第五章 寂光の騎士
大百足が叫声を上げた。それは向かい来る敵対者への勇みの咆哮か、破壊と殺戮に耽ることができる昏い歓喜の雄叫びか。いずれにしても嫌悪感を覚える響きが耳朶に残る。脳髄の根元を力任せに揺すられたかのように激しい吐き気もこみ上げる。
一都市さえも壊滅し得る可能性を秘めた恐ろしき怪物が、これから力の限り暴れてやろうという意思を激烈に示している。大気が震え、大地が揺れている。凄まじい破壊を前に、天地が怯えているのだ。それほどまでに強大な力を有する一個の存在が、今たった一人の人間に対する殺意だけに燃えていた。
大百足は刃状の節足の根元を玉のように膨らませ、極限まで力を蓄えていく。節足の先端は、微細な震えを湛えながら全て日本武道館の西口玄関に向かっている。このとき、大百足は魔獣としての本能により、目前の建物から自身に向かって駆けてくる存在に魔躯の芯が凍てつくような緊張感を覚えていた。
今の自分は驚天動地の力を有しているはずだ。それにも関わらず、自分を建物の外まで蹴り飛ばしたあの忌々しい人間は微塵も恐れを抱いていない。あの小柄な人間は確かにこちらの姿こそ視認してはいないが、全身から間断なく放射される邪気の波動を感得して、こちらが今までとは比較にならないほどの力を獲得していることは十分に察しているだろう。
にもかかわらず、何故怯まない? どうして戸惑わない?
自身の力に余程の自信があるのか、それとも状況を把握できていないただの馬鹿なのか。それとも別の理由があるのか。何にしても大百足にとっては脅威だ。待ちに待ってようやく出現できた現世だというのに、何故、こんな規格外の人間が待ち構えていたのか。大百足は自分の運命を激しく呪った。そして、今はその怨みの念さえも初撃へと込めていく。
標的が建物から外に出ると同時に、全力の攻撃を叩き込む。一本の節足の一撃でさえ地表を容易に打ち抜き地盤を震わせて近隣の建物を傾斜させるはずだ。全ての節足を潰す覚悟の威力で同時に放ったならば、この周辺地域を丸ごと覆すほどの激震を引き起こすことさえできるはずだ。
ああ、そうだとも。都市を壊滅できるほどの威力を秘めた攻撃を、たった一人の人間に叩き込んでやろう。可能な限り多くの無辜の民を無残に苦しめてやることこそ、自分の暗黒の使命であったが、今はもうそんなことはどうでもいい。
(来い! 来い!! 来い!!!)
殺す。何としても殺す。どうあっても殺す。殺さなければならない。
脅迫観念に近い思い入れで、大百足の心が逸る。そして遂に、大百足の触角が日本武道館の内部から玄関に猛速度で向かう人の気配を捉えた。今こそと、蓄えていた力を解放しようとしたその瞬間、
「我が号は寂光!」
機先を制して放たれたサービスの裂帛の気声は、大百足の精神と思考を震撼させ、その魔魅を静止せしめた。それを当然の反応とばかりに、サービスは姿を見せぬまま言葉を継ぐ。
「我が槍は黒天を穿ち! 我が剣は黄地を断つ!」
より一際強い気魄を込められたサービスの咆哮が、大気を弾かせて轟くや否や、日本武道館の玄関口を塞ぐ形で直径十メートルもの青白い光円が展開され、夜闇を薄めんばかりに眩い輝きを放ち始めた。しかも、その光円は外円から中心部に向かって幾筋もの青と白の光線を走らせ、瞬時に特定の生物の頭部を描いた。
皮膚は全て青い鱗に覆われており、鼻と口は前方に大きく伸びて口内に並ぶ歯は全て刃のように鋭角で、上顎と下顎は装甲を想起させる外骨格に覆われている。瞼の上部からは長く大きな角が頭骸骨をなぞるように頭部の後方へと生えて、その先端だけが跳ね上がり、額の上部からは短く太い角が垂直に聳えている。その形は紛れも無く、世界中の空想物語で最強と謳われる幻獣神‐竜‐の頭部であった。虚空において克明に描かれた荒々しくも生々しい神獣の表情に、怪物としての格の違いを思い知ったものか、大百足は怯懦の心に囚われ、大きく後退する。
「今、全ての嘆きを歌声に」
一転、深い決意を秘めた静かな声音が夜気に沁みる。そして、言葉の終わりと同時にサービスが玄関口に姿を現した。この期に及び、もはや宿敵とも捉えられる存在を視認したことで、大百足の闘志と殺意が奔騰した。後退の足は直ちに止まり、再度、今度は瞬時に節足の根元に力を込めて一気に解き放った。銃の弾丸を超える猛速度で、節足の先端が一斉に光円越しの小柄な人影に殺到した。その数、何と四百二十。
死をもたらす圧倒的な攻勢を前にしながら、しかし、サービスの足は少しも停滞しない。勇気を凛々と漲られせた足取りでひたすら前へと進み、魂魄を叩き込んだ大喝を放つ。
「武装転神!」
日本武道館周辺どころか、東京全体の深夜のしじまを吹き飛ばしかねない大音声を背中に残し、最高速に達したサービスの身体は竜の頭部を描く光円の中心を貫き、そして跳躍した。その反動と衝撃により、地面は蜘蛛の巣状にひび割れた後、恐るべきことに半径二十メートルにもわたる広範囲ですり鉢状に深く沈下した。
紺碧の輝きに包まれ、サービスは眩い光人と化す。
凄まじい勢いで上昇する人型の一条の光に対し、四百を数える艶も無い漆黒の刃が迎え撃つ。
自殺行為。
誰しもがそのように思う状況でありながら、この光人ばかりが恐れを知らず天を昇る。そして、光黒が交わった刹那、重厚な金属を一息に断ち切る凄絶な破壊音が響き渡り、日本武道館の周囲の土地に半ばで切断された黒刃が矢襖の如く突き立った。鏡面を彷彿とさせる美しい切断面を漏れなく覗かせる黒刃の数は正しく四百二十。大百足の足元は立錐の余地もない。これ全ては、一合の手合わせで生じた戦果。
大百足は最初、我が身に起きた状況を理解できなかった。ただ呆然と、先端を失った節足の先を見つめるばかり。意識を敵対者に向けることを思い出したのは、深青に彩られた甲冑と真紅のマントを身に着けた小柄な人影が、自分の眉間に着地し、そこを足場として垂直に上昇した瞬間であった。跳躍ではない。天垂の糸に引かれたかのような、重力を無視した飛翔だ。
大百足が愕然と頭上を仰ぐ。その様子を田安門から観察していた工藤と刑部もまた、天を仰ぐ。
「おお!!」
深い感嘆の叫びが二つ、田安門の周辺から木霊する。大百足もまた同種の叫び声を上げたかったが、こちらの声帯にはその声を発するために適した機能が無かったため、全身を大きく震わせるばかりとなった。
工藤、刑部そして大百足は同時に目撃したのだ。
天中で皓々と冷美な光を放つ弧月を背にした一人の騎士の姿を。
人間、幽霊、化物。価値観と美意識が全く異なるはずの三種の存在が、驚くべきことにこのとき、全く同じ感想を胸に抱いた。
(美しい……)
光円の中心に描かれた竜と同一の意匠を模るフル・フェイス型の兜をかぶり、その兜も含め小柄な体躯を覆う甲冑は大海の深淵の色を顕わす紺碧色に輝いている。肩から掛けられた釣鐘型のマントは、紅蓮の如く燃え上がる深紅に染められ、首筋及び丈先には雪のような純白のファーが備え付けられており、背中を覆う中心部には咆哮する獅子の頭が金糸により刺繍されていた。
左手には、先ほどまでサービスが使用していた白刃諸刃の片手剣が握られ、対する右手には騎乗専用の武具とされている黒鋼のランスが握られていた。穂先の長さは三メートル、柄の長さは五メートルに達する。とても片手で扱える武具ではないが、竜の騎士へと変じたサービスは枯れ枝を扱うように易々と振るい、大地と垂直に掲げ、その先端で月を衝く。
夜天を背景に清けし月の光を浴びた鎧騎士の姿は、荘厳な聖画を思わせる迫力を伴い目撃者の胸の深奥を打った。
この世のものとは思えぬ圧倒的な『武』と『美』を前に全ての言動を喪失してしまった一同を眼下に見下ろしながら、竜の騎士は、碩儒の哲学者が宇宙の真理を語るかのように重々しく呟く。
「『辻流槍剣術』……『槍撃段』……」
瞬間、月を背負う騎士の全身の輪郭がぼやけた。それは体軸を中心とした信じられない速度での回転運動がもたらした現象。サービスの左手が握る剣は羽のように大気を割いて周辺の樹木が斜めに傾くほどの暴風を巻き起こす。
「『地を穿つ槍』!」
激烈な気合と共に竜の騎士は渾身の槍撃を眼下の大百足の頭部に目掛けて放つ。超高速度の回転運動により獲得した遠心力の全てを乗せたランスの一撃は、さながら牙の如き鋭角な衝撃波を生み出すと、それは寸分違いも無く大百足の眉間の中心を通り、鉛のような内臓はもちろん、鋼以上の高度を誇る外骨格さえも薄紙のように貫いて遂には大地へ細く深い穴を穿った。尋常ならざる衝撃は周辺の土壌を微細な粒子にまで変換せしめると、基礎を失った地面はたちまち沈下を起こし、大百足の巨躯を呑み込み始めた。
致命傷を負いながらも大百足には意識が残されていた。
(消えたくない)
心底からの願望だが、それは無理だと、自分の本能が深く観念してしまっていた。全身から力は抜け始め、地面に沈んだ部分から体の崩壊は始まっていく。
大百足にとっての死神が、音もなく地に舞い降りた。竜を象る紺碧の鎧を纏った神々しき騎士は、今は紅のマントの下に両手を隠し、滅びゆく自分を静かに見つめている。散り際の足掻きを見せてやろうかという害意が脳裏を過ぎったが、騎士の佇まいから油断の気配が皆無であることを察し、その意気はすぐに消沈した。
これが最後の意識の柱であったのであろう。大百足はゆっくりと横倒しになると一度だけ大きく頭部を震わせ、コトリと息を引き取った。長大な遺骸は地の底に潜む何者かに引きずり込まれるようにして沈んでいく。地表に残ったものがついには頭部だけとなったとき、生の輝きを喪失した複眼が騎士の姿を映した。すると、その騎士はマントの中に隠していた両手を出すと、胸の前で静かに合掌し深く頭を垂らしてから、神妙な面持ちで詩歌を詠うように呟く。
「汝が魂の旅路の果てに幸多き流転があらんことを」
サービス・ホープという名の男の普段をよく知る人間が目にしたならば卒倒しかねないほどの荘厳さに満ちた佇まい。それを遠目に見ていた工藤はただ圧倒され、心中においてサービスを労う言葉の一つさえ思い付くことができずにいた。