第六章 勇者と剣士の友情
目を覆うほどの蒼光を全身から放った後、竜の騎士はその姿を消し、代わってジャージを身に着けた小柄な少年が姿を現した。少年は地面に没した大百足に向けての合掌を解くと、垂れていた頭をゆっくりと上げた。
「サービス君……」
名状し難い寂寥の感情を顔に刷いた男の名を呼ぶ声がした。
サービスは引かれるように自分の名を呼んだ声に向かって振り返ると、そこには人間と幽霊が肩を貸し合うという実に珍妙な光景があった。
「サービス君」
工藤は、再度サービスの名を呼んでから歩み寄ろうとしたが、今の今まで、この場で展開されていた人外魔境の死闘の残香を嗅ぎ取り、思わず足を止めてしまった。姿形こそ変わらないが、全くの別人がそこにいると、工藤は感じていた。
「……サ、サービス君……」
工藤は三度同じ人物の名を口にして、足を二歩後退させた。
サービスは工藤からの声掛けには全く応じず、強張った面持ちで、工藤に大股で近づいて行く。サービスの全身から迸る只ならぬ気配を敏感に察して、工藤の足は更に後退を欲したが、肩を貸していた刑部の体が重荷となり、それを妨げた。たちまち工藤はサービスに肉薄され、伸ばされた両手で両方の二の腕を掴まれた。
「御無事ですか!?」
それがサービスの第一声であった。顔面は蒼白だった。他人の身の痛みこそ自分の身の痛みと捉える男が見せた必死さである。工藤はそんな男に一瞬でも恐れるどころか、後退までしてしまった己を激しく恥じた。工藤は刑部を支えていない方の腕で正面のサービスの肩を力一杯つかみ返した。
「大丈夫だ! 私は大丈夫だ! 君こそ大丈夫か!? 怪我は無いのか!?」
「もちろん大丈夫です! オレの体はそれほどヤワではありませんから。工藤さんの方こそ本当に大丈夫なんですか? 腕や足だけじゃない。胸にまで怪我をしているじゃありませんか!?」
工藤はサービスに言われてハッと自分の身体に刻まれた刀傷を思い出したが、不思議と傷の痛みを感じていなかった。命がけの闘争という極限状態に身を置いたことから脳内にアドレナリンが分泌されて痛みを気にしなくなっているのかとも思ったが、どうも違うように思える。試しに、胸の傷に恐る恐る指で触れてみると、血はすっかり止まっているばかりか、切り裂かれた皮肉はほぼ癒着していた。腕と足の傷も同様であった。
「……こ、これは一体」
自分の身体に起きた現象でありながら、工藤はまるで理解できずにいた。サービスの仕業かとも思ったが、工藤の傷の直りの余りの速さにそのサービスまで驚いている。
サービスでないならば、この場にいる人物はあと一人しかいない。工藤は半ばどころか、ほとんど信じられない思いで肩を貸している美髯の老剣士の顔を見つめた。
「こういう存在なのだから、怪力乱神でも起こせないかと思ったが、本当に出来るとは思わなかった。止血程度の治癒の力らしいが……生前にこの力が欲しかった。部下の一人でも救うことができたかもしれん」
薄く目を閉じて凄惨な過去を顧みる軍人の亡霊に、工藤は細い声で一言の礼を述べることしかできなかった。刑部は工藤からの感謝など少しも求めていないことを察したからだ。
何はともあれ、工藤の怪我が軽傷に済んだことを確認できたことで、サービスは深く旨を撫でおろした。
「それにしても、何なんですか、この状況は?」
大戦の英霊と『剣の神子』が肩を貸して支え合う光景は、さすがのサービスも想定の範囲外だったらしい。
「あの……決着は?」
サービスの問いに対して、工藤が答える前に刑部が応えてくれた。言葉ではなく、その行動で。すなわち、刑部は首に当てていた手を外し、刀傷を示したのである。そして、刑部はもう首に手を戻さず、光る液体を迸るままにした。
「私の完敗だった。私が生きた後の時代に工藤正という剣士が生まれていたことを嬉しく思う。そして、小僧、『地球の騎士』に会えたばかりか、その戦いぶりを直接目に出来たことは誇りに思う」
刑部は剃刀のように鋭かった目つきを緩めると、自慢の子や孫を見つめる好々爺のように柔和な笑みを浮かべた。それから刑部は工藤から体を離し、それだけは決して手放そうとしなかった靖国刀を工藤へ突き出し、相手に受け取ってもらってから、ゆっくりとした足取りで日本武道館へと歩み進んでいく。その進行に、ある種の決心と覚悟を察して、サービスは確認をするため刑部の背中に語り掛ける。
「刑部殿。日本武道館の屋根の上にある擬宝珠に魂を留めることで、今後五十年間、現代武道の守護神の一柱としての御役目を務めて頂ければ、それと引き換えに現世での罪を全て……とまではいきませんが、ある程度の免責を望むことが可能かもしれません……」
「容喙は無用だ」
背中を向けたまま語る刑部の声は、厳格さに満ちていた。それは胸に抱いた悲壮極まる覚悟によりもたらされた現象なのだが、それを理解できたのは、この場では当人である刑部とサービスだけだった。
「今の口ぶりからすると、どうやら貴様は私のような者が最後に行きつく先を知っているようだな?」
刑部の問いに、サービスは深く頷いた。
「まだまだ未熟ですが、私は天然宗の僧籍を持つ男です。本山にいたころ、嫌というほど聞かされました。貴方もご承知なのですね?」
「つい先ほどまで黄泉平坂にいた男だぞ、私は。あの世の仕組みを知って愕然としたものだ。その余りの率直さと実直さにな……だが、それでいい。あの時代、女の肌どころか酒の味さえ知らずに死んでしまった若者が一体何人いたことだろうか。時代が悪かったなどとは下劣な言い訳だ。戦争は全て人の責任なのだ。そして、軍の指揮官の一人として、私には直接的な責任がある。逃げることはできない。償わねばならない。これから数十万年、あるいは数百万年の間、この魂が業火に焼かれ、地獄の獄卒に呵責を受けることでな……」
「……全ては覚悟の上なのですね?」
「無論」
断固たる決意が秘められた静かな宣言を聞かされては、もはやサービス程度の頭ではこれ以上語り掛ける言葉を思い浮かべることはできなかった。だから、せめて潔く見送ろうと、ただその場で深く頭を下げるのであった。
二人の会話の意味がまるで理解できなかった工藤はサービスと刑部を交互に見つめた後、サービスに倣って頭を下げた。
刑部はそうした二人の男の様子を眺めつつ苦笑を浮かべる。やがて刑部の立つ位置を中心に黒い円が生じ、次第にその体を沈め始めていった。まるでサービスが討伐した魔剣蟲が現出したときとは逆の光景が生じているようだった。
沈下の速度は高く、刑部の体はすぐに肩まで沈み喉を過ぎて顎に達した。口が沈む瞬間、刑部はサービスと工藤へ別れの言葉を告げたが、その言葉は超人の五感を有するサービスだけに届いた。
間もなくして刑部の気配が完全にこの世から消失すると、それを察してサービスは下げていた頭を戻した。工藤も顔を上げる。
「逝かれたようだな」
「はい……」
工藤の言葉にサービスは何故か哀しく首を振った。
「……刑部殿は、地獄に堕ちました」
悪い冗談を言うなと、少なからずの憤りを持って、サービスの顔を睨みつける工藤であったが、サービスの表情が余りに深い悲痛に彩られており、工藤は口を閉ざした。
「地獄とはこの星が設けた、言わば魂魄の浄化施設です。この星にある生きとし生けるもの全ては、星が宇宙領域のレベルで広域に発展するための重要な資源なのです。一寸の虫にも五分の魂とはよく言ったもので、この星の観点からは人間も微生物も等しい価値を持つ一個の命に過ぎません。この星は一種の生物がより強い種の生物とならんとして他種生命と闘い、その命を奪い合う争いを奨励する一方、種の根源的な衰退を招く同種生物間同士の殺し合い最大の禁忌と定めています。野生動物や昆虫の世界などでは共喰いと呼ばれておりますが、人間の世界ではどの国の刑法典にも載っている犯罪ですよ……つまり、殺人……」
重々しい沈黙の後で意を決した工藤は尋ねる。
「……その禁忌とやらを犯した生物はどうなる?」
「漏れなく地獄に落ちます。そこでは、最低でも一万年間の長きにわたり、この世に倫理がある限り到底実現できない責め苦を与えて、その魂魄に決して消えない苦痛の記憶を刻み込みます。同種間の命を奪うことが如何に愚かしく馬鹿げた行為なのかを分からせるために。新たな肉体を与えられたときに二度と同じ過ちを犯さないようにと……」
「し、死後の安らぎは無いというのか?」
「殺人者にそんなものはありません。地獄の苦痛が待っているだけです」
「お、刑部さんも、あの人もそうなってしまうのか? いやそれだけじゃないぞ。戦争に行った兵士たちはどうなる? 望んで敵兵を殺した訳じゃないだろう。みんな生き残るために必死だったんだ。そんな人間も処罰の対象になるというのか!?」
「例外はありません。戦場で敵兵を倒した兵士はもちろん、戦場に赴かなくても兵に戦闘の命令を下した軍の上層部は殺人を教唆した咎で殺人者と同等以上の呵責を受けることになります」
「そんな馬鹿なことが……それじゃあんまりだ! 戦争だったんだぞ! 国や家族や仲間のために皆が命がけで戦うしかなかったというのに!」
「この星にとって、それは何の言い訳にもなりません。殺人を犯すか、それを唆して実行させた事実があれば、問答無用で地獄行きです。昨今の小説や漫画、映画などでは軽々しく殺人のシーンが描かれているので、麻痺している人もいるようですが、殺人は本来、それほどまでに重い罪なのです。昨今の地獄研究では、正当防衛による殺人さえ呵責の可能性が否定できないという報告もあるほどなのです」
淡々と語るサービスだが、その表情は暗澹たるものだった。
生死観に関わる余りにも重大な事実を唐突に突き付けられ、工藤は困惑の極みにあった。
警察官として殺人を認許する気など毛頭ない。それでも殺人者の全てが凶悪な犯罪者ではない。正当防衛や事故など決して故意を持たない形でその罪を犯してしまった者も確かにいるのだ。そんな者も例外なく地獄に落ちるというのか。それに、死刑制度を採っている国ではどうなる。判決を下した判事も地獄に堕ちるというのか。死刑執行を許可した法務大臣はどうなる。死刑執行を実際に手掛けた者も同じ扱いなのか。
理解はできるが、全く納得できない。工藤は理不尽極まる法則で人間の死後の行く末を拘束する地球という惑星に猛烈に腹が立ち、何ら痛痒を与えないと分かっていながら、大地を何度も踏み躙るのであった。
頭に浮かんだそれら疑問を確認したいと思い、サービスに食いつかんばかりの勢いで更に質疑を挑もうとしたそのとき、
「いい加減にしないか、サービス」
静かだが、断固とした声音が、唐突にサービスと工藤の頭の中に響いた。
工藤は一瞬、先ほどキットと名乗った姿なき存在の声かとも思ったが、どうも違う。キット同様、耳朶を通してではなく骨伝導により伝えられていることはすぐに分かったが、声の質が全く別人のものだった。
「も、森網さん……」
サービスの声には驚愕と焦燥が滲んでいた。
「め、珍しいですね。森の兄者がキットとはいえ機械を使うなんて。まぁ、キットのコミュニケーション能力なら、どんな機械音痴だって……」
「黙るんだ」
鉄を思わせる固き命令の言葉にサービスは息を呑み、その通りの行動を取った。
「いつから君は私たちの研究成果を無断で、第三者に発表する権限を得た?」
その質問はサービスにとって余程重い枷だったらしく、俯かせるだけでなく、その場で膝を屈させた。
「も、申し訳ありません。つい、この星の理不尽な裁定に腹が立ち、言葉が先走ってしまいました」
「私たちの研究は聞いた者に多大な精神的影響を与えかねないものばかりだ。それ故、原則は門外不出。それを知らない君ではないだろう? 例外が認められる場合でも、語って良い者の資格要件は天然宗の僧正の位を持つ人間か、八方守護職のうち、子、卯、午及び酉の守護職に就く者だけだ。君が就く役目は丑寅守護職。改めて言うが、天然宗の研究を外部に語る資格は君には無い」
「はい。仰る通りです。軽率に過ぎました。重ね重ね、申し訳ありません」
サービスは深く頭を垂れたままそれを動かそうとしない。粘り気を持った汗を額に浮かばせては地面に垂らしている。恐縮の極みにあるかのようだった。
「キット君。しばらく、工藤殿だけに私の声を届けてもらいたいが、できるかな?」
呼びかけにキット自身が反応する前に、そのマスターであるサービスが補完的に命じる。
「キット、森綱さんの仰る通りにしろ」
【承知した】
森綱の剣幕から、そうすることで、サービスに不利益が及ぶ可能性はあったが、サービス自身から命じられては拒否の選択肢は無い。キットは、森綱の通話状態を維持したまま、その通話先からサービスだけを速やかに除外した。
【森綱殿。準備整いました】
「ありがとう、キット君」
工藤だけが、キットと森綱という人物のやりとりを聞き取れた。森綱は工藤に自分の声が通っているかを確認した後、咳払いを一つしてから、ゆっくりと自己紹介を始める。
「こちらは天然宗大僧正専属法力僧の一人、子守護職の森綱と申します。貴方の目の前にいる金髪小僧の兄弟子です。先程は、弟弟子の軽はずみな発言により、工藤殿の不安を掻き立てるような事をしてしまったようで誠に申し訳ありませんでした」
サービスを追及していたなりは影を潜め、意外なことに、森綱はとても恐縮している様子であった。工藤は「はあ、どうも」と、今夜二人目の姿なき相手に頭を下げる。
「本来であれば、電信通話などではなく、直接お会いした上でご説明をして、同時に謝罪をさせて頂くのが筋であると存じますが、サービスが派手に日本武道館とその周辺施設を壊してくれたもので、その復元作業に専心していなければなりません。無礼の段、何卒ご容赦ください」
「あ、いえ、とんでもない……」
後頭部を掻きながら、工藤はどうも心が落ち着かない。頭の中に響いてくる声は温和と理知、何より不思議と自分に対する深い敬意に満ちていたため、工藤はどうしてもそわそわしてしまうのだ。
「先ほど、サービスが語った地獄に関する話は、全てが出鱈目というわけではありませんが、地獄に堕ちる者の要件については未だ不明な部分が多く、殺人者が漏れなく該当するという訳ではありません。最近の研究では殺人者が地獄に堕ちない事例がある可能性も示唆されております。我々の研究を欠片でも他者へ伝える場合、その救護策についても必ず言及をしなければなりません。激情に任せて他者を脅すような内容だけを口走るなど愚の骨頂です。サービス・ホープは阿呆と評判の男ですが、今回は単なる馬鹿野郎です。サービスの発言を忘れて下さいというには、余りにショッキングな内容であったかもしれませんが、どうか囚われ過ぎないで下さい。当たり前の話ですが、私共としては、殺人は救い難い愚行であるということを理解して頂ければ、それで十分なのです」
心に染み入ってくる深い温情が込められた声だった。
工藤は、事態の進展をハラハラと見つめるサービスを顧みてから、破壊されたばかりか、その前方の地面に深く黒い大穴を開けられている日本武道館の北口玄関を通して日本武道館の中心部へと視線を向けた。
「……サービス君といい、あなた方は一体、何のために、このような危難に立ち向かうのですか?」
「大僧正が掲げる名目は『世のため人のため』です。けれど、少なくともそこにいる弟弟子は違うでしょう。単純に生活のためでしょう。何せ一回の仕事の報酬が五百円ですから。数をこなさなければ食べていけません」
言葉の響きから、森綱は穏やかな笑みを浮かべたようだった。
「それはまた……随分と、その……薄給なのですね」
「清貧こそが心身鍛錬の最高の糧ですので。さて、私は今回のサービスの愚行を上に報告しなければなりません……」
「え?」
森綱の声が急に冷たくなったので、工藤は思わず息を呑んだ。
「仕方のないことなのです。私も所詮は組織人の一人。規律を乱した人間を発見したならば、上層部に対して報告する義務があるのです。そして、私の報告を受けたならば、上層部は必ずサービスを破門とすることでしょう……」
「そんな、あれほどの働きをした少年が、それではあまりにも無体では……」
「仕方のないことなのです」
「……むむ……」
表情を歪ませて苦悩する工藤に向けて、森綱はわざとらしい咳払いをしてみせた。
「ただ、私とサービスの共通の師である大僧正の強利羅は、どのような道であっても、その途上で名を上げた人物に深い敬意を払う男でありまして……これは、もしもの話なのですが、全日本剣道選手権大会で優勝したような素晴らしい剣士が、今回のサービスの働きを評価したうえで彼の擁護をしてくれたなら、サービスの首を繋げる工作や手回しもしやすくなるのですが……さて、工藤殿、お知り合いの方に、日本一の剣道家はいらっしゃいませんか?」
森綱が何を求めているのかを素早く察知し、苦笑してから工藤は答える。
「私は……一応……その……全日本剣道選手権を二連覇しておりまして……そんな私でよければ、サービス君の弁護役を引き受けさせて頂きます。彼は今回、本当に見事で、何より勇敢な働きを見せてくれました。大僧正殿には、どうかご寛恕を頂ければ幸甚に存じますと、お伝え頂けますか?」
「承りました、工藤殿。このような下らない茶番劇に付き合って頂き、恐縮です。実はこの現場は天然宗の上層部の目がずっと光っておりまして、私が黙っているだけではどうにもならないのです。ここで貴方ほどの方が味方について頂ければ、サービスが天然宗から追放されることはありません。弟弟子のために御助力を頂き感謝いたします」
姿が見えずとも、工藤は森綱が床に頭を擦りつけるほど深く頭を下げている画が明確に思い浮かべることができた。
「工藤殿。私はこれより、展開しておりました結界を閉鎖して、結界内に発生した破壊事象を除外する作業に移ることになります。まだまだ未熟者のため、これからの作業は大変な集中力を要します。本日はこれにて失礼させて頂きたいと存じております。次、お会いする機会がございましたら、是非一席を設けさせてください。それと、明日というより既に今日となっておりますが、試合、頑張ってください。会場へ応援しに行くことはできませんが、心からご武運を祈念しております」
今までの人生で、ここまで赤心込めた声援を受けた記憶は、工藤にはなかった。思わず胸が熱くなる。
「傷はほとんど癒えているようなので、私からはせめてこれだけ……」
軽快に指を鳴らす音一つ。
何と驚いたことか。剣闘でズタズタになっていた工藤の衣服がたちまち復元していくではないか。染み込んでしまっていた血の汚れさえも除去されて、衣服はまるで買いたての新品のようになっていた。
「これは……いや、助かります。本当にありがとうございます」
深夜とはいえ、血まみれの衣服で街中を歩くところであったことに気が付き、工藤は森綱の配慮に深く感謝した。
「恐れ入ります。工藤殿。さて、キット君。今度はサービスに通話を繋げてもらえないか?」
【了解しました。どうぞ】
森綱の要望に、キットはすぐに応じてくれたので、彼はキットに向けて礼の一言を残してから、意識的に不機嫌な感情を浮かせて弟弟子の名を呼ぶ。
「サ―ビス、応答しろ」
森綱の声には確かに棘が生えていたのだが、その奥底にある声主の真意を敏感に察したらしいサービスは、恐縮しきっていた表情を俄かに輝かせ始める。
「はい、何でしょうか? 親愛なる森の兄者!」
サービスの声が明るくなってしまったことで、森綱は憮然としてため息をつく。
「……自分の甘さというものが、本当に嫌になるな。君のような男を弟弟子に持ってしまったのが、私の苦労の種であり、運の尽きだな」
「そうなのですか? しかし、私の方は、森綱さんのような方を兄弟子に持てて光栄ですよ。私が不始末をしでかし、大僧正から飯抜きの罰を受けて途方に暮れていたとき、森綱さんが自分の腹の唸り声を抑えながら、自分の夕飯のほとんどを分けてくれたことは今もよく覚えています」
「そのときのことは、私もよく覚えているよ。感謝の言葉の一つでも言ってくるかと思えば、ぺろりと平らげて君はこう言ったな『足らねぇ、足らねぇ。もっと頂戴よ』と。あのとき、私が君をどれほど強く『このクソガキ、マジで輪廻山の大瀑布に放り込んでやろうか』と思ったか知っているかい?」
「あらヤダ。森の兄者ともあろう方が何という酷いことをおっしゃるのですか」
勇者は奥歯をガタガタと震わせだが、その顔には柔和な笑みを浮かんでいた。
「今年の忘年会には西多摩青梅の酒を五升ほど持参しますから、どうか許してください。森の兄者」
「西多摩青梅……君の関連となると澤乃井の酒か。うん。よし、いいだろう。五升という言葉、確かに聞いたぞ。大僧正や私の兄弟の他、他の修業僧にも伝えておこう。無事に元旦の朝を迎えたければ、くれぐれも約束を忘れないことだ。サービス・ホープよ」
脅すような内容だが、森綱の思念には軽やかな微笑の気配があった。
「これから私は結界を閉じつつ、その内部に起きた破壊事象の除去作業に移る。工藤殿に対して、くれぐれもこれ以上失礼のないようにな」
「承りました。お手数をお掛けしますが、何卒よろしくお願い致します」
「最後に二つ。君の『Earth Cavalier』としての活動を初めて目にしたが、なるほど大したものだった。君をここまで鍛え上げた王牙殿にはやはり深い敬意を抱かずにはいられない。実に素晴らしい御方だ。そしてもう一つ。私の身を案じ、苦渋の選択をしてくれたことには素直に礼を言う。ありがとう」
その声を最後に、森綱からの通話は切断された。
「……全く、あれじゃオレを褒めてんのか王牙さんを褒めてんのか分かりゃしないな。オレの周りには、若者は褒めるとつけあがると信じている人が随分多くいるもんだ。大体、森綱さんだってまだ三十代でまだまだ若いはずなのに、一々言うことが爺臭いもんな」
首を左右に傾げながらブツクサと文句を垂れているものの、兄弟子に礼を述べられ、ほんの一瞬でも労われたことがたまらなく嬉しいようで、サービスは満面を綻ばせていた。
しかし、その笑顔も数秒のこと。サービスは工藤に顔を向けると、今度はひどく神妙な表情を浮かべて深く頭を垂らした。
「お口添えを頂き、ありがとうございます。本当に助かりました。お陰で破門だけは免れることができそうです」
「やめてくれ。君の兄弟子も言っていたが、さっきのやりとりは茶番だよ。君に礼を言われることなど何もしていない」
工藤の表情はもともと精悍であったが、今回、正真正銘の修羅場を潜り抜けたことで彼のその表情にはより一層猛々しくも理知的な彩りが加えられていた。男の理想とも捉えられる顔に今は明るい笑みまで付加されていた。
「世間一般では、男子三日会わざれば何とやらと言いますけれど、工藤さんのような才気煥発のような方には、そもそも時間の単位が違うのかもしれませんね。無才の男と気の毒がられ、今までずっと……いや、今も師匠に迷惑を掛けている男としては羨ましい限りですよ」
言葉通り、熱い羨望の眼差しを向けるサービス。
丁度、その時である。
【サービス、緊急事態だ】
キットと名乗った機械質の声の主が、緊張の雰囲気を纏い話しかけてきた。大百足のような怪物を目の当たりにしても少しも動じた様子を見せなかったというのに、今は明らか
に平静を乱している。
「どうした、キット?」
氷の声。サービスは極めて冷静だった。普段からそうという訳ではない。全幅の信頼を置いている相方が冷静さを失っていることで、只ならぬ事態が生じていることを瞬間的に察し、思考に氷を張らせたのだ。有事の際にいつでも合理的な思考を働かせることができる。これは、サービスの特筆するべき長所の一つである。
【王牙殿が工藤殿と話をしたいと仰っている。しかも、どうやら、かなり、その……不機嫌なご様子……と言うより、これは完全にご立腹だ】
「え? さっきのキットの話ってマジなの?」
【当たり前だろ! 私が君の師匠に関わる話で嘘をついたことが、今まで一度だってあるか!?】
「そりゃないけどさ、いや、だっておかしいだろ!? オレは仕事をきっちりこなしたし、工藤さんが巻き込まれたのは、さすがにオレのせいじゃないぜ? もし、そのことについてお冠というなら、あまりにも非合理で理不尽だ」
【今更それを君が言うのか? 相手は、あの王牙殿だぞ……あの方に対して君が名付けた陰の字を、私が敢えてこの場で言ってやろう。我儘理不尽不条理大王だ】
「そ、そういやそうだった……わぁやべぇ……ど、ど、ど、どうしよう?」
サービスの思考からいきなり氷が剥離した。何事にも例外というものがある。サービスにとっては師匠から説教あるいは制裁を受けることは、勇気という自らの最大の長所さえも揺るがしかねないほどの大問題であった。殊に剣術について師事した人物は、最悪の相手と言えた。
【ど、どうする? こうしている今も早く代われと、私をせっついているぞ】
「あむぅ……」
眉間に皺を寄せながら下唇を噛みプルプルと全身を震わせるサービス。これは彼が切羽詰まった際に見せる無意識の行動であるのだが、いつまでも途方に暮れている訳にはいかない。キットは紛れも無く世界最高のAIであるが、言動の指針を決定するのは、常にそのマスターであるサービス自身であるからだ。
「と、とにかく、オレがまず出てみるよ。それで、何で王牙さんが工藤さんに話をしたがっているのかを尋ねてみる……ついでに何で怒っているのかもな。それにしてもやっぱり、おかしいよな? 怒って良いのはどう考えてもオレの方なのにさ。どうして、オレの方が気を遣わなければいけねぇんだ?」
【君の疑問はもっともだが、相手が王牙殿なら是非も無い。諦め給え。通話方法は王牙殿が展開された銀河圧縮式念話だ。王牙殿はすでに私と接続状態となっている。君から合図をくれれば、すぐに王牙殿と通話が可能だ。しかし、いいかね、サービス。肝に銘じてくれ。私たちはあの王牙殿を、畏れ多くも一分以上お待たせしている。だから……どうか頼む。死ぬな。武運を祈る】
重々しい声援を受けたサービスは、コクリと大きく一度頷き、キットに念話の接続を指示した。
「……はい。こちらはサービスです。ご用件をお伺いします」
念話は頭で思い浮かべるだけで伝えたい言葉はおろか概念さえも正確にタイムラグなしで相手に伝えることが出来る素晴らしい意思疎通方法なのだが、サービスは通話の内容に慎重を期し、相手側に誠意を表そうとするとき、常に念話の長所の一つである通話内容の秘匿性を放棄して、わざわざ通話内容を声に出すことを心掛けていた。
「あん? 何で阿呆がオレの念話に出るんだ? オレはキットに工藤に繋げと言ったはずなんだがなぁ……どういうこった?」
粗雑な言葉遣いの男がサービスの念話に応じてきた。こちらも声を出していたが、サービスのように、慎重を期するだの誠意を表す云々を気にしている様子はない。至極単純に話をするのに、声を発するのは当然だと考えているだけである。利器のもたらす合理など、自分の常識に比べれば天秤にかける余地など無いと、本気で信じている万能者の如き絶対の自負と傲慢が男の声には満ち満ちていた。
「く、工藤さんには念話の経験がありません。もし、よろしければ、私が仲介やサポートをして……」
「要らん世話だ。とっとと代われ」
恐縮しきったサービスだが、念話の相手はにべもない。
「あの、いえ、ですから、念話の経験が無い工藤さんには……」
「いつのことだったか、お前の相棒のアシストが入れば、生まれたばかりの赤ん坊はもちろん、動植物とさえ念話が可能だと自慢していたことがあったよな? それとも何だ? あれか? 日本一の剣道家は、寂光の騎士サマの目から見たら、単細胞生物並みということか?」
たっぷりの嫌味の言葉には、心底から虚仮にしつつ更に馬鹿にしてやろうという悪意がコッテリと塗されていた。正面から当てられては、温厚と評判の人物さえ激昂し鈍器を掲げる場面かもしれないが、サービスは妙に慣れているらしく、苦笑を一つ浮かべてチラリと横目で工藤を眺めた。その工藤はというと、自分を巡り事態がまた妙な形で動き始めていることを察し、その表情を不安で陰らせている。命がけの修羅場を経たばかりでなく、大百足のような怪物を目の当たりにし、欠片とはいえ地獄の仕組みを知ってしまった工藤にはもはや精神的な余裕はないだろう。そのように踏んで、サービスは彼を自分の剣の師である我儘理不尽不条理大王の魔の手から擁護せんと心の中で固い決心をする。
「私は決して王牙さんに逆らう訳ではありませんが、『Earth Cavalier』のトップが何の予備知識も持たない一般人と話をするのはどうかと……」
歯切れの悪い言葉を繋ぎ、尚も渋るサービスであったが、
「おい、サービス」
ほんの少し、王牙と呼ばれる男の言葉に苛立ちと硬さが増した瞬間、サービスは息を呑み、心身を硬直させた。
「オレはついさっき、お前に、念話を工藤に代われと命じたよな? まさかとは思うが、お前はオレに同じ命令を二度させるつもりか?」
氷刃を想起させる冷たく鋭い問い掛けに、サービスは忸怩たる思いながらも無抵抗に屈した。先ほどの決心など台風を前にした砂山の如くとうに崩れ落ちている。そして、強張った表情で工藤の元へと近づき話し掛ける。
「……あ、あのですね、工藤さん。王牙……いや、私の剣の師匠が、ちょっと工藤さんとお話しをしたいと言っているんで、お願いできますか?」
全長だけなら高層ビルにも匹敵する化け物と、つい先程まで対峙していたばかりか、瞬く間にその討伐を果たしたほどの男が、乾いた笑みを浮かべ、全身を上下左右にガダカタユラユラと派手に震わすという極めて無様な姿を晒している。魔物の討滅を果たした勇者を一分程度の会話でこのような悲惨な状況に貶めることができる会話の相手と、是非とも話をしたいと思う人物が、果たしてこの世にいるだろうか。少なくとも、この場にはいない。
「嫌だ! 断る! 断固として遠慮するぞ!」
手の平を胸の前に突き出し、横にブンブンと振りながら、工藤はサービスからジリジリと後退していく。
「お願いです、工藤さん。オレを助けると思って……」
「そんな義理はないぞ」
「警察官でしょ? 一般市民の味方でしょ?」
必死に追いすがるサービスの耳元で、彼の相棒が今にも泣きそうな声を上げる。
【サービス、早くしてくれ! 王牙殿がいよいよ本格的に焦れてきたぞ。さっきから物騒な言葉を並べ立てては、その言葉の尻に君どろこか私の名までつけ始めているんだ。私はまだ破壊されたくない】
「あわわわわ……ど、ど、どうしよう?」
震える歯で手の指先を噛みながら動顛する漫画のような人間が、この世に実在することを、工藤はこのとき初めて知った。サービスは本当に困惑していた。そんな人間を目の当たりにして放置することは、やはり工藤にはできない。話をするだけでよもや殺されることはあるまいと、工藤は腹を括る。
「よし分かった。私が出よう。出てやろうじゃないか!」
土気色にまでなっていたサービスの顔色に、たちまち生気が蘇った。
「あ、ありがとうございます。このご恩は一生……」
「重いぞ。怖くなるからそういうことを言うのは止めてくれ。私はただ会話をするだけだぞ。それで、どのようにすれば私もその念話いうものに参加できるんだ?」
「あ、方法自体はとても簡単です」
そういってサービスは右手を工藤へ差し出す。
「オレの手を握って普通に喋って下さい。オレが工藤さんの思念を相手側に伝達します。一方で、相手側の思念はオレが受け取って、それをキットが工藤さんに音声として伝達します」
「何だか凄い技術だな……」
工藤は恐る恐るサービスの手を握った。
「リアル・アース・テクノロジーとやらの一種らしいですよ。しかも子供騙しの代物らしいです。さて……では、いよいよ繋げますね。おお……よし、繋がったぞ。工藤さん、お願いします。どうぞ」
合図を受け、工藤は咳払いを一つして、下腹に力を入れると、
「自分は、警視庁警備部第四機動隊所属、工藤正巡査部長であります!」
堂々たる名乗りと同時に、頭を正しく上体の方向に保ったまま、体の上部を四十五度前に傾けて、最敬礼を行った。相手の姿が見えないのだから、工藤の動作は滑稽かもしれないが、王牙という男の声を聞き、その気配を一欠片でも察した者なら、工藤が自然と敬意と畏怖の念を込めた行動をとることが如何に自然なことなのか痛感することができるだろう。事実、サービスは少しも笑っていない。
工藤は敬礼の姿勢を保ったまま、きびきびと語り出す。
「この度は、奇怪な事件に巻き込まれたところ、王牙様のお弟子様にお助け頂き、命拾いを致しました。まことにお礼の言葉もございません。私に御用があると伺い、お弟子様を通す形でお話をさせて頂いております。念話というものに躊躇してしまったため、お待たせしてしまいました。申し訳ありません」
多少固いところはあるが、現役の警察官として活気を含ませた良い挨拶だった。何より、念話の接続が遅れた理由を何気なく自分のせいにしている点は素晴らしく、サービスは感謝と敬意を込めた視線を細めた目から工藤へと送るのだった。
(さあ、どうくる?)
サービスの発言から、王牙という人物はよほど自分勝手で傲岸な男らしい。いきなり怒鳴りつけてくる可能性もあるため、工藤は緊張した心持ちで先方からの発言を待ち構えた。工藤が無意識にサービスの手を強く握り締めてきたことから、工藤の緊張は否応も無くサービスにも伝わっていく。
「怪我はないか?」
これが王牙から工藤に向けて放たれた最初の言葉だった。
おためごかしの言葉などではない。ぶっきら棒ではあったが、王牙から送られてきた思念には、弟子であるサービスさえ感じたことがない温かな赤心が込められていた。
「明日に大切な試合を控えている工藤を、このような事態に巻き込んでしまったことを心苦しく思っている。今回の経緯の全てはすでにキットから報告を受けている。本来であれば、私の愚鈍な弟子が対応しなければならなかった英霊の相手を、第三者に押し付けるなどあってはならないことだった。だが、弟子の責任は師匠の責任。何分あまりこうした経験がないものでな。言葉だけの謝罪というものにどれ程の意味と価値があるか分らんのだが、どうしても黙っていることはできなくてよ。こうして念話を繋げさせてもらった訳だ。工藤よ、すまなかったな」
サービスにとって王牙という男は、最強という特性を主軸に傲岸不遜、理不尽及び我が儘が混在一体となってたまたま人の姿形をとったような、およそ理解不能な存在であった。
サービスが知る限り、彼の剣の師匠がへりくだることはもちろん、誰かに謝意を込めた言葉を吐いたことなど一度たりとも無い。そもそも詫びという概念を知らないのではないかと真剣に疑っていたほどだ。そんな男が、日本一とはいえ、たった一人の剣士に自分の非を認める趣旨の発言をしたのだ。自分は取り返しのつかない失敗を犯したのではないかと、サービスはその顔から再び、そして今度は急速に血の気を喪失していった。
工藤は死人の如きサービスの顔色を目にして、慌てて王牙に応じる。
「靖国の英霊と立ち会うことを希望したのは、私自身の意思です。サービス君に強制された訳ではありません」
「おう、こいつは有難いお言葉じゃねぇか。だがな、工藤よ。オレの弟子への弁護は不要だ」
王牙の声は少し冷たくなった。ただ、それだけで、工藤は全身に鎖を十重二十重と巻かれたように体の自由が奪われた。自身を束縛するものが、いまだかつて経験したこともない巨大な恐怖であることを認識するまで少しの時間が必要だった。
念話の相手が強張ったことを敏感に察して、王牙は意識して感情に温みを戻した。
「ああ、やっちまったか。オレの普段は国王だが、所詮は不器用な武辺者でな。油断をすると言動の一つ一つが相手に緊張を与えちまう。不快な思いをさせるつもりはなかったが、少し油断したな。おい、大丈夫か?」
「あ、う、いえ……も、も、も、も……もちろんです……大丈夫です」
ようやく答える工藤であったが、その言葉は唸り声にも似て、とても不明瞭だった。
「ふん。いいぞ。やせ我慢は数少ない男の美しき矜持だ。ありがとうよ、工藤。お前は好い男だな……さて、そんじゃサービス」
突然話を振られ、念話中継基地となっていた少年がビクリと大きく体を震わせた。
「はい、何でございましょうか。陛下」
「黙れ、阿呆! 何が陛下だ。オレをそう呼んで良いのは、オレの民だけよ。せっかくその星に関連する我が家の伝統的な役割の一つを与えてやったというのに、何だこのザマは? 役立たず……どころか、今回はそれよりタチが悪ぃじゃねぇか。最悪でも阿呆が相討ちでくたばるだけだなと想定していたっていうのによ、周辺施設は半壊の上に第三者まで巻き込みやがって。お前という奴は、いつだって最悪の事態の真下を飛びやがる。オレの妻を筆頭にそれを凄いなどとのたまう連中もいるが、オレもそうだと思うなよ。お前は使徒だ。オレの想像力を鍛えるために遣わされた疫病神からのな。さっさと土下座して、涙と鼻水をちょちょぎらせて詫びでも入れたらどうだ?」
罵倒と嫌味をミックスして糾弾する上に無残な謝罪まで要求してくる情け容赦のない師匠に、サービスの方でも流石に釈然としないものを感じ始めた。
「お言葉ですが、王牙さん。出現するのが英霊たちだけでしたら、問題はなかったんです。ところが、大戦の怨念で生み出された魔物まで出てきました。それも東京を壊滅できるほどの力を秘めたものです。オレはその対応に追われたのです。ですから……」
「甘ったれんな」
王牙からこの思念が届いたとき、サービスは凄まじい力で両肩を真上から押さえ込まれる感覚を覚えた。体の自由を奪われ、呼吸どろこか、数瞬、心臓の鼓動さえ止まった。工藤もサービスが受けた思念の欠片が届いてしまったものか、こちらは胸を抑えてその場に膝をついてしまっていた。
「突発的な事態に対応できてこそのプロフェッショナルだろうが? お前がオレの下で得た力と技は、たかが魔物一匹程度が闖入して場を乱したところで、何ら問題なく状況の収束を果たせるはずのものだ。その星程度……いや、お前らの言う銀河系程度の宙域範囲内の退魔活動において『Earth Cavalier』の騎士の号を持つ男に言い訳が許さると思うなよ」
酷い言われようだが、サービスはそれが正論だと理解していた。
「今回の件、お前は任務こそ達成したものの、その方法にしくじりがあると考えられるよな。その甘ったれた性根を叩き直すためには、我が家の名物試練……『暗黒巡り』が必要かもしれんな?」
工藤にはもちろん、それがどのような内容の試練かは分からないが、王牙の口からその試練の名称が飛び出した瞬間、サービスが絶句し、その顔色をドス黒く変色させたことから、常識と倫理を無視した過酷極まるペナルティであることは間違いなかった。
工藤の見立てでは、サービスは王牙なる人物にまるで頭が上がらないようだ。言いつけられれば、サービスはその『暗黒巡り』とやらに諾々と挑むことになるのだろう。もう一度、自分が弁護に立たなければならない。知り合って数時間の人間関係だというのに、このときの工藤はサービスを守護することについて胸を焦がさんばかりに使命感を燃やしていた。竹馬の友の危急を聞き、万難を排して駆け寄ろうとするとき、人は同種の感情を抱くことだろう。
敢然と立ちあがった工藤の眼にはかつてないほどの闘志の火が宿っていた。
(待っていろ、サービス君!)
勇気は凛凛。灼熱の感情をそのままぶつけてやろうと、口を開いた瞬間、
「しかしながら!」
まるでタイミングを見計らったかのように、王牙が突如として逆接語の叫びを発し、工藤の発言を封じた。
「今回だけは、特別に勘弁してやる」
全く同時に、ポカンと呆気に取られた表情を浮かべるサービスと工藤。ただし、その心因は各々で違う。サービスは有り得ない事態を目の当たりにした驚きからであり、工藤は振り絞った激情が行き場をなくした困惑からであった。
「オレにお前に対する情けがあると思うなよ。これは言わば、特赦だ」
声の主は、もしかするとだが、少し照れていたのかもしれない。こういうことが慣れていないのだろう。
「キットからの報告があった後に、強利羅からオレに連絡があったぞ。オレに直接連絡を取ることについて、許可を出してはいたが、それでも直々に連絡を入れたことに恐ろしく恐縮していたぞ。無理は無いがな。その星における至高の術者が随分とまあ懇切丁寧に説明してくれたぞ。お前が英霊との闘いを工藤に任せて、魔物を追撃したのは、無防備な兄弟子を護るためだったとな。
そのことを証言するかのように、お前の兄弟子の森綱とやらからも寛恕の要請があった。もちろん、キットの奴からもな。工藤自身も『剣の神子』であったことも聞いた。
しかも、土地と時代に選ばれた真正の『剣の神子』らしいとな。今回の試練は、きっと工藤の剣の曇りを拭い、これからの剣道人生を充実させるために必要なものであったのだろうよ。そして何より……」
工藤は、このとき、姿の見えない王牙なる人物が笑みを零したことを感得した。それが確かに自分に向けられたものであると悟り、訳も分からず、誇り高い思いが胸を満たし、気を緩めれば感涙を落としてしまうほどの怒涛の感動が心を支配した。
「突然、修羅場に放り込まれ命がけの闘いを余儀なくされた不幸極まりない男が、サービス・ホープという名の稀代の阿呆なんぞのために必死になって弁解に努めてくれた。こいつは全く有難いことだぜ。共に戦った男同士の絆というものだな。これを無視することは、オレには出来ん」
「あ、ありがとうございます……王牙さん」
「馬鹿野郎! 礼ならオレじゃなく、そこの日本一の剣道家に言え」
王牙の言葉を受けるや否や、サービスは顔面をクシャクシャにして工藤の手を両手で包むようにして握り、壊れた水飲み鳥もかくやとばかりに頭を下げまくった。
「ありがとうございます、ありがとうございます! お蔭で本当に助かりました! つい先ほど森綱さんの追及から助けてもらったばかりだというのに、今度はあの王牙さんから助けて頂けるとは、本当に何とお礼を言えば良いのか……お陰様で、あの『暗黒巡り』から逃れることができました」
「いや、お役に立てて良かったよ。それにしても、その『暗黒巡り』というのは、それほど辛いものなのかい?」
サービスは大きく深く頷いた。
「修業時代に五度行いました。人間が魔物に支配された異世界を救いに行くという、まるでテレビ・ゲームのような『Earth Cavalier』特有の精神鍛錬法の一つなのです。当然のことではありますが、幻想と現実は全く違っていました。オレには機密保持の義務がありますから、その内容について詳しく説明することはできませんが、そのとき、一緒に試練に挑んでくれた『Earth Cavalier』の同期の連中……苦楽を共にした戦友の支えがなければ、とても耐えられなかったかと思います。もし仮に私一人だけだったら、価値観や倫理観はもちろん、きっと人格そのものも反転して、私は私が最も嫌悪する人間になっていたかもしれません」
工藤も学生時代はご多分に漏れず、テレビ・ゲームを嗜んだ。ロール・プレイング・ゲームはコツコツと積み上げる作業が性に合っていて大好きだった。そのゲーム経験からリアルに考えてみる。魔物に支配された人類、奴隷どころか家畜扱いされる人類、魔物の食生活と繁殖方法……そこまで考えて思考を一気に遮断した。確かに、そんなものをフィクションではなくリアルとして目の当たりにしたならば、仁義の心など瞬く間に朽ち果ててしまうだろう。残るは絶望と憎悪と徹底した破壊衝動だ。
「常軌を逸した苦労だ……」
工藤もサービスの手を両手で握り返し、二人は何度も握り交わした両手を上下に振った。
「おい、サービス」
王牙が呼びかけてきたので、サービスと工藤は手の上下運動を慌てて止めた。
「はい! 何でしょうか?」
現金なもので、金髪小僧の声はすでに明るく、そして軽い。
「『暗黒巡り』は勘弁してやるが、お咎め無しだと何だか面白くねぇから、アレな。お前これから先十回分の仕事の報酬はいつもの五分の一だからな」
「は!?」
「安心しろ。大僧正も了解済みだ」
「一体どこに安心できる要素があるんですか!? こんなときだけやたら手際のいい根回しをしくさってからに! 分かっています!? オレの報酬が五分の一になったら、一仕事百円ですよ! 百円! 糊口のしのぎ方がまるで分からない。働いているのに、今より貧しくなってしまう! そんなのっておかしいですよ! これは一体全体どういう理屈なんですか? 石川啄木の詩集を読んで涙ぐむのはもう御免なんですよ!」
「さて、工藤よ」
王牙はギャンギャンと喚く弟子を完全に無視して、工藤に念話を向けた。こちらに対してはやはり温情に満ちている。
「色々と騒がせちまったが、まぁとりあえず、明日の試合は頑張ってくれや。オレはお前が剣に心を落とし込めるようになった中学生時代から注目していたんだぜ。武運を祈ってやるよ。ああ、それとな。王牙というのはオレの名じゃねぇ。『Earth Cavalier』における称号だ。あの阿呆にはオレへの呼称として定着してしまったがね。オレの名は、辻だ。辻明彦という。お互い武道に邁進する者同士だ。顔を合わせる機会もあるかもしれん。その時まで健やかに過ごせ。そんじゃまぁ、本日はこれにて解散」
王牙からの念話はそうして途絶えた。工藤は自分が無意識に深く頭を下げていたことを、そのときようやく自覚した。
サービスの方は憤懣やるかたない様子で王牙への念話の再接続を試みているが、どうも上手くいかないらしい。
キットが【王牙殿の方で完全に君からの接続を拒否している。こうなってしまっては打つ手はない】と、止めの言葉を吐いたので、サービスはガックリと両肩を落として、悲嘆にくれた。
「うう、くそ! 鬼だ、あの人は鬼だ! そうじゃなけりゃ悪魔だ!」
【君はどちらも退治したことがあるだろう。あの方はそんな可愛いものではないよ】
二人の会話の内容は冗談のように聞こえるのだが、きっと事実なのだろう。工藤は改めて自分が人外魔境に立っていることを認識するのであった。
「……森綱さんもそんなことを仰っていたが、冗談だと思っていたよ。君、本当に一回の仕事の報酬は五百円なのか?」
「ええ、まあ。実費別ですけれど」
「今回の仕事もかい?」
「はい」
「大百足の退治も含めて?」
「あの我儘理不尽不条理大王が、追加報酬を出すとは思えません。何度もこんなことがありましたが、頑として五百円玉一枚です。しかも投げつけてくるんです。他の惑星にまで届くんじゃないかと思えるような凄まじい勢いで。そして王牙さんは酒を吞むんです。必死になって受け止めるオレの焦燥ぶりを眺めて、ゲラゲラと大笑いしながら。畜生……宇宙最強じゃなけりゃ、ぶちのめしてやるのに……」
軽く鼻を啜るサービス。さすがに工藤はそんな少年が気の毒に思えてきた。
「サービス君……君、腹は減ってないかい? もし、よければ、近くのレストランとかで飯でもどうだい? もちろん、私の奢りだ」
「え!? いいんですか?」
沈みがちだったサービスの顔色が喜色に満ちて輝いた。切れた電球を新品のものと取り替えたときのような明暗の転換であった。
「ステーキを食べたいですな。焼きはウェルダン。それと、シーザー・サラダとボロネーゼ・パスタも捨て難いんで、一緒に頼んで良いですか? デザートは何にしよう?」
「まぁ好きに頼んで構わないが、いいのかい?」
「何がです?」
「天然宗は禅宗だろう? 食べるものに制限なんかがあるんじゃないか?」
「ああ、大丈夫ですよ。ウチの宗派で許されないのはお残しだけで、食べてはいけないものは特に無いんです。葷酒山門に入るを許さずっていうのが禅宗の門前にある戒壇石のお決まりですが、天然宗ばかりはそれがありません。こういう所も異端と罵られる理由なんですけれどね。さて、じゃあ、どこへ連れてってくれます? オレこの辺りの土地勘がないもんで、案内してくれると有難いです。何なら、キットにナビさせますよ。おいキット、この周辺で一番高い洋食店を探してくれ」
聞き捨てならない単語があったので、慌てて工藤は止めに入る。
「待て待て、そんな店は駄目だ」
「日本一の剣道家が何をせこいことを言っているんですか? こういう時はですね、自宅を担保に入れようと、可愛い後進たちにですね、好きなものを食べさせてあげるんですよ!」
「剣の腕前と財布の中身は必ずしも正比例するものではないぞ。私はしがない公務員だ。しかも、我が家はお小遣い制だ。自然と自由にできる金銭は限られる。美味い早い安いのファミリー・レストランに行くぞ!」
「あらら、聞きたくなかったな。大人のそういう夢のない言葉。結婚は墓場の代名詞なのですか? 違うでしょ? 夢を喪った乾いた心の大人では、ピーター・パンにネバーランドに誘ってもらえませんよ」
「知ったことか。あの全身緑尽くめの小僧は、私たちのような仕事の人間から見れば、単に未成年に対する略取・誘拐罪の容疑者だ。声など掛けられたら、その場で職務質問してやる。それにな、今は深夜だぞ。こんな時間に君の言う高級レストランが営業している訳ないだろう」
「くそう、確かに仰る通りだ。流石に勝手口の戸を叩いたとしても、誰も出て来やしないだろうな。それどころか不審者として警察に通報されてしまいそうだ」
「おい、冗談じゃないぞ。そんな形で私は失職したくないからな。何より、明日の大会に出られなくなる。とにかく、ついてこい。確か靖国通り沿いに深夜もやっているレストランがあったはずだ」
サービスを先導する形で、工藤は足を進め始めた。サービスはそれに従う。ご機嫌らしく、軽やかなスキップまで披露していた。高級だのなんだのと言っていたが、只飯にありつけることが心底嬉しいらしい。卑しいと言えばそれまでだが、奢る側としては奢り甲斐があることも事実であった。
「いやぁ、でも良かったですよ」
「何がだい?」
念のために財布の中身を確認しながら、工藤はサービスに応じた。
「明日の試合に出て頂けるんですね?」
言われてみればと、愕然として工藤は財布から顔を上げて傍らの少年の顔を見つめた。そこにはやはり人懐こい笑みが浮かんでいた。
確かに、サービスの言うとおりであった。工藤が惹かれるように日本武道館へ足を運んだとき、明日の大会を辞退するどころか、剣道自体をやめることさえ考えていた。それが今は明日に控えた大会への参加を心待ちにしている自分がいる。一戦とはいえ修羅場をくぐりぬけたことで、体力は著しく減少しているし、今の時刻を考えると、明日は間違いなく寝不足だ。もしかすると一睡もできないかしもれない。体調は不完全どころか、ボロボロの状態で試合に挑むことになるだろう。
しかし、それでも、工藤の心は逸っていた。一刻も早く強者と剣を交えたくて仕方がない。試合が待ち遠しくて仕方がないのだ。何故か。答えは明瞭だ。先ほどの死闘の中で掴んだ剣の工夫を試したくて仕方がないのである。刑部との一戦は、火種として燻っていた工藤の剣士魂を燃焼どころか爆発させる劇薬としての働きを示したのであった。
「君に言われて、ようやく今の自分の気持ちを把握できたよ。私という人間は意外と言うか、やっぱりと言うか、実に単純な男のようだ。我ながら呆れてものが言えないよ」
「いいじゃないですか。私は好きですよ、そういう裏表のないシンプルで純朴な人。楽に行きましょうぜ、旦那!」
ニタニタと何だか妙に卑しい笑みを浮かべ、サービスは肩を震わせた。今までの人懐こい微笑みとは種類がまるで違うが、何故か工藤はその笑顔の方がより大きい好感を持てた。するとどうだ。腹から沸き上がった感情が脳を経て、言葉として口から飛び出す。
「なあ、サービス君」
名を呼ばれて、サービスは視線を工藤へ向けた。
「私と友人にならないか?」
「……これは随分と意外なお申し出ですね……」
「私にとって友人とは二種類ある。気心の置けない相手と、腐れ縁を持った相手だ。君はどちらかといえば、後者だと思う。縁を築くほど近しい間柄ではないと、言ってくれるなよ。私自身、そう思っているからな。腐れ縁はこれからだ。何故だろうかな? 今回の事件を機に、私は君の領域に踏み込んでいくのではないかという予感があるんだ。警察機構の中で現実的な事件に埋もれる中、時折耳にする奇怪な事件の数々。それは決して無視できない被害を及ぼす。そんなとき、力を貸してくれる相手が君ではないかと、私は思うんだ。明日、明後日、一年後、五年後、十年後においても。酒を飲み交わしながら、君に相談を持ち掛ける。そんな未来における私の姿が思い浮かんだんだ」
「そいつは違いますぜ。工藤さん。全然違いまさぁ」
熱々と友情を語る相手に無残な言葉を投げかけるサービス。実に万死に値する反応だ。事実、工藤は顔を真っ赤どころか、それを通り越して真黒な顔色で全身を恥辱で震わせた。
工藤が激昂する直前、サービスは言葉を継ぐ。
「オレは酒を飲めません」
至極真っ当な意見に、工藤は思わず頷いた。
「いや、そうだな……君はまだ高校生だ。まだ酒を飲めん。飲んではいかん。もちろん分かっているとも。今の話は君が酒を飲めようになってからの話だよ」
「いいや、あの、そうじゃなくてですね。オレは単純に酒が飲めないという話です。下戸ってやつなんですよ、オレ。この国の法律ではとうに酒が飲めるんですよ。だって今年で多分二十五ですから」
「ん? んん?」
実に何気なく、ボロリととんでもない事実をサービスが漏らしたので、不覚ながら工藤は間の抜けた顔をして石木造りの人形のように全身を硬直させた。
「そもそも酒ってそんなに美味いもんなんですかね……などと、呑兵衛に言ったところで、人生を損しているといわれるのがオチなんですがね」
ウケケケケと、またも卑しい笑みを浮かべるサービス。
「君、二十五歳なのか!?」
工藤は単刀直入に言った。
「はあ、まぁ、たぶん」
サービスは後頭部を掻きながら答える。
「一つ、二つの誤差はあるかもしれませんがね。男なら、大した問題じゃないでしょ?」
「だって、君は高校生なんだろ!?」
「二十歳を超えた大人が高校に通ってはいけないという法律は無いと思いますが?」
「確かにそんな法律などないが、いや、そうじゃなくてだな……ああ、駄目だ、くそ。頭が混乱している。この調子だと、サービス君、君は何だか他にも色々と面白いことを隠しているだろ?」
「面白いと思えるかどうかは分かりませんが、まぁ、色々と話していないことはありますよ」
「よし、分かった!」
左の手の平に右こぶしをバシンと叩き落してから、右手の指を全てピンと立たせて正面の相手にチョップを叩き込むようにして手刀を切った。
「ちょっとATMに立ち寄らせてくれ。女房に怒鳴られることを覚悟して、十万ほどおろしてくる」
「おお、太っ腹! だけど、さすがに腹ペコのオレでもそんなに食えませんぜ」
「念のための資金の用意だ。何より、私の酒代だ。これは勘だが、君にこれから話してもらうこと、殊に修業時代の話なんかは、恐ろしく奇怪で愉快なグイグイ酒が進む話じゃないかと思う。この機会は逃せない」
「明日は大切な大会でしょう?」
「酒に呑まれる真似は大学時代で飽きた。奥義を教えておこう。チャンポン飲みは駄目だ」
「すげぇや。古今東西、表社会裏社会、この世とあの世、その認識だけは統一なんですね」
「むう。その辺りも面白そうな話が聞けそうじゃないか。よし行こう、サービス君。明日は文化の日だから、学校は休みだろ? ガンガン飲み食いしようじゃないか」
実のところ、明日は明日で仕事が三つ入っているのだが、只飯を逃すことはできない。
「行きましょう、工藤さん!」
「よし行こう、サービス君!」
深い夜に包まれた日本武道館の前で、剣士二人が、半ばスキップするかのような軽い足取りで、死闘の現場から日常の喧騒に満ちた市街へと向かっていった。
そして、これまでの出来事こそが、工藤正が前人未踏の全日本剣道選手権大会三連覇の偉業を達成する前夜に関与した靖国刀にまつわる怪奇なる異聞の全てであった。
ちなみに、駐車場の自動販売機に立てかけたまますっかり忘れさられていた靖国刀三振りを、血相変えたサービスと工藤が回収するべく駆け戻ってきたのは、彼らがここから立ち去ってから丁度五分後のことである。