと説明するように。あと、手付解除があっても媒介契約書通り、仲介手数料の返金はないのでその点も説明してください」

 お客の中で、恐慌と失職の恐怖はじわじわと浸透しつつあった。居住用の住宅産業は実需だから、コロナの影響はそれほど無いのではないかという視座が当初にはあった。それはすぐに希望的観測でしかないと現実によって訂正された。

 今が買い時だと思うからお客は問い合わせる訳で、わざわざ今買わなくてもと営業すらも考えている今、家を売るのは実に困難だった。

 社長からBCCでメールが来ていて、それは新卒の幹部候補生に送られてきたメールだった。体調を気遣う挨拶の後に、現在の事業計画についてまとめられている。

『今の事業環境は、急転直下。急降下中です。

4月昨対比

反響数16%ダウン。広告費110%UPで7%ダウンで死守。

案内数25%ダウン。

(影響が大きい支店だと、反響35%ダウン案内50%ダウン。)

休業・テレワークによる、出社社員7割減

売上予測30%ダウン』

李さんが電話を終えて戻ってきたのは11時半を回ろうかという頃だった。

 俺は長瀞さんの資料をまとめ終わっていて、契約の着地点について構想していた時だった。後ろから肩をたたかれて、ケンご飯に行こうと言った。李さんは困ったような笑みを浮かべるものの、疲労や不安の影は全く無い。俺は李さんのそういう所に、営業としての強さを感じる。

「うまいとんかつ屋を知ってる」

「もう電話は大丈夫なんですか?」

「賽は投げられた。あと出来ることは、今夜の契約に向けてとんかつでゲン担ぎだけだ」

 李さんの上席は何か話したそうにしていたが、離席しますと機先を制された。たぶん、李さんとしても電話の内容や契約の行く末をあれこれ聞かれるのは嫌なのだろう。俺も気になりはしたが、そういうことならと黙って席を立った。

 李さんはエレベーターに乗ると、昨日の話の続きだがと切り出した。

「悪いニュースと悪いニュースですよね」

「そうだ。まず悪いニュースなんだが、俺は今夜の契約を機にここを辞めることになりそうだ」

 エレベーターが止まり、3階の保険会社から女性の保険レディが乗ってきた。その人は李さんの知り合いらしく、にこやかに手を振ると繁盛してる? と言った。

「おかげさまで」

「また火災保険回してよね。李さん特別プランを用意して私ずーっと待ってるんだから」

「またまた。齋藤さん最近はもっぱら医療保険じゃないですか。お噂伺ってますよ。大東興亜損保がコロナに対する保険も肺炎の一種と認定したとか」

「2月1日まで遡及しての保障範囲拡大だからこっちは大変よ。なにせこの2か月ちょっとの間に病死した人がこぞって押しかけて来るんですもん」

「日本は死者にPCR検査しない分良いんじゃないですか、保険的には」

「まあね~、でもジョージ・A・ロメロの世界よ。いや、バイオハザードか」

 斎藤さんはビルを出ると、李さんに軽く手を振ってハイヒールを鳴らした。

「辞めるって本当ですか?」

「休職という形で引き留められるかもしれないが、事実上の退職さ」

 でも、つい一昨日まで続けると言っていたのに。どうして…。

「可愛い後進に営業1位の座を譲るのも気分がいいだろう。引き留めはしないだろうね」

「言っても無意味でしょう」

「それはそれで寂しいな」

 李さんは笑った。

「死なないですよね?」

李さんはびっくりしていたし、話した俺自身もびっくりしてしまった。どうして俺はそんなことを言ってしまったのだろう? 

李さんはどっかで生きてるよと言ったが、また会えるさとは言ってくれなかった。俺は、この底の見えない営業が、自分で思っているよりも大事なのだと寂しさに気づかされた。

 李さんが連れてってくれたとんかつ屋は「山下」という名前で、新宿駅から五分ほどの場所にあった。3階建てのタイル張り低層マンションのテナントで、油まみれの暖簾から店名を読み取ることは難しい。

 俺と李さんはランチビールで軽く乾杯をして、ガラス超しに調理される豚ロースを見ながら話した。

「悪い話のもう一つって何ですか?」

「このライオンズマンション、覚えてるか」

 李さんが出したのは、俺が半年前に売却した八幡山のマンションだった。確か、樋口さんという男性のお客さんが買っていったもので…。俺は李さんが何を言わんとしているのかが分かった。彼が差し出したのはスーモの賃貸募集頁のコピーだったのだ。

「不正融資ですか」

「これだけじゃない」

 李さんはダブルクリップで留められた賃貸募集ページをパラパラめくった。全部見覚えのあるマンション、戸建てばかりだった。俺はお客の名前を全員記憶しているわけではないが、彼らは特に印象に残るお客さんたちだ。物語の『灯』に欠けた「家賃がもったいない」人たち。

「李さんが調べたんですか」

「いや、俺の上長が会議で配られたのを回してくれたんだ。社内で少々(・・)問題になっているらしい。不正融資の幇助にならないかと」

「だとしても、俺は仲介の立場ですから責任問題にはならないはずです。かぼちゃの馬車とは違う」

「そこが難しいんだ。うちとしては知らぬ存ぜぬで突き通すだろうが、金融方面にケンは加担しすぎていると刺されたら、最後は営業個人の判断と責任の話になるだろう?」

 俺は物語の『灯』に欠けたお客のローンを通すとき、いろいろな物語を創作した。「家賃がもったいないから家を買う」なんて弱い動機では、単身者の住宅ローンが通らないと知っていたからだ。

 それは俺が勝手にやったことで、お客にも会社にも許諾を得ていない。銀行さえ説得、いや騙せればいいと思っていた。それは疑いようのない事実だ。

 どうすればと言いかけて口をつぐんだ。俺はもう新米ではないんだ。自己判断で全て行っている。状況が逼迫したからって「どうすれば」は無いだろう。やるべきことは、まず投資に回している客達にどんどん連絡を取っていって、広告を掲載することのリスクを伝えて辞めさせるしかない。こんなことが山梨中央銀行にバレたりしたら、一括弁済を請求されて物件ごと抵当にかけられる。お客は安易だが、俺も安易だった! ずっと嫌な気配を感じていたのに、目を逸らしていたんだ。

 揚げられて、衣の上でピチピチ跳ねる油を、俺はグロテスクに感じている。ビールの苦みが遠ざかっていき、頭の芯が冷えていく。


 長瀞さんとの商談は2時に始まる。昼に飲んだビールは抜けているはずだが、頭の芯が冷えたままで、黙っているとつい俯いて暗い顔をしてしまう。これじゃあダメだとトイレで顔を洗ったり、お茶を飲んだりするけれど、いつものような微笑みはなかなか戻らない。俺は接客スペースのカーテンの向こうで資料の最終確認をしながらため息をついている。

 今日もいつも通りに接客をすればいいんだ。長瀞さんは投資用に回したりなんてしない。それは命を賭けてもいい。でも脳裏からは印刷されたスーモのページが離れない。

 勝川さんが缶コーヒーをもってやって来ると、何時からなのと言った。あと15分というと、そんなに難しいお客さんなの? と尋ねた。

「珍しいじゃない。溜息ばっかりで」

「今はくだらない冗談も言えないよ」

「じゃあ普段からちょっとくらい落ち込んでる方がいいかもね」

 酷なことを。

 勝川さんがカーテンの向こうで、いらっしゃいませという。長瀞さんが来たのだ。俺は起立して長瀞さんと女性…おそらく今お付き合いされている彼女さんを迎えると、勝川さんが椅子をもう一つ持ってきてくれて、彼女さんはそこに腰かけた。長瀞さんよりも五歳ほど若く見えた。

 長瀞さんの最初の頃と比べると彼女さんはフレンドリーな人で、武から話を伺ってますと笑みを浮かべた。俺はこちらこそと言って会釈をする。結婚を躊躇う気持ちがすこし分かった気がした。

 若いって良いねといろいろな人から言われるが、俺は自分の若さを呪ったことはあれども感謝したことはない。若いと何度でもやり直せる、若いとやり直せると思うから何度も失敗するし、時々それはやり直せない失敗になる。俺の失敗はやり直せる類のものだろうか?

 そんなことを考えながらも、俺はちゃんと笑えているし喋れている。先週見学して長瀞さんに持って帰ってもらった物件は、やはり二人の中では最有力の様で、パラパラとめくっていく資料の中で30分間も目を留めている。

 よほどひどい物件でない限り、お客はどんな物件でも褒める。悪く言えば営業を傷つけると感じるのかもしれない。すごい、住みたいと言う言葉を鵜呑みにして、間違ったツボを押すと激痛が走るのは営業自身だ。時間だけは嘘をつかない。お客が一番長く見ている家を押せば必ずどこかの出口に出る。

 俺はセボン新宿3100万円のマンションの解説をしようと、用意していた資料を開いたとき、長瀞さんがローンはどうなりましたかと聞く。

「単融のローンの件ですよね」

「実は、ペアで組もうと思うんです」

 と言って、長瀞さんは薬指を見せた。

 は!?

「ご結婚されたんですか…?」

「物件のために、って訳じゃないんですけど、彼女と話し合ったら、もういいかなって」

「もういいかなって?」

 物件のことなんかもう頭にはなかった。長瀞さんは結婚をしないはずだ。結婚の不確かさを車の中であんなに喋っていたし、ローンがどんなに難航しても単融にこだわっていた。それが今日になってペアでいく?彼女さんの年収は400万円だそうだ。これならメガバンクでも大歓迎だろう。

「ご結婚されたのでしたら、それこそ単融でも大丈夫だと思うのですが、ペアでよろしいんですか?」

 彼女さんが言う。

「ローン控除のことも考えると、私も1000万円くらいは組んでおいた方が得ですよね?」

「ええ、そうですけど。でも財産分与の時なんかに揉める方もいらっしゃいますよ」

「相続ってことですか?」

「いや、あの、例えばの話です」

 二人は息ぴったりにあ~と言うと、二人にしか分からない目線でクスクスと笑いあった。

 契約と引き渡しの日程、手付金の額の相談をしているとき、彼女さんがお手洗いに席を立った。長瀞さんは彼女さんの背中を見送ってから、びっくりしたでしょうと俺に言った。「恐縮ですが」。僕もびっくりしたんですと長瀞さんが言う。

「結婚なんて本当に考えていなかったんですけど…。一緒に借金を背負ってくれるなんて言われたら、結婚したくなるでしょう?」

 俺は孤独だった。

 長瀞さんの打ち合わせが終わり、俺は早々に荷物をまとめると帰ろうとした。不正融資になるお客に電話を掛けるだけの体力はなかった。かといって彼らを野放しにしておける時間も、そんなに多くはない。ただ、今日はいろいろなことがありすぎて、疲れてしまったのだ。

 中央線の下り電車で、俺は長瀞さんの言葉をずっと考えていた。妻に裏切られて、もう二度と自分は結婚ができないと語った思いつめた表情。彼はそのことを俺に打ち明けると、目じりに涙さえ浮かべていたのだ。でも今日の長瀞さんは結婚してしまったことに一縷の後悔もないように見えたし、物件について「子供部屋」の話さえしたのだ。

 思えば、幸せそうな家族に対して家を売るのは初めてだった。

 高野さんと付き合いだした頃から彼女に対して、俺は結婚ができないと言っていた。高野さんは小説のことしか興味がなさそうだったから、それに対して特に何の感想もなさそうだった。私はどちらでもいいよと高野さんは言った。俺はそれに安堵していたけれど、何か大事なサインを見逃してはいなかっただろうか? …分からない。

 武蔵境駅で乗り換えるとき、気持ちが悪くなってきて、ベンチに座って電車を一本見逃した。お昼に食べたとんかつが頭を離れない。衣の上でピチピチと跳ねる油。李さんはもうウィスキーを飲み始めただろうか。

 是政の俺のマンションの前に、回転灯を落としたパトカーが停まっていて、俺が自分の家のドアのところまで行くと警官が二人おりてきた。まさか俺のことじゃないはずだ、俺は家に入ろうとすると、待ってと言って警官がドアの隙間に革靴を差し入れた。

「なんですか」

「ここの住民の方?」

 俺は持病の緊張症がでている。ネクタイが首を絞めていくように感じる。のどがカラカラに乾いて、上手くしゃべれない。浅い呼吸を繰り返す俺を、警官が不審そうに見ている。ここだと何なのでパトカーで話せませんかと警官が言う。

「いや、でも、仕事をしなくちゃなので」

「急ぎ?」

「とても。すぐにやらなきゃで」

「どれくらいかかる?」

 五分と言うと、警官たちは顔を見合わせて、まぁ今更変わらないかといった表情を見せた。警官の前で携帯を操作するけれど、やらなければいけないことなんて何も思いつかないし、誰かに喋りたいことだって思いつかなかった。Gmailを開いてみおさんから送られてきたメールを見返す。

『飯田君 鍵は郵送します。あと、ネットフリックスが私の口座からまだ引き落とされているので、解約してください』

『振込先を送ります。(以下振込先)』

 心を温めてくれそうな言葉はどこにも見つからないみたいだった。

 もう大丈夫ですと言った時、それでも、俺は落ち着いていた。構わないさ別に。どうなったって。警官は拍子抜けした様子で、あ? そう? と言うと、じゃあちょっとこっち来てと言って、俺を連れてマンションを一周、ベランダ側に回り込んだ。

「ここ、お兄さんが割ったの?」

 それは俺の部屋の窓だった。首を振ると、ぶち破りかねと言いながら、「盗られたものないか確認してくれる?」。

警官は玄関で待っていてくれた。部屋を確認していると、すべてのものは昨日のままのように思えた。誰かが立ち入った形跡はない。それでも、割れた窓ガラスだけは現実としてそこにあって、そこから風が吹き込んで微かに笛のような音がする。ベランダに落ちたガラス片がきらきら輝いている。

 無くなってるものある? と警官が玄関から尋ねた。

「昨日飲んだビール缶が無いです」

 警官は笑った。まあ一人暮らしの男の家に、盗るものなんてろくにないと最初から思っていたのだろう。被害届どうしよっかと警官が言った。窓ガラスは家財保険が利くから良いと言った。そして、これは被害届を出さなきゃいけないものなのかとも。

「まぁ缶ビールが無くなっただけなら、お兄さんの自由だけど」

「なら結構です。鑑識とか、調書とかも面倒ですし」

「でも仕事先の情報とか、空きにしちゃう時間とか調べられた可能性あるから、早めに引っ越した方がいいよ」

 そうします。警官がパトカーに乗って去っていくのを見守ってから、俺は玄関に座り込んだ。金庫の中が空っぽになっていた。


 何かの間違いじゃないかと、俺は飛田さんに電話をした。もしかしたら、山梨中央銀行に全部預けたのではないかと思ったのだ。しかし飛田さんは携帯には出なかった。呼び出し音もなかった。ツーツーと死んだ音がするだけだ。

 コンビニで通帳の残高を確認する。千円単位で引き出せるだけのお金も残っていない。俺は誰かにそんな大金を工面しただろうか? いや、そんな記憶もない。そもそも3000万円なんて大金を俺は持っていたのか? でも通帳の出入記録には確かに100万円単位の履歴が何度も残っている。

 3000万円は確かになくなってしまったんだ。

 コンビニから戻り、落ち着いて家の中をもう一度探すが、1万円札を1枚も発見することはできなかった。ベッドに積もった埃にむせただけだ。冷蔵庫の中も探しつくして、最後に空っぽになった金庫の内壁を、医者が問診するみたいに手で撫でていった。何もなかった。

 俺は大東興亜損保のHPに行き、盗取の場合の保険範囲を確認したが、俺が加入しているプランは家財に限り、窓ガラスは保証されても3000万の現金なんて対象範囲外だ。仮に盗取のプランを付けていたとしても、告知義務のある貴金属類に当たるため無駄だろう。ワイシャツがじっとりと冷たく濡れていて、腕周りにべたべたとひっついた。俺は服を脱ぐと洗濯機を回してシャワーを浴びた。少しでも気持ちが落ち着くと思ったのだが、そんなことはなかった。俺は家の鍵を閉めたか急に不安になって、水滴をポタポタたらしながら玄関に戻り、U字ロックもかけてお風呂場に戻った。ガコンガコン鳴りながら回転する洗濯機を停めて、びしょぬれになったスーツを取り出した。俺は何をやっているんだろう?  なんとか皺にならないように広げてハンガーにつるしたところで、座り込んだ。俺は全裸だった。髪から滴る水滴のせいでそれが涙なのか一瞬分からなかったけど、トイレのドアに背中を預けて、珪藻土マットの冷たさを尻に感じながら、車、と思った。車に俺の今月の給料が入っているはずだ。

 俺は勝川さんに電話を掛けると、なに? とほとんど怒鳴るような声で帰ってきた。続けて、エンジンの振動する音。

「今運転中?」

「そうよ。だから手短に」

「今から車を取りに行ってもいい?」

「それは構わないけれど、どうしたの? 急に必要になったの?」

 そういう訳じゃないんだと俺は言った。車の中に金が入っていることを、今はだれにも言いたくなかった。一時間後に勝川さんの家に行くというと、迎えに来てくれることになった。俺は急いで髪を拭いて、適当な服を見繕って家を出た。間もなくヘッドライトが俺を照らした。

「俺の家伝えてたっけ」

「前パソコン届けたことあるでしょ。飯田君が会社に忘れて」

「よく覚えてるね」

 まあね? と勝川さんは不思議そうに唇を尖らせた。勝川さんの車ではラッドウィンプスのポップスがずっと流れている。窓の外を甲州街道の街灯が流れていく。俺は勝川さんの表情に何らかの兆しを読み取れないかと凝視するけれど、いったい俺の目が何を見抜けるというのだ。高野さんが男を連れてくるその時まで、そんな可能性を考慮したこともない男に?

 やがて勝川さんの家に着いた。今鍵持ってくるけど、急ぎ? と勝川さんは言う。とりあえず車のロックと、窓ガラスが割れていないかの確認をしながら、先に鍵だけ貸してくれと言うと、勝川さんはアパートの廊下から電子キーでロックを解除した。ダッシュボードの中には、ちゃんと茶封筒が残っていて俺は安心する。それを鞄に隠していると、本当に何があったの? と勝川さんが言った。

「何もないよ」

 彼女から受け取ったキーフォルダーの家の鍵を確認するけれど、それが俺のいないところで使われた形跡なんて、いったいどこに残っているって言うんだ?

「ねぇ、今日ずっとおかしいよ。この前のことを気にしてるなら…」

 もし勝川さんがこの鍵を使ってお金を取ったとしたなら、金庫のダイヤルロックはどうやって開けたって言うんだ? 俺はそれをどこにもメモしていない。勝川さんがぶっつけ本番で金庫破りをいきなり成立させたなんてありうるだろうか?

「こっちを見てよ」

 では金庫のダイヤルロックに注意して考えてみると、あれは先輩の李さんから貰ったものだ。預金しておくと税務署がやかましい事を言ってきたときに困ると教えてくれたのも李さんだし、李さんは明日の契約が終わったらどこともつかない場所に行ってしまうんだ。最後に一儲けしようと考えたとしても、不自然は無いんじゃないか?

「ねえってば…」

 勝川さんと李さんが共謀した可能性はどうだろう。1500万円ずつ山分け? それなら可能だ。どちらのロックもパスすることができる。ただ、俺が昨日勝川さんに鍵を預けてから今日の夜までの間に、二人の意見がそんなに意気投合することはあるだろうか。ましてや、二人ともかなりお金を持っているんだ。お金による連帯感はないはず。

 パシと音がして、何だろうと思ったら、それは俺の頬が張られた音だった。勝川さんは腕を組んでいて、いい加減にしてと今までで一番小さい声で言った。俺は叩かれたんだって気づくと、急に涙が出てきて、俺はBMWのボンネットに片手をつきながら短く息を吐いた。

「ごめん、泣くと思わなくて。というかそんなに強くたたいたつもりじゃ」

 勝川さんは俺の背中を摩りながら、普通立場逆でしょと苦笑している。

 涙といっしょに、全部打ち明けたいという気持ちが俺の中に湧いて出る。3000万円盗られたことも、これから不正融資の償いをしなきゃいけないことも、みおさんと上手くいかなかった原因も、4年前に何があったのかも。きっと勝川さんは真摯に聞いてくれると思う。俺に過度の同情や、軽蔑をしたりはしないだろう。でも、怖いのは拒否されることじゃないんだ。

「ねぇ、無理に話させる気はないんだけど、聞かせてよ。今飯田くんは何を考えてるの? 何がそんなに怖いの?」

 これ以上の落涙が嫌で、俺は目を閉じる。

 俺は何回「これ」を繰り返さなきゃいけないんだ? 誰かを信じたいと思っては裏切られたり、裏切ったり、裏切られたと勘違いして裏切ったり、裏切ったと勘違いされて裏切られたり。無意味なピストン運動の先に一体何が待っているんだ?

 電話だ。と俺は言った。勝川さんはえ? と言って、俺の背中から手を放す。俺は携帯を開く。

番号も見ずに通話すると、向こうから喘ぎ声が聞こえてくる。全身の血管が逆流したような感覚。電話を切りたいけれど、耳から電話が離れない!

ひぐ。

うぐ。

ひぐ。

 違う。これは喘ぎ声なんかじゃない。

悲鳴だ。

「ど、どうしたのみおさん」

 勝川さんがそっと俺から離れる。

電話の内容が聞こえたら不味いと思ったのかもしれない。

「今、国分寺にいて。うぐ、ひぐ」

「うん」

「頭から血が出てるの」

「え、なんで? いや病院に」

「いけない。ガラスが刺さってて。お金も、ないし」

 要領の得ないみおさんの言葉。彼女は頑として病院には行きたくないと繰り返す。とにかく、そこで待ってて、迎えに行くから。あと何か布を当てたりして。俺は頭から血を流している人への対処法なんて分からないし、布を当てたりしたらますますガラスが食い込むんじゃないか!? とにかく、すぐに行くから、そこを動かないで。

「ありがとう。飯田君、ごめんね。全部ごめんね」

「全部気にしてないから」

 俺は勝川さんの手から鍵を引っ手繰ると、国分寺! と思った。東八道路に出るのが一番近いのか? 調布インターから府中インターの方が近いのか? ああ、エンジンはどうやって点火するんだ!? 勝川さんが窓から手を伸ばしてハンドルを掴んだ。

「どうしたの一体!?」

「みおさんがケガしてて、それで俺行かなくちゃ」

「待って。お願い。待って。飯田くんの携帯は鳴ってなんかなかった(・・・・・・)」

「え?」

 いきなり、何を言い出すんだ?

「飯田くんは誰とも電話なんかしてない。ねぇ、演技してるの? そんなに私のこと嫌い?」

 勝川さんはそっとハンドルから手を放す。彼女のことを嫌いだと思ったことなんてない。

「でも、みおさんが俺に助けてって」

「そんなこと言われていないのよ」

 今は彼女を説得している暇なんてないんだ。俺は窓を閉めると、アクセルを全開にして夜を切り裂いた。相模原線を北上しながら、住宅街の道をぐねぐねと進む。ここらへんも営業範囲でよかった。俺は1度も信号と合わずに調布市役所をかすめ、電気通信大を横切り、BMWはフルスロットルのまま中央道の高架を潜り抜ける。だんだん道が広くなってくると、ちんたら走っている車はクラクションを鳴らして追い払い、時々対向車線を走り、ドンキーホーテのある交差点から東八道路に入ろうとする。

100m先に黄色い信号が見えた。俺はアクセルをべた踏みにしながら、慣性に備えて体重を助手席側に移動する。その時、李さんからメールが届いた。携帯を開く。件名は「契約がよれた。今夜でさよならだ」。タイヤがアスファルトを燃やしながら中央分離帯の鉄の杭が眼前に迫った。



自伝です。幽霊です。

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