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靖国刀怪奇異聞  作者: 菊藤耕太郎
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第三章 味噌汁

 日本武道館は皇居・北の丸の杜にあり千鳥ヶ淵に囲まれているため、東京都千代田区という都心の中の都心に建築されながらも、緑と水に溢れた快い環境に包まれている。


 月のさやけし深更。都市の喧騒はもはや届かず、駐車場の周辺に植木や茂みから僅かに届く虫の音も、天上から降りかかる月光の蒼い光に吸われてしまい、時折、耳が痛いほどの静寂に満ちる瞬間があった。


 日本武道館駐車場のベンチに腰を掛ける男二人。一つは大きく、もう一つは小さい。


 二人は火炎を孕んだ暴風に包まれたかのような只ならぬ緊張に包まれており、大きい人影の方はひっきりなしに貧乏揺すりを繰り返している。一方で、小さい方の影は妙に落ち着いており、両目を瞑り、呼吸は細く、背もたれに背中を預けて石像のように動かない。


 やがて、静寂に耐えられなくなったように、大きい人影は膝の揺らしを抑え、隣に腰を掛ける小さい人影に向けて口を開く。


 「……何か、言うことは無いのか?」


 「……そうですね……うん。特に、無いです」


 小さい方の人影‐サービス・ホープという名の男は、体を動かさず、目だけを開いて実に素っ気なく、そのように工藤の問い掛けに応えるのだった。


 工藤の独白からものの数分しか経っていなかったが、その間の沈黙は鉛のように溶けて工藤の心に張り付き、彼の冷静さを奪うだけでなく、自律神経の働きさえも乱して呼吸の流れを滞らせた。


 工藤は、自分の心情をここまで乱す正体を承知していた。後悔だ。


 (何故、あんなことをベラベラと、馬鹿か私は!?)


 自分自身でも信じられない迂闊さに、工藤は自分の拳で自分の横面を思いっきり殴りつけたい衝動に駆りたてられていた。昼から夕方にかけて飲んでいた酒などもう微塵も体には残っていない。それなのに、何故あんなにも軽々しく口が動いてしまったものか。初めて目撃した真剣勝負に心を乱された影響が残っていたのか。それとも、これから遭遇するかもしれない危難に精神が張り詰めており、その解きほぐしを無意識に求めていたのか。あるいは、このサービスという名の少年には他人に心を解かせる不思議な魅力のようなものがあるというのだろうか。


 いや全部だな、と工藤は結論付ける。特に最後の要因が恐ろしく強力だと思った。この少年は水のように他人の心に沁み込むと、そこで樹のように深く広い根を張り、半ば強制的に親和の感情を付与してくる。これは才能などという世にあるか否か判然としない力などによるものではない。工藤の直観だが、これは純粋な技術だ。この少年が死に物狂いで身に着けた処世の法に違いない。自分はそれに取り込まれてしまっていたのだろう。気付くのが遅かった。ああ、しかも何ということか。それが決して不快ではないのだ。サービス・ホープという名の少年は、実に恐るべき手練の人たらしなのであった。


 依然とサービスの技術に囚われたままなのか、熱に浮かされたように工藤は心の深奥のわだかまりを吐露していく。


 「……サービス君。私の悩みは、あるいは井上と面識のない人間には取るに足らないものなのかもしれない。ただ、そうであっても、どうしても私の脳裏には浮かんでしまうんだよ。あのときの面を外した井上の顔がね。きっと、あいつは知っていたのだろう。自分が私と天秤に掛けられているという事実を。言い訳をする気はないが、私は何も知らされていなかったんだ」


 工藤は強く握りしめた左拳を右の手の平で包み込み、俯き加減で両肩を激しく振るわせた。


 「……せめて、その事実を私が知っていたなら、井上にあれ程まで深い絶望感を与えずに済んだのではないか? 重要な剣道の大会とはいえ、それに負けたところで、私は命や仕事を失うわけではないのだからね。そして、そうなっていれば、あの男があんな凶行に走ることはなかったのではないか?


それが考え過ぎであることは分かっている。自虐的な思考だということもね。だけれど、私の抱える事情は複雑だ。井上が最初に手に掛けた人物……八木さんはね、私が学生時代から世話になっていた剣道の先生なんだ。


愛妻家だが晩婚者でね、事件があった当時、お子さんはまだ十歳にもなっていなかったはずだ。当時は何でこんなことにと、悲劇に襲われたご遺族に色々とお力添えをさせて頂いたが、滑稽だよ。その悲劇の要因の一つが自分だったんだからな。事情を知ってしまった今では、とてもじゃないが、奥方やお子さんに顔を合わせられない。自分に非は無いと割り切れば良いのかもしれんが、酷く難しい。


井上の犯行の被害者は八木さんだけじゃない。新聞にも載っていたが、関与が濃厚に疑われるものだけで三人もいる。悲嘆にくれる遺族の数はその数倍にもなるだろう。彼らの心労はいかばかりだろうか。考えたところで何ができる訳ではないのにな……実に卑屈だよ。今の私は、子供のようにいじけているだけだ。その自覚があっても意気の消沈を止めることができない。不器用者だよ。要領も悪いな。出世できない訳だ。ウジウジと悩んで鬱陶しい男だと侮蔑してくれても構わないよ。いや、むしろ、今の私はそれを求めている」


 溜まりに溜まっていた感情を言葉に乗せて吐露し終えると、工藤は奥歯を強く、強く噛みしめるのだった。またも喋り過ぎた。自分の心中に留めておけばいい感傷を、何故ここまで容易に漏らす。自分はこんな年下の若造からの慰めでも求めているとでもいうのか。自分はこれほどまでに弱々しく愚かな男だったのか。先程とは比較にならないほど凄まじい後悔が工藤の心を揺さぶり、そして叩きのめした。


 一層深く項垂れる工藤。


 そしてサービスは、そんな工藤の肩を優しく抱く……などと気持ちの悪いことはせず、その鼻先にぶっきらぼうに湯気の立つ液体が入ったコップを差し出した。


 コップといっても、美麗なグラス製でなければ優雅な陶器製でもない。武骨なステンレス製だ。要するにそれは水筒の蓋の役目も果たしている器であった。当然、風情など欠片もない。落ち込んだ気分の人間の目を引くはずもない代物だが、工藤の鼻は、コップからユラリと立ち上がる湯気、正確にはその素晴らしい匂いに激しく反応した。引かれるように顔を上げる工藤。その両目は大きく見開かれ、半開きの口からは少々行儀は悪いが、涎が見え隠れまでしていた。


 「少しだけ寒くなってきましたね。いかがですか? 味噌汁です」


 サービスはいつもの人懐こいお陽様のような笑みで話しかけてくる。


 「本当は全部終わってからの夜食にしようと思っていたんですけれどね、さっき珈琲を奢ってもらいましたから、よろしければ、どうぞ」


 コップの中の味噌汁に具は入っていない。本当に、味噌の汁だけだ。


 しかし、そこから立つかぐわしい匂いは、工藤の心をつかんで放さなかった。自然と工藤の手は伸びて、味噌汁の入ったコップを受け取り、迷うことなく口をつけた。


 「美味い!」


 思わず感嘆の言葉が飛び出した。サービスが嬉しそうに微笑む。


 火傷しそうに熱い味噌汁の実に美味いこと美味いこと。正直、工藤はここまで美味い味噌汁を飲んだことがなかった。工藤はコップに残っていた味噌汁を一気に呷り、空になったコップをサービスへと差し出した。


 「お、お代わりをもらえるかな?」


 「ええ、もちろん。良かったです。お口に合って」


 空になったコップへサービスは水筒から熱い味噌汁をなみなみと注いだ。

 ゴクリと喉を鳴らし、工藤は再びコップに口を付ける。瞬く間に二杯目も空にしてしまった。


 「やはり美味い。胃が燃えるような熱さが良い。味噌汁はこうでなくてはいけない」


 「同感です。大僧正の給仕を務めていたとき、少しでもぬるい味噌汁を出そうものなら、カミナリを落とされたものです」


 「この味噌汁は、君が作ったのかい?」


 「ええ、そうです」


 「いや大した料理の腕前だ」


 「大袈裟ですよ。味噌汁なんて子供だって作れるじゃないですか。この味噌汁が美味いと思えたのは、単純に素材が良いだけですよ。出汁は昆布と鰹節の合わせ出汁ですが、どちらの材料も料亭で使われるような高級品ではありません。乾物屋に行けば、どちらも千円で三袋は買えます」


 「となると、味噌が特別なのか?」


 工藤の問いに、サービスは嬉しそうに頷いた。


 「その通り。一般には出回っていないもので、『天然味噌』と呼ばれています。天然素材を使った味噌だからじゃなく、天然宗の坊主が作っていることが理由で付けられた通称です。鎌倉時代から洗練され続けてきた秘密の製造法があるんですよ」


 「そうか、なるほど。『天然味噌』か。凄いな、この味噌。素人が使ってこれなら、一流の料理人が使ったら、どれほどの味になるんだ? 妻や子供にも食べさせてやりたいな……」


 マジマジと、工藤は空になったコップの底を見つめる。


 「もしよければ、この味噌、少しお分けしましょうか?」


 「本当かい!?」


 工藤の顔が明るく輝いた。これがつい先ほどまで暗く淀み、落ち込んでいた男と同一人物だとは到底思えぬ変貌ぶりであった。工藤もそのことに気が付き、再びガックリと両肩を落とした。


 しかし、今度の工藤には悲壮感は少しも漂ってはいなかった。


 「……嫌になってくるな。自分の余りの軽々しさに」


 そう言って、工藤は抑えきれないように笑い声を漏らした。


 「いや、工藤さん。闘いの職場に身を置く男にとって最も大切な資質とは、実のところそういうものらしいですよ。気持ちの切り替えを迅速に行うことができる者ほどコンバット・ストレスを抱え込まずにいられて、どんなに厳しい現実に直面しても、健やかな精神を保つことができるとのことです。確かにその通りですよね。悲観的に思い詰めても良いことなんて何も無いですし、誰も喜びませんからね……」


 サービスは水筒に残っていた残りの味噌汁の半分を工藤のコップに注ぎ、残り半分を水筒の注ぎ口に直接口を付けて飲み干した。


 つられて工藤もコップの中身を一気に飲み干した。三杯目であったが、工藤の体は貪欲にそれを吸収した。体にはアルコールこそ残っていなかったが、酒の痛飲により疲労していた胃腸が、塩分を備えた熱い飲み物を有難がっていることがハッキリと分かった。


 「うん。美味い」


 同じ感想を繰り返してしまう。語彙貧弱なコメントであるが、そうとしか言えないのだから仕方がない。


 「ええ、本当にそうですね。『天然味噌』はやっぱり美味いや。私だとこうはいかない。実はこの味噌を作ったのは、日本武道館で結界を張っている私の兄弟子なんですよ。森綱さんは法術と味噌作りの名人なんです。天は二物を与えやがったのです」


 サービスは工藤からコップを受け取り水筒の蓋に戻すと、それを握る手首をこね回して水筒を消失させた。サービスは片手剣さえもそうして消失させている。手品の一種なのだろうが、実に不思議な技術だ。工藤の心には、サービスのそんな小技に目を配れるほど、心の余裕というものが戻りつつあった。


 「味噌ですが、今、渡しましょうか?」


 「ほう。そうした場合、私は味噌樽を小脇に抱え、最後の英霊と対面するわけだ。絵面としてどうなんだい、それは?」


 「指をさされて笑われるレベルのマヌケ像ですな」


 「……住所を教えるから、着払いで送ってくれ」


 「アイアイサー」


 額に手刀を当てるポーズを取るサービス。


 工藤が視線を送ると、サービスのそれとぶつかり、どちらからか、肩を揺らしながら薄く軽く笑い始めるのだった。


 「サービス君、君は友人が多いだろう?」


 「ええ、まあ。有難いことに。何でそう思ってくれるんですか?」


 「君は好い男だからさ」


 「あ、工藤さんもそう思ってくれます? そうでしょ、そうでしょ。自分でもそう思っているし、実際にそういう声は多いんですよ。しかし何故でしょう? 女からの黄色い声援はまるでないんです」


 「そうだろうな。君は女に愛されるより、男に惚れられるタイプの快男児だよ」


 「イヤだな、それ。工藤さんなら、どちらが良いですか?」


 「無論、前者さ。女にモテる方が良いに決まっているじゃないか」


 「……妻子持ちのくせに」


 「……自分の女もいない分際で」


 二人はそこで顔を見合わせると、弾かれたように同時に夜空を見上げ、抑え切れなくなってゲラゲラと盛大な笑い声を上げた。少なくとも、工藤にはここ数年経験の無い肺の空気を全て吐き出すような大笑であった。


 しかし、その時間はほんの十秒足らず。二人は意識的に笑い声を萎めていき、完全に沈黙した後、冷たい聖水に浸かったかのように表情を厳粛に引き締め、全く同時にベンチから立ち上がった。


 工藤は刀をズボンのベルトに差し、サービスは左手首をこねくり回して再び出現させた両刃の片手剣を握り、駐車場の中心部に向かって歩み出した。


 「ここから先は何が起きるか分かりません。前衛は私です。工藤さんはとにかく自分の身を護ることに専念してください」


 「了解した。君も十分に注意してくれ」


 サービスは軽く顎を引き、笑みを浮かべた。いつもの人懐こいものをイメージしたのだろうが、少し固い。その理由はこの少年の前に忽然と出現し、その濃度を次第に増しつつある半透明の軍服姿の剣士にあった。服装の色彩は上下共通して昭和の初期に国防色と呼ばれた帯青茶褐色だ。両肩の上には、金地の布製、マッチ箱大、金モール縁取りのエンブレム、中央線は無く、そこには星二つの階級章、これに襟詰式の軍衣と短袴、黒い長靴という出で立ちは間違いなく将校のそれだ。


 顎からは見事な色艶の関羽髭を揺らし、目深にかぶった軍帽のつばから覗く視線は針のように細く、剃刀のように鋭く、鉈のように恐ろしい。長身痩躯だが弱々しさなど皆無。極限にまで研ぎ澄まされた抜き身の太刀を想起させるほどの強靭さと剣呑さを全身から発している。左手には、やはり一振りの靖国刀が握られていた。


 八メートルもの距離を確保しつつ、サービスは恭しい礼をした後、おもむろに口を開く。


 「私はサービス・ホープと申します。今年の『剣の神子』を務めさせて頂いております。よろしければ、貴方の御名前と御所属をお聞かせ下さい」


 「うむ」


 関羽髭の軍人は鷹揚に頷いた。


 「刑部平志朗、大日本陸軍中将である」


 軍人の肩書を耳にしたサービスと工藤は一瞬、身を引いて息を止めた。


 「……陸軍中将……最後の最後で、大物が出てきたぞ」


 唸るように工藤は呟く。額には玉のような汗が浮いている。サービスは汗こそかいていなかったが、面持ちに深い緊張が走っている。


 「不躾で申し訳ありませんが、一つだけ質問をお許しください」


 意を決し、サービスは軍服の姿の関羽髭‐刑部に尋ねた。


 刑部は「よかろう」と答え、サービスはその意が変じない内に、素早く質問を継ぐ。


 「貴方の刷いた軍刀は、恩賜によるものでしょうか?」


 「いかにも。今もどうやら我が子孫の家宝として伝わるもののようだ。しかし、私がこの世に現出したことで今はこの手にある……真の所有者の手にな」


 サービスと工藤は乾いた笑みを顔に浮かべたまま、その表情を固めてしまった。


 「サービス君」


 「何でしょう?」


 「良かったな、ご希望の恩賜軍刀組だぞ」


 「あれ、そんなこと言いましたっけ? その相手だけは勘弁してもらいたいという主旨の発言をしてきたつもりでしたけれど……」


 サービスは顔をひきつらせながら笑い、工藤もまた同種の笑いで追従した。それを収めてから、二人は同時に刑部中将へと視線を集中させた。


 「今年は例年に無く豪華なようだな。『剣の神子』が二人か。なかなかどうして、私も大人物らしい」


 サービスと工藤の決意と覚悟を敏感に察し、その先を制しようとしたものか、刑部は細い笑みを口に刻みながら、そのように語り掛けてきた。


 「貴方の御相手は、まず私が務めさせて頂きます」


 サービスは左手に握った片手剣を体の横に垂らし、相手の敵意を自分に集中させるような挑発を意図した視線と闘志を遠慮なく刑部へ叩きつけていく。


 「私はどちらが相手でも構わん。ただ……」


 つと、刑部の視線が真横に向けられた。


 この行動が工藤はもちろん、サービスにとっても意外だったようで、慌ててその視線を目で追った。


 瞬間、工藤の思考は停止し、サービスは深い驚愕により言葉を喪った。三人の視線の集中点に、怪奇な現象が生じつつあったからだ。


 始まりは地面に生じた微小な黒点だった。墨汁の一滴程度の滲みであったそれは瞬く間に直径二メートル程度の歪な円形に広がると中心部に窪みを生じさせ、それに向かって吸い込まれていく渦潮のような流動の文様を浮かび上がらせた。


 音が聞こえる。聞いた者が思わず耳を塞ぎたくなるような金属と金属を激しく擦り合せたかのような人間の本能的嫌悪感を掻き立てる音響だ。続けて漏れ聞こえてきたのは、足音だ。硬質の床を大型の虫が高速で這い回るような怖気が走る足音だ。そして、最後にとどめとばかりに響き渡ったのは、


 「ギィャァァァァァァー!」


 この世にあるまじき奇獣が喉奥から吐き出したであろうおぞましい咆哮であった。これを耳にした瞬間、少なくとも工藤は余りの嫌悪感に寒気と吐き気を同時に覚え、一刻も早くこの場から遁走したいという欲求に駆られた。


 恐怖に屈したという人間の意識がどうのこうのという問題ではない。ヒトという種が持つ生物としての生存本能が、この場からの逃避を強く勧奨しているのだ。それにもかかわらず、未だこの場に留まっていられたのは、工藤の傍らに立つ金髪碧眼の少年が、微塵の怯懦の念も抱かず、闘志を燃やした両目で暗黒の渦を凝視していたからであった。


 「工藤さん、貴方の方が少しだけあの黒穴に近いようです」


 サービスは刑部に対しても意識を払いながら、工藤の前に剣を握らぬ右手を突き出して、その場から後退するよう願った。それを拒否する理由が工藤にあるはずはない。工藤は刀の柄に手を置いたまま十歩ほど後退して、刑部と突如出現した黒穴を同時に視界に収められるよう立ち位置の工夫を凝らした。


 しかし、刑部にとってもこの状況は予想外であったらしく、今はサービスと工藤に対して敵対の姿勢を示さず、黒穴に視線を向けながら事の成り行きを静観するつもりのようだった。


 「……来やがる。途轍もなく禍々しい、何かが……」


 サービスの言葉が終わると同時に、黒穴から勢いよく長大な何かが噴出し、高く空に上がったかと思うと、そのまま落ちて地面を転がり派手な金属音を響かせた。


 サービス、工藤、そして刑部の視線が地面に転がるモノへと集中する。


 何とそれは一振りの日本刀だった。但し、柄もハバキも切羽も鍔も鞘も無い刀身だけの代物である。その色は艶の一つも無い漆黒。ただ互の目乱れの刃紋だけが薄紅色に光り、一メートルを超える刀身自体が毒々しい雰囲気を発していた。


 視線を受けていた黒刀は大きく身を震わせると、それが当然かのように宙に浮き、地面から一メートルほどの虚空でピタリと制止した。峰が天を向き、刃は地を向く。その切先はこの場にいる三人の誰にも向けられず、日本武道館の中心部に向けられていた。


 サービスの胸中に突如鉛のような不安が湧いた。これを拭い去ろうとサービスが戦闘態勢に移行するよりも前に、黒刀に変異が生じた。刃紋を境目として刀身は茎を残して二つに裂け、刃の両面の地からは昆虫のような金属製の節足が一面につき四本ずつ飛び出し、地面に突き刺さって本体である刀身を支えた。刃の帽子部分には半月型の亀裂が生じると、そこから黄色い閃光を放ち始める。傷かと思われたそれは、上下左右自在に動くばかりか、その動きに合わせて刀身の向きや節足が稼働するところから見て、どうも目のような器官の機能を有しているようだった。


 「な、何なんだ……アレは?」


 泡を食った工藤が独り言のように呟いた疑問に対し、


 「戦没者の恨みと嘆きの塊だ」


 意外にも刑部が応えた。もっとも、蟻の足音にも劣る声量だったため、その言葉を耳で捉えることができたのはサービスだけであったが。


 しかし、そんなことに構っていられるほど今のサービスに余裕は無かった。彼はこの場にいる誰よりも正確に蟲を模った黒刀の危険性を敏感に察していたからだ。


 魔剣蟲は一度だけサービスたちに向けて頭の先を向けたものの、さしたる関心を持つことは無く、生えたばかりの自分の足をその場でせわしく動かし始めた。動き出そうとしているというより、足の動かし方を学習しているように見えた。


 唐突に足の動きがピタリと止まった。


 次の瞬間、魔剣蟲は八本の足を猛然と回転させ、自動車の加速に匹敵する速度で日本武道館の西口玄関に向かって突進していった。


 「おい! 待て!!」


 魔剣蟲の意図を瞬時に察したサービスは声高に叫んだが、その場から足を動かして後を追うことができなかった。異形の怪物に怯んだ訳では当然ない。自分がここから移動することで、この場に取り残される工藤の命が危険に晒されてしまうことに躊躇したのである。


 魔剣蟲は玄関の窓にぶつかると、発条に弾かれたように後退した。サービスの兄弟子である森綱が展開させている結界がその効果をここでも発揮しているのだ。


 しかし、魔剣蟲は自らの行動を阻害されたことを屈辱と捉えたものか、腹腔の奥から絞り出すように獰猛な唸り声を上げると、刃である自身の体を猛烈に窓へ叩きつけた。極彩色の火花が上がり、玄関の窓……ではなく、その数十センチ手前の空間に雷の如き数条の亀裂が走った。


 「何だと!?」


 空間に亀裂が生じるという奇怪な現象そのものではなく、魔剣蟲のたった一撃がそれを可能とせしめた事実に、サービスは驚愕した。


 キシシという金属が激しく擦り合う耳障りな音が響いた。先程黒穴から漏れてきた音だ。それが魔剣蟲の上げる笑い声だとサービスが理解するより早く、魔剣蟲は刹那の五連撃を空間の亀裂に見舞った。


 大気が派手に弾ける音が轟き、亀裂は穴となった。魔剣蟲はその穴に自身の鼻づらである切っ先を突き込み、穴の先にある空間に身を乗り出そうとする。


 サービスはその光景を目撃しながら、目の端で刑部を捉え、小柄な体躯を激しく震わせた。サービスには魔剣蟲の狙いが分かっていた。森綱の命だ。彼の息の根を止めれば、日本武道館の周囲に張られた結界‐【隔離遮断然様ノ壁】は立ち消え、魔剣蟲は本当の意味での自由を獲得できる。


 普段の兄弟子なら、あのような怪物に後れを取ることはないと、サービスは思うのだが、【隔離遮断然様ノ壁】を展開している最中の術者は力を貸与してくれている鎮守神と意識を同一化しているため、結界を展開させる以外の行動がほとんどできない。自分の命を狙う存在が現れたとしても、まともな対応はまず望めない。即刻殺害されるか、嬲り殺しにされるかという悲惨な二択だ。自分が兄弟子の盾となる必要がある。そうすることで、結界壁を維持し、魔剣蟲の如き怪物が現世に飛び出して一般市民に危害を加えることを阻止することができる。それこそが最善の選択だ。


 分かっている。当然分かっているのだが、サービスは動かない。いや、動くことができない。持ち場を放棄すれば刑部の相手を務めることができなくなるからだ。

『剣の神子』の使命を果たせず、師の怒りを買うことなどどうでもいい。知ったことか。事実、今のサービスの脳裏に師の顔はとっくに忘却の果てだ。この場でサービスが危惧することは只一つ、自分が魔剣蟲の相手になることで、刑部の剣と殺意が工藤に向けられることだけであった。


 兄弟子の命か、工藤の命か。


 答えは出ない。自分の足なのに、動かすことができない。


 (天秤に掛けられるわけがねぇ!)


 サービスは上下の奥歯が軋み音を上げるほど強く噛み締め、八重歯は唇の皮肉をブツリと噛み切った。唇に浮いた鮮血の珠はすぐに弾け、喉仏まで太い朱線が走る。見開かれた両目は血走り、呼吸は荒く、熱病にうなされる様に全身を激しく震わせ、急遽直面することになってしまった理不尽極まる現況を心中で激しく呪った。


 悩んでいる時間など無い。魔剣蟲は徐々に、そして確実に日本武道館の内部への侵入を果たそうとしているのだ。


 冷酷な現実を前に懊悩するサービス。

 しかし、この場には、有難いことに勇ましくも心優しき少年の背中を後押ししてくれる頼もしき好漢がいてくれた。


 「行ってくれ、サービス君!」


 工藤は、そう言ってサービスの背を叩くと、ズイッと刑部に向かって歩み出ながら刀の柄に手を掛けた。刑部も工藤を決闘の相手と認識したらしく、こちらも工藤に対して歩を進め、刀の柄に手を掛けると、はや鯉口まで切った。


 「し、しかし……」


 「しかしも案山子もあるものか。敵は二人、こちらも二人。考える必要はないだろう。あの方の相手は私が務める。君にはあの蟲の姿をとった剣の怪物の対処を頼みたい」


 刑部に視線を外さぬまま、工藤は毅然たる口調で語る。


 「……工藤さん」


 忸怩たる思いがあるのだろう、サービスは若干顔を紅潮させて奥歯を強く噛みしめる。それから少し俯き、何事かを決心した面持ちで顔を上げてから工藤に対して背を向けた。このとき、サービスの顔は魔剣蟲の方角に向いていた。


 「覚悟を決めた男の背中に詫びなんていう陰気臭い言葉は残したくありません。ただ、それでも、どうかこれだけは言わせてください……」


 サービスは地を蹴った。その行動とほぼ同時にサービスは工藤の背後に一つの言葉を残す。それを耳で拾った工藤は、片方の口を大きく吊り上げ、喉の奥から堪え切れなくなったように笑い声の塊を鋭く噴き出した。


 ‐ありがとうございます‐


 それこそが、工藤に残されたサービスからの言葉である。誠心からの感謝の発露であり信頼の顕現だ。これを向けられて不快な気持ちになる者などいない。ましてや、それを口にした人間は、出会って一時間も経たないうち深い親和の念どころか剣技に関しては間違いなく敬意の念を抱かせた男である。闘う理由を得られたことで、工藤の闘志は油を投じられ暴風に煽られた火炎のように猛々しく一気に燃え上がった。


 工藤も鯉口を切り一気に刀を鞘から引き抜くと、ズボンのベルトに差していた鞘もそこから引き抜いて静かに地面へ置いた。


 「この場合、私は貴様に対して『小次郎、敗れたり』とでも言うべきなのか?」


 美髭を揺らし、刑部は目を細めて苦笑した。


 「ご随意に」


 工藤は極めて淡々と答えてきた。それが刑部の不興を買った。


 「人を斬ったこともない尻の青い若造が随分な自信を見せてくれるものだな」


 老剣士は冷たい光を湛えた視線で工藤を弄うように眺めながら、嘲笑を交えた言葉を吐いた。あからさまな挑発の姿勢であったが、それと分かっていても思わず頭に血が昇る刑部の言動であった。


 実のところ元来、工藤は、それほど悠長な性格ではない。平常の彼ならここまで露骨に感情を刺激されては瞬く間に頭に血を昇らせてしまったことだろう。


 しかし、何故なのか、子供の頃から剣を握っているときに限り、その性向を体の動きから余すことなく切り離すことができた。


 「…………」


 もはや言葉は不要と、工藤は刀の柄を握り締め直して黙然と刑部の目を見つめた。

 決して誇大な評価ではなく、歴戦の猛者である刑部をもってしても、工藤の両の目の瞳孔が湛える空虚な色彩には怖気が走った。


 ‐兵士甚だ陥れば即ち懼れず‐


 死中にあるときに命を捨てる覚悟を持つことができれば存命できる結果を拾うことができるという兵法者の心構えについての言葉である。靖国刀を手にし、その切っ先を幽体とはいえ、人の形にしたものへ向けたとき、工藤は命を捨てている。自身の命を決して軽んじている訳ではないが、工藤にとって今の現象は決して珍事ではない。稽古をしているとき、あるいは試合をしているとき、こんなことがあった。剣を振ること以外の事柄に対して極限にまで関心が薄まっていく。覚醒しながら深い眠気に囚われる思い。剣を握る手の感覚だけが鮮明で、思考どころか自意識さえも煙のように立ち消えていく。


 構えは中段。右足が前、左足が後ろ。左足の踵を浮かせ、胸を張りつつ腰を落とす。剣の切っ先は刑部の喉に向けられ、工藤の目は刑部の全体を視界に収めながら、主たる注意は刑部の眼球の動きに対して向けられる。


 対する刑部は、自分が敵対する相手の特異さとそれが及ぼす脅威の凄まじさを初めて理解し、顔から一切の感情の色を消して静かに工藤の顔を凝視した。


 そして、刑部はゆっくりと鯉口を切っておいた刀を鞘から抜いた。シャンと、弧月の軌跡を描いて刑部の脇に留まった靖国刀は月光を受けて鈍色に輝く。刑部が纏う殺気は焔のように立ち上がり、今や剣と一体になろうとしている日本剣道界最高峰の剣道家の意識を大きく揺るがした。


 「剣を交える前に、貴様に一つだけ聞いておこうか」


 靖国刀を肩に担ぎ上げる様に構えながら、刑部は尋ねた。


 「…………」


 工藤は是とも否とも答えなかった。正確に言えば、答えられなかったのだ。刑部が叩きつけてくる剣気が彼の言語を封じていた。


 「本当に良いのか? これは果し合いだ。この意味を本当に理解しているのか? 貴様は私に勝てねば死ぬ。勝てたとしても、五体満足とは限らん。あの小僧に任せておけば良いと考えはしなかったのか?」


 どこか憐れむような視線で刑部は工藤を見つめるのだった。侮蔑より憐憫が、時には男の神経を逆撫でることがある。突如として胸中に沸いた黒い衝動に突き押されるように工藤は言葉を吐く。


 「サービスという名の少年は、私より危険と恐怖が待つ修羅場に身を投じていきました。自分の身の安全の為などではなく、親しい人間の身を護る為にです。この場で躊躇していたのも、決して突如として生じた魔物に怯えていた訳ではなく、私の身を案じてのことでしょう。かように勇ましく、強く、何より優しい男が、腸が捻じれるほどに苦悩した上で、この場を私に任せたのです……」


 瞬間、工藤の顔は名誉によって彩られ、煌々と輝いた。


 「どうして私だけが尻尾を巻いて逃げられましょうか。ここで闘わない男に、日本男児を名乗る資格などありません」


 工藤の示した旧時代然の武骨極まる不合理な覚悟に対して、しかし、刑部は柔らかい笑みを浮かべるのだった。


 「その意気や良し! ならば、これから先、我らが見るのは刃の鋼が噛み合うことで散る命の火花だけよ。改めて名乗ろう、我が名は刑部……刑部平志朗、栄えある大日本陸軍中将だ」


 「私は工藤正。警視庁警備部第四機動隊所属、巡査部長。錬士六段。そして……『剣の神子』」


 次の瞬間、旧新のそれぞれの時代に生きて価値観が異なる二人の剣士は、図ったかのように言葉を繋いでいく。


 「いざ!」


 叫んだ刑部が膝を曲げて力を貯めた。


 「尋常に!」


 応じた工藤も両足全体の筋肉を膨らませた。


 「勝負!!」


 同一の言葉を全く同時に咆哮の如き大声で宣し、『剣の神子』と『恩賜軍刀組』は、各々手に握る靖国刀を閃かせて地を蹴った。

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