アニバーサリー
朝七時。一人のヴァンパイアを交えて、モモカ、父、母は食卓を囲む。今日のメニューは、ハムエッグにトースト、トマトのミネストローネ。ヴァンパイアの苦手そうなニンニクはもちろん使わない。
「どうですか?黒森さん」
「どうもこうもない。お前に抜かれた牙の穴にトマトの欠片が入るし、沁みるしで最悪だ」
モモカは味のことを尋ねたつもりだったが、牙の話に持ち込まれた。モモカと黒森の関係を語る上で欠かせない要素だが、モモカは決まりが悪くなって、早く忘れてしまえば良いのに、と身勝手にも舌打ちをした。
「それはどうもすみません。で、ご飯の味の方はどうですか」
「どうもこうもない。美味しいとは思うが、進んで食べようとはまだ思えないな」
「そりゃ一回目だもの、当然よ。美味しいって言ってもらえただけでも私は嬉しいわ」
黒森の返答にこっそり青筋を立てたモモカと父を、母が先手で制した。
それ以外は和やかに朝の食事は進み、いよいよ海に向かうこととなった。モモカが着替えを済ませて玄関前まで車を回すと、黒森は高い背丈を縮めながらドアから出てくる。心なしか顔色は優れない。車の中のモモカと目が合うと、彼は片眉を吊り上げた。
「まさかお前は車で海に行こうとしているんじゃないだろうな?」
黒森の発言に、今度はモモカが片眉を吊り上げた。
「車以外に何があると言うんです?あなたみたいな目立つ人と公共交通機関っていうのは、私の勇気では足りません」
黒森の威圧感に慣れて来たモモカは、憎まれ口を叩いた。
「馬鹿か、お前は。俺はそんなことを言ってるんじゃない。俺が抱きかかえて海まで飛んだ方が断然早いぞ。」
なるほどその手があるのか、とモモカは唸った。
「いや、でも重いかもですし…」
昨日焼き肉を大量に食べてしまったことをモモカは思い返す。しかし彼女のそんな心配をよそに黒森は言ってはいけないことを言ってのけた。
「昨日も言ったが、ヴァンパイアは人間の数十倍の力がある。いくらお前が重かろうが、俺は平気だ」
「ちょっと!それ失礼なんですけど!」
モモカは怒って、車に常備してある眠気覚ましのガムケースを、このデリカシーのない男に投げつけた。もちろんそれが黒森に当たることはなく、指一本触れずに、まるで時間を巻き戻すかのように、ケースをほぼほぼ元あった場所に戻してしまった。
「あなた、ヴァンパイアなんですね」
モモカは改めて驚く。最初からそう言ってるだろと、黒森の身体からため息と共に呆れた声が出てくる。
「それよりも、車か俺か決めろ」
ちょうど見送りに出て来た父と母は、黒森の言葉に顔を見合わせる。まるで彼氏に「私と仕事、どっちが大切なの」と迫る女の如きヴァンパイアの言葉である。しかし当事者二人はそんなことに気づくはずもない。
モモカの顔には一瞬迷いの色が見えたが、すぐさまスッキリとした目で見上げて来た。「やっぱりここは車ですよ!」
彼女は黒森の能力を目にして、ヴァンパイアとの違いをまざまざと見せつけられたと言う。だからこそ、人間とのギャップを埋めるためには同じことをしてもらわないといけないと考えた。
「私たちの目的は海に行くことではなくて、『人間』を知ってもらうことですから。」
黒森に、人間の生きる速さを知ってもらいたい。
「それに、空飛んでるとこ見られたら、あなたも私も普通の人間として生きられなくなりますし、なんてったって三日後にはどのみち空を飛べなくなりますから、慣れておきましょうよ」
モモカは無邪気ないたずらっ子のように、屈託なく笑った。
そんなモモカのからかいに、黒森はなぜだか怒りを覚えなかった。本来なら、モモカのせいでヴァンパイアとしての死を迎えようとしているのに、張本人にそれを軽いネタにされるのは不愉快であって然るべきである。それなのに、黒森は何とも思わなかった。
その理由を、自分が人間に近づいてきているからなのだと彼は静かに思った。
黒森が車に乗っても、父と母は乗り込んでくる気配は一向になく、ただほほ笑んで手を振っている。二人が車に乗らないことを不思議に思った黒森は理由を尋ねた。
「当然ですよ。今日は平日なので二人とも普通に仕事があるんです」
モモカはエンジンをかけ、ミラーで後方を確認した。
「お前は、仕事ないのか?」
車の発車を待って、黒森は続けて湧いた疑問を投げかけた。
「ありますよ、本当ならね。でも有給に加えて、アニバーサリー休暇も取ったんで、心配しなくても私は三日間、一緒にいられますよ」
小さく後方に流れていく父と母に手を振りながら、しれっと答えるモモカ。ちょっと待て、と黒森は少し語気を強めた。
「なんですか、ここじゃ車は停まれないんですよ。後続車の迷惑になります」
「そういう待て、じゃない。アニバーサリー休暇ってなんだ、“アニバーサリー”って。俺たちの送ろうとしている三日間はそんなポップなもんじゃないだろう。普通に有給だって言って休みを取ってこい」
ポップって知ってるんですね、とモモカは目を丸くした。
「なんかあなたの顔を思い浮かべたら、アニバーサリー休暇ってあったなと思って。それにあなた今、人間に生まれ変わろうとしているんですよね?だったらピッタリですよ」
人間に生まれ変わるために海水浴をするってとっても奇妙ですけどね、とモモカはいたずらっぽく笑った。
「生命の母は海だから、まあ間違ってないか!」
歯科医としては、なかなかおおざっぱなのが玉に瑕なモモカである。