ヴァンパイア
「このヤブ医者が…!」
ドスの効いた声は周りの空気をビリビリと振動させ、それが皮膚にまで伝って痛みすら感じる。
(本当に怖い時には悲鳴なんて上げられないっていうの、間違っていない。)
モモカは一言も発さずに男の言葉にただただ耳を傾けた。
「お前はなぜ何の確認もせずに、俺の歯を抜いたのだ…。」
なんとこの男は歯を抜かれたことに、病院を出てから気づいたようだ。しかし、モモカは確かに確認を取ったのだ。抜いて差し歯にしましょう、と。そして彼は、うなずいたのだ。
そうモモカが反論すると、その時彼は寝ていて、頷いたように見えたのは首がカクっと動いてしまっただけだったことがわかった。それでもなお、この男はモモカに「ヤブ医者」だの「役立たず」だの罵倒を浴びせてくる。最悪だ。最高の歯科医デビューだと思っていた日がこんなおじさんに責められて終わることになるなんて…。モモカは拳を握りしめた。
「寝てて気付かなかったくせに…」
ふつふつと湧いてきた怒りは、ついにモモカの中から言葉となって溢れてしまった。当然、さらに火に油を注ぐこととなる。男は、火花が散るような勢いで目を見開いた。その眼光は研ぎ澄まされた刃物のように鋭く、目は血走っている。
「今すぐ俺から奪った牙を返せ!あれがなければ、あれがなければ、三日以内に死んでしまうのだ」
モモカは間抜けな顔をした。犬歯を抜いて三日以内に死んだという話は聞いたことがなかった。とっとと謝って犬歯を返すべきなのかもしれないが、それはできない。
「すみません、もうゴミ箱に捨てて、持って行かれちゃいました。」
男はその場にくずおれ、モモカの視界が開ける。朝はあんなに輝かしく清々しかった空は、今やこんなに暗くて重々しい。見える光と言えば、通り脇の街灯のみだ。
縮こまった黒い塊は、もはや怒る気力もなく、身体を震わせている。言っていることが意味不明だとは言え、彼は自分の患者である。さすがに心配になって近寄ると、この男は信じられないことを呟いた。
「牙は、ヴァンパイアの誇りだ。抜かれただけでも最悪なのに、まさかごみ箱に捨てられるとは…。落ちこぼれの俺の牙など、ごみ箱で十分だというのか…」
「あなた、ヴァンパイアなんですか?」
ありえない話だが、一〇〇%否定する気にはなれなかった。幼い頃、寝る前によく母が色々な物語を聞かせてくれたが、そのうちの一つに出てきたヴァンパイアは、たしかこんな感じの男だった気がする。
ファンタジーを信じるような年ではないが、とにかくモモカのイメージするヴァンパイアは、こんな男だった。
裏口のすぐそばでこうしていつまでも話していては、自分の業務上の過失とこの意味不明な光景を同僚に知られてしまう。こんなわけのわからない状況のまま、先輩らに「浮かれているからそんな失敗をするのだ」とお叱りを受けるのだけは避けたい。行く場所がないなら、とモモカは自分の家にヴァンパイアを連れていくことにして、足早にその場を去った。