第二章 『剣の神子』
「え~、まあ、つまりですね。先ほど私がこの駐車場で剣を交えていたのは、かつての世界大戦の折、従軍して散華した日本の英霊なのです」
ホットの缶珈琲を美味そうに啜りながら、サービスはエヘヘと得意気に笑い、鼻穴を広げて後頭部を掻いた。封を開けぬ缶珈琲をカイロ変わりして両手の中で転がしながら、工藤はサービスの言葉に耳を傾けている。
「戦時中、軍人の中で反復して口にされた『靖国で会おう』という言葉は、当初は軍人たちの敢闘精神を煽る目的で紡がれた言葉でありました。しかし、余りに多くの軍人が、少しの疑いの心も持たずその言葉を信じ、仲間に対して同語を口にし続けた結果、戦争末期にはその言葉自体が強い力を持ってしまい、多くの英霊たちを一堂に募らせるための一種の呪として機能するようになったのです。
靖国に祀られた英霊たちの多くは、そこに詣でた遺族たちに連れられ、故郷に帰り成仏することができましたが、死後においてさえ武芸の熟達に異常とも言える執念を燃やす英霊たちは、成仏することを拒否し、この世とあの世の狭間に留まってひたすら鍛錬を重ね、これ以上は無いと思い詰めるほどに自身の技の極みを掴むと、黄泉の一歩手前から立ち戻って靖国に祀られた軍人にとって最も縁深き武具である靖国刀を媒体としてこの世に現出します。
ちなみに、この際に使用される刀剣はランダムで、個人宅や博物館から消失して、ここに集まってくるそうです。出現の時期は毎年十一月二日の午後十時から深夜一時前後までのおよそ三時間。
出現人数は、その年に現世への出現を希望する英霊たちの中で腕が立つ者から順に五人。その全員が全力を出し尽くせる対戦相手を熱望しています。放置しておけば、英霊は他者への害意に染まり遂には怨霊と化して、無辜の民に手を掛けようとさえします。
事実、昭和四十年に初めて出現した英霊たちは、職務質問をした警察官を始めとして、三十人以上の警察官と一般民が犠牲となりました。彼らを倒せる手段は、刀剣という武具限定で首をはねるか、頭部や心臓を破壊することだけです。
拳銃などの飛び道具ではいくら霊体を破壊しても討滅の効果を発揮しません。そのことに気付くことができず、徒に犠牲を重ねていた当時の警察当局に声をかけ、自ら英霊たちの相手を買って出たのは、当時、先祖の所縁から壊滅状態だった東京の復興作業のために来日していた異境の赤髪の剣士でした。
彼は文字通り、瞬く間に五人の剣士を倒した後、これからも毎年、このような事態が起きる可能性を示唆しました。近代兵器が通じず、疲労も知らない恐るべき殺戮者をそのまま夜の都心に放置してしまえば、日本の戦後における復興の大きな妨げとなったことでしょう。
いいえ、それどころか、当時の弱体化した国力を鑑みれば、国家滅亡の危機さえも招く可能性があったはずです。日本政府は平伏し、その剣士に対して来年度の助力を懇願しました。太っ腹だったのかもしれません。気の迷いだったのかもしれません。剣士はその要請に応え、自分の一族あるいは自分所属する組織から毎年一人を遣わし、英霊たちの相手を務めさせることを約束してくれました。
それから数十年以上、赤髪の剣士とその一族は約束を守り続け、毎年一人の剣士を遣わし、その者が靖国の英霊たちと剣を交えてきました。遣わされた剣士の腕前は、それは素晴らしく、神域にまで及ぶのではないかと思えるほどのものだったそうです。その名声は遂にはあの世の近辺にまで及ぶと、やがて英霊たちの側で自分たちの相手を務める剣士をこのように呼ぶようになりました。
すなわち、『剣の神子』と」
恐縮そうに冗長な説明をしていたサービスであったが、その最期に至って急に得意満面のニヤけた面になった。本人は決め顔のつもりらしいが、工藤の目から見たそれは、率直に言って阿呆面だ。
つい先ほどまで、命懸けの剣闘に身を投じ、精悍な表情を浮かべていた男と同一人物とは到底思えず、工藤は思わず手の甲で目をこすったほどだ。
「つまり、ええと……サービス君だったね……君が今年の『剣の神子』なのかい?」
「That’s right!!」
サムズ・アップまで決めて、サービスはうんうんと何度も頷いた。よほど誇らしい役目なのか、両の頬を紅潮させた満面の恵比須顔だ。飲み干した缶珈琲の空き缶を一息に握り潰し、サイコロ大の金属塊に変じさせると、手首を軽くスナップさせて自動販売機の横に設置された空き缶入れ専用のボックスに向けて放った。それは紐で引かれたようにボックスの空き缶投入口に吸い込まれていった。
何気に見せた技能だが、工藤は思わず目を白黒させた。
空き缶はスチール製ということもあるが、サービスの位置からボックスまでは十メートル以上の距離があったのだ。単純な握力にしても、投法技術にしても、一発芸として披露するには余りに秀逸過ぎた。
工藤は、この金髪碧眼の少年の正体の不明さに戦慄を覚え、軽い混乱を思考に来たした。
しかし、剣道家として肉体と精神の過酷な鍛錬に日夜勤しみ、警察官としても数々の修羅場を踏んできた工藤の心は復旧が極めて早い。深呼吸した後、自分の置かれた立場の再認識に努める。
自分の名は、工藤正。今年で三九歳になる。職業は警察官。
十一月三日に東京千代田区九段下の日本武道館で開催される日本剣道選手権大会に参加するため、千代田区のホテルに前泊していた。深酒が祟って眠りが浅くなってしまい、一時間程度で目を覚ましてしまった。思いのほか酔いが醒めていたことに軽く驚き、酒に強い体質が恨めしかったことを覚えている。
ベッドの上を何度も転がったが、まぶたは軽いままだった。部屋の冷蔵庫に備え付けられていた酒は全て飲みつくしてしまったし、ホテル内の自動販売機は全て故障しているという酷く面白くない状況だった。
酒を求めて外出した。明日の大会に障るなどとは微塵も考えていなかった。どうでもよくなっていたからだ。
最寄りの飲食店に行こうと歩いていたはずなのに、気が付けば、足は自然と大会の会場へと向かって進んでいた。そして、日本武道館に辿り着くとすぐに、少年剣士と幽霊剣士の果し合いという奇怪この上ない事態に遭遇し、その勝利者となった少年剣士に缶珈琲を奢ってやる始末。
ここまで思い返すと、工藤は百数十円程度とはいえ、まんまと小僧にたかられてしまったことが妙に苦々しく思えてきて、上下の顎を左右に動かして非常に分かり易い悔恨の歯ぎしりを響かせた。
サービスは、どういう訳なのか把握していた工藤の身柄と名前などを口にすることで彼の関心を引くことに成功すると、現況の説明の対価として自動販売機の商品を求めてきたのである。しかも、直接口にしての求めではない。自動販売機に向けてチラリチラリと、物欲しげな視線を向けての卑しい無言の欲求であった。
工藤がサービスの意を汲み取り、苦い顔をしながらも、自動販売機の代金投入口に小銭を叩き入れてやると、少年は「うひょう」と漫画のキャラクターが上げるような喜びの声を上げて商品の選択ボタンに飛びつき、少しだけ悩んだ後、缶珈琲と冷たい炭酸飲料のボタンを同時に押した。
出てきたのは缶珈琲で、サービスはそれを実に美味そうに啜り始めるのであった。余りに美味そうにしているものだから、工藤も食指が動いてしまい、サービスと同じものを買い求めてしまった。缶珈琲は温かく、甘く、そして妙に美味かった。
二人は自動販売機の傍らに置かれたベンチに腰を掛けると、サービスは工藤が欲しているだろう情報をゆっくりと語り始めた。その内容こそ、先にサービスが語った靖国刀の説明であり、『剣の神子』にまつわる話であったのだ。
回想と同時に現況の把握を終えた工藤は、わざとらしい咳払いを一つ、年上としての威厳を意識的に表出した。
「刀は既に四振あるようだね。君の話によれば、残りは一人ということになるのかい?」
自動販売機に立てかけられた靖国刀を一瞥し、工藤はサービスへ尋ねた。
「ええ、そうですね。今年は運が良いようで、今のところ恩賜軍刀組のメンバーが出てきていません。有難いですよ。最後の一人がどのような軍人なのか想像もつきませんが、最期までこの調子で行くと嬉しいですね」
「恩賜軍刀組か……さっきの君の話にもあったな。確か、天皇陛下から軍刀を下賜されたという陸海軍大学校の首席卒業者のことだったかな?」
「いかにもその通りです。当時の軍幹部候補者で、バリバリギンギンのエリート組です。しかしながら、現代の学歴エリートとは訳が違いますよ。人格の基幹に徹底した軍事教育を施され、自分の命には欠片の執着もありません。同朋の命を重んじながら、一度敵と対峙しては厳酷苛烈。
これだけで十分厄介だというのに、彼らが軍に施された教育は多岐に渡ったと言われています。英、仏、露を初めとする数ヵ国語に及ぶ外国語の習練はもちろん、国際的な宗教、文化人類、経済、政治、医薬における高度な知識を与えられました。
そして、もちろん、日本の剣術、柔術、空手、合気、様々な武術の高度な技術も伝授されたそうです。食うに困っていた当時の古武術の師範たちは、家族を養うため、仕方なくではありますが、己の流派の秘技さえ伝えたとも言われています。
つまり、恩賜軍刀組とは、戦時中における最高水準の知識と技術を持った人材であったのです。そんな男たちがですよ、戦争という実戦経験を経て、死後五十年以上の期間にわたり、あの世の一歩手前の世界で武芸の技を磨き、遂には殺気を漲らせてこの世へと舞い戻り、その手に真剣を握るんです。ぞっとしない相手ですよ。
自分で言っていてテンションが下がりますね。今宵ラストの対戦相手が、恩賜軍刀組でないことを改めて切望しますよ」
顔をひきつらせながら、乾いた笑い声を上げるサービス。
工藤にとっては、先ほどサービスが剣を交えていた盛山という名の軍人さえ脅威に値するほどの実力を持つ恐るべき剣士であったというのに、サービスの話によれば恩賜軍刀組の実力は、それを大きく上回るようだった。工藤には想像し難い手練れだ。
恐ろしいと思う。その反面、出来ることならば剣を交えてみたいと熱望する剣道家としての自分が心中にいることを理解して、宮友は驚いた。
「さて、今は二十三時五十二分。今まで四人を相手にしてきた経験則から最後の御役目を果たす時期も間も無くだと思うのですが、その僅かな時間でも沈黙が耐えられないタイプなもんで、工藤さんさえ良ければ、このままおしゃべりを続けさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「おしゃべりか……別に構わないよ。それで、話題はこちらから振っても良いのかい?」
「ええ、もちろん。お任せしますよ。何でも対応しますぜ。政治、経済、国際、宗教、映画、歌謡曲、文学、漫画、服飾、ゴシップ、下ネタ、風俗などなど何でもOKですぜ。イヒヒヒヒヒ」
サービスは両目を細め、発言の終わりに近い単語辺りで、異性が見たら身を引くような卑しい笑い声をもらした。
精悍な面持ちで卓越した剣腕の英霊と一戦を交えて勝利を収め、初対面であるはずの自分の個人情報を把握しており、生粋の日本人であっても簡単には答えられないだろう靖国刀の成り立ちや恩賜軍刀組に関する知識を有している。そうかと思えば、英単語の発音は、容姿に即した見事なものであった。
工藤の最大の関心事は目前の金髪碧眼の少年にある。当然、彼が振る話題は次のようになる。
「君は、一体何者だ?」
工藤の話題が意外だったらしく、サービスは一瞬目を見張ったが、すぐに柔和な笑みを浮かべて驚相をかき消した。
「先ほど見せてくれた卓越した剣術はもちろん、その容姿に似つかわしくない日本文化に対する深い造詣、剣道雑誌に取り上げられたことがあるとはいえ、決してメジャーな存在とはいえない私のような者の情報までも掴んでいる、その情報収集能力……こんな時間に、このような場所で幽霊相手に立ち会いをしている時点で普通の人間ではないと思うが、君の正体を、そして君が所属すると考えられる『剣の神子』という存在を派遣する組織も知っておきたい。その上で……私は、警察官として、これからの行動を決めたい」
工藤はサービスの目を見た後、その少年の右と左の手に素早く視線を送った。それからサービスと自動販売機に立てかけられている日本刀との距離を目算した。手を伸ばして届く距離ではないが、楽観はできない。この少年は手首をくねらせただけで、自在に諸刃の片手剣を消失させたのだ。ならば、現出させるのも容易と考えるのが妥当だ。
工藤の缶珈琲を握る手に少し力が加わり、缶に面着する手の平は、脂汗で不快に濡れた。
「……良いんですかねぇ、そんなことを聞いて? そいつを聞いちまったら、オレは貴方をただで帰す訳にはいかなくなるなぁ……」
サービスは顔を俯け、その表情を隠すと、肩を上下させて不気味に笑った。それからおもむろに右手の手首をこねらせると、まるでジャージの袖口から取り出したように、諸刃の片手剣を突出させ、その柄を握った。
サービスが不穏な空気を発したことを敏感に察して、工藤は半ば反射的に立ち上がると、両膝を大きく曲げて弾かれたように大きく後ろに二度跳んで、サービスとの距離を確保した。名うての剣道家に相応しく実に見事な身のこなしであった。
「先ほど君が話してくれた靖国刀と英霊にまつわる奇譚は、この国の秘匿事項に属する情報ではないのか? そんなものを、あそこまで公開してくれたのは、最初から私をただで帰すつもりなどなかったのだろう?」
「……偶然とはいえ、『剣の神子』と英霊の立会いの目撃者となってしまったのが、運の尽きでしたね。恨むなら自分の運命をと言っても、それは無理な話ですね」
サービスはゆっくりと立ち上がり、左手で片手剣を軽く振った。プンっと大気の破裂音が響いたかと思うと、鋭い刃風が、優に五メートルの距離を置いていたはずの工藤の前髪を揺らした。
眼前の少年が備える信じ難いほど卓越した剣腕を改めて思い知らされ、工藤の背に戦慄が走った。それでも工藤は、全身に闘争の号令を発し、小刻みに震えて役立たずになりかけていた四肢を即座に立て直すと、敵愾心によって今にも火を吹き出しそうな凄まじい目つきで、サービスを睨み付ける。
(敵わずとも、一矢は報いてみせるぞ! 眼球の一つぐらいは道連れにしてやる!)
無手で構える工藤が放つ凄絶な覚悟を感得したのか、サービスが動揺を示した。しかもかなり慌て始めている。気圧されたという風ではない。それは仕掛けた悪戯が自分の予想以上に大きい損害を生み出してしまった際に悪餓鬼が見せる無様な動転ぶりであった。
「あ、あの……工藤さん……ジョ、ジョークです」
「あぁ?」
およそ信じられない言葉を聞いて、工藤は思わず怒りの呻き声を上げていた。
「ごめんなさい、本当にジョーク、冗談なんですよ! 少しドッキリさせてやろうなんて考えた次第でして……本当にすんません! ほら、剣もしまいますから!」
サービスはオロオロとしながら、片手剣を握っていた左手の手首を再びこね回し、煙のように片手剣を消し去った。
「はい、ほら。これで信じてもらえますか? 本当に敵意はないんですよ! そもそもオレの所属している組織は秘密結社でもありませんし、もちろん闇の組織なんかでもありません。そりゃあ、日本人なら誰でも知っているって訳じゃないですし、電話帳に電話番号が乗っている訳ではありませんし、ホーム・ページもありませんけれど、それでも知る人ぞ知るというレベルではありますが、世間に周知されている組織なんですよ」
「……名称を言ってみろ」
警戒色を少しも薄めないまま、工藤は不機嫌な感情が滲んだ刺々しい声音でサービスに命じた。
「実はこう見えて、オレは複数の組織に籍を置いておりまして、それぞれの組織で役割や肩書を持っているんです。今回の案件では、そのうち二つの組織が関っていまして……」
「御託はいいから、早く言え」
「『Earth Cavalier』と『天然宗』です。前者が毎回『剣の神子』を遣わす組織で、後者はこの靖国刀と英霊にまつわる怪奇譚を秘匿・管理している組織です。私は縁あって両方の組織に所属しております。その意味では、今年の『剣の神子』の役割を果たす者としてうってつけだったのかもしれません」
「……『Earth Cavalier』と『天然宗』か。なるほど、『Earth Cavalier』という組織こそ知らないが、『天然宗』ならば知識がある。確か、奈良に総本山を構える禅宗の一つだったな?」
「そうです、そうです、その通り! 山岳信仰の色が濃く、積極的な狩猟こそしないものの、お残しは許さないという名目のもとで背鮮肉や魚介に平然と口を付けることから、異端どころか、そもそも仏教ではないとまで言われている仏教界の弾かれ者です。
でも、怪しげな新興宗教ではありませんよ。歴史自体は鎌倉仏教とほぼ同じですし、天然宗の母体になった組織なんかは平安時代の頃からあったと言われています。また、天然宗の僧籍を持つ坊主が有する特殊技能はとても有益性が高く、天然宗は、時代の中で日本の舵を取る権力組織、例えば徳川幕府や明治政府とも深い繋がりを持ってきました。
そして、それは今も続いています。私は、自慢ではありませんが、そんな組織のトップ、大僧正の直弟子です。幼少のころから命の大切さとそれを奪うことの愚かしさを骨の髄にまで叩き込まれてきました。そんなオレがどうして工藤さんの命を狙うことができましょうか!?」
サービスによる必死の弁解と釈明であった。少年の表情に濃厚な焦りと真摯な反省の色彩を明確に見て取ることができた工藤は、警戒によってすっかり凝り固まっていた心をゆっくりと解き始めていたが、それでも用心は皆無とまではなっていない。
「さっきも聞いたが、君が先ほど話した内容は国家の秘密、または自分が属する組織の秘密ではないのか? そうであれば、その事象の目撃者に対してわざわざ事情を説明したのは何故だ?」
「必要だと思ったからです」
「必要? 何のために? 私はたまたまここを通りかかっただけの男なんだぞ?」
「いいえ。たまたま通りかかることなんてあり得ません。本日この時に限りのことではありますが、日本武道館周辺に単なる散歩者が立ち入る余地はありません」
「……どういうことだ?」
「大切な試合を明日に控えながら、あなたが夜更けに外出する気になったこと。そのコースに明日の大会の会場である日本武道館を選んだこと。そして『剣の神子』と英霊との戦いを目撃して、私と会話をしようと思ったこと。それらは全て偶然ではなく必然です」
「待て。おい待ってくれ。話がまるで見えんぞ。運命論なんか持ち出すなよ。私はそういうものは一切信じていない……そもそも私が外出した目的は……」
「あなたも『剣の神子』です」
サービスは工藤の言葉を断ち切るように言い放った。その言葉の意味が工藤の耳を通り脳へと届き、理解されるまで、たっぷり五秒の時間を要した。
ようやく唖然とする表情を顔面に作り始めたのを見計らい、サービスは静かな口調で、しかし確信を持った固く強い声で、
「あなたも『剣の神子』です」
先言を繰り返すのだった。
工藤の注目と傾聴が向けられていることを認識し、サービスは言葉を継いでいく。
「あなたが『剣の神子』でなければ、今夜の日本武道館には近付こうという意思さえ持つことはできなかったはずです。私は『Earth Cavalier』より遣わされた従来の『剣の神子』ですが、時折、この土地自体が、その役割を担うべき人間を選出することがあるそうです。
初代の『剣の神子』がそうであったように。私はですね工藤さん、貴方こそがそれではないかと思っています。そうであれば、工藤さんは私より正当な資格を持つ『剣の神子』だと言えます。それ故に、私は予備知識として、靖国刀と『剣の神子』についての説明をさせて頂きました。
その最後で下らん悪戯心が働いてしまい、貴方を驚かせ、惑わせてしまったことは改めて謝罪いたします。本当に、申し訳ありませんでした」
サービスは直立の姿勢から深々と頭を下げた。その姿勢の美しさと誠の謝意が込められた詫びの言葉に心を打たれ、工藤は後頭部を掻き毟りながら、腹腔にたまっていた不機嫌な感情を息と一緒に吐き出した。それから、頭を下げたままのサービスに無造作な足取りでツカツカと歩み寄ると、強く握り固めた右の拳骨を少年の頭に落とした。
痛々しい打撃音が響き、サービスは頭を抱えてその場に蹲った。
「大人をからかった罰だ。これで許してやる」
「うう、痛ぇよ……だけど、ありがとうございます」
ゆっくりと立ち上がったサービスはまだ頭を抱えており、すっかりしょぼくれていた。分かり易い反省の姿勢である。
工藤は思わず苦笑した。
「まぁ、こちらも子供の冗談に気が付けなかったという責もある。さっきも言った通り、今の拳骨でチャラにしようじゃないか。それで、私に靖国刀にまつわる奇怪な話をした本当の理由は何だい?」
腕を組み、やや憮然として尋ねる工藤に対して、サービスは怪訝な表情で首を傾けた。
「は? いや、それは既にお話いたしましたが……」
「あれこそ冗談だろ?」
「いいえ、違います。確信を持って申し上げました。今この時間、ここにいるということは、少なからず今回の案件に関わる使命を帯びているはずなんです」
「おいおい、待ってくれよ。私に君のように真剣を持って英霊たちと闘えとでも言うのかい? 確か、後一人出てくる予定だったね?」
「いいえ。その相手はオレが務めます。仮に自分が斃れたとしても、先方はそれで満足してくれるはずです」
「じゃあ、私の役割とは何だい?」
「現時点では、皆目見当がつきません」
サービスは申し訳なさそうに首を振った。
「しかし、何かあるはずです。しかも、遺憾ながら……それは恐らく安全が保障されたものではないと思います」
工藤のこのときの正直な思いは「勘弁してくれ」という嘆きであったが、自分より一回り近く歳が離れているだろう少年が、人知れず、市民の命と社会の安寧を護るために今まで四人もの英霊を打破し、更にこれから出現が予定されている英霊に対しても命を懸けて立ち向かおうとしているのだ。工藤は剣道家である以前に一人の警察官として、自分の悲運ばかりを嘆くことはできなかった。
だが、それにしてもと、工藤は思う。
「君は何故、そこまで強い確信を抱くことができるんだい? 私がここに来たのは本当に偶然なのかもしれないんだぞ。土地の意思というものが、君にはそんなにもハッキリと理解できるのかい?」
サービスはもげるばかりの勢いで、首を横に振った。
「まさか、まさかです。僧正クラスなら話は別ですが、私程度では、土地の意思を汲み取りそれ理解することなど到底出来ることではありません。工藤さんの言う確信というものを私が抱くことができた理由は、ズバリ、あそこにあるのです」
そう言って、サービスはピシリと、右手の人差し指で日本武道館を指し示した。
「現在、武道館の中心には天然宗における私の兄弟子が鎮座し、『剣の神子』と英霊との決闘の現場を堅守してくれています。兄弟子の名は、森綱。大僧正の一番弟子で、天然宗の次代を担う逸材です。オレにとって全幅の信頼が置ける人物の一人です」
自分が信じられる人間の仕事だからミスは無いという考えは、偏見に近い思い込みではないかと、工藤は考えたが、敢えて口にはしなかった。するとサービスは、工藤の微妙な表情の変化からその考えを敏感に察し、苦笑してから急いで言葉を繋げる。
「いや、工藤さんの仰りたいことは分かりますよ。どんな人間であれ、必ずミスはします。しかし、技術が熟達していれば、失敗の頻度を確実に低下させることができます。
今回、兄弟子の森綱が用いた技は、意思と精神力を物理エネルギーにまで昇華させた法力というものを用いた【天然宗正理結界法・壁念】の一つ【隔離遮断然様ノ壁】というものです。これは術者が指定した区域におわす鎮守神の御意思と御力を借りて構成される特殊な不可視の壁です。
一度展開されると、力を拝借した鎮守神が認許した者以外の存在を一歩たりとも結界内へ立ち入らせない……と言うより、立ち入る意思を持たせないという、人の無意識にまで働きかけるとんでもない法術です。
私などではきっとこの先百年の修行を重ねても成功が覚束ないだろう妙技ですが、森綱はそれをまるで息をするかのように行えます。もちろん、仏ではない人の身ですのでミスは犯しますが、その頻度は十万回休むことなく繰り返してようやく一つあるかどうかという程度です。
ここまで腕が確実なプロフェッショナルの仕事ならば、特異な事態が生じた場合、失敗した可能性を検討するよりも、成功していながらそこに例外が生じた可能性を検討した方がずっと合理的です」
「そこで、君は、私をその何とかの壁の例外的な存在だと思う訳か?」
「はい」
詳細な説明をされた上、少しばかりの皮肉を交えた質問に対して真摯に断言されてしまっては、工藤としては最早「ふむ」と呟き頷くしかない。むしろ、ひいき目で見ても十代後半と思しき若造のくせに随分と可愛げのない合理的な思考を展開できるものだと、感心してしまったほどだ。
「工藤さんは兄弟子が展開した結界壁を通過できる要件を備えた人物であると、私は強く確信しています」
依然と疑心を抱く工藤に対して、サービスは畳み掛けてくる。
「私が兄弟子から今回聞いた話では、九段下の土地で展開された【隔離遮断然様ノ壁】に足を踏み入れることができる人物の要件は三つとのことです。一つ目は日本武道館に縁の深い人物であること、二つ目は剣の腕が立つこと、そして三つ目は、この土地の真の主である鎮守神が求めている人物であること。
二つ目の要件までは見事に工藤さんに当て嵌まっています。三つ目の要件についても、工藤さんが今夜に限って日本武道館に足を運ばれたことがそうなのではないかと考えています。きっと貴方は呼び込まれたのです。無意識さえも操られて。鎮守神に……この土地に」
「ふむ」と、工藤はまた頷いてしまった。
この少年はやはり只者ではない。工藤は心中で感嘆の呻きを漏らした。
少年は先ほど缶珈琲を飲みながら交わしていた何気ない会話の内容をしっかりと記憶していただけでなく、収集した情報の解析まで進めていたのだ。たかが十代の若造が、初対面の人間相手にここまで冷静に頭を働かせることができるものなのか。一流の剣士は剣碗が卓越していることはもちろん、洞察力と判断力など思考に関する能力もまた特化しているというが、この少年も多分に漏れないのだろう。
およそ二回り近く歳が離れているであろう相手に、しかも一日に二度も舌を巻くことになろうとは実に新鮮な体験だった。そのことに劣等感も敗北感も覚えなかったのは不思議だが、妙に快かった。
そんな工藤の複雑な想いを知っているのかいないのか、サービスは呑気顔で上着の袖をめくり、ゴムバンド式であるものの、素晴らしいラグジュアリー感を漂わせるサバイバル腕時計のデシタル表示を確認する。
「おやまぁ、そろそろ二十分経つけれど、妙だな? 最後の英霊が現れる気配が無いぞ。これってもしかしたら、これで終わりなのかな。だったら万々歳だぜ」
サービスは緊迫感も締りも無い阿呆面で、「えへへへへ」などと嬉しそうに軽い笑みを漏らしていたが、陽が沈むように笑いを引っ込め、代わって冷たい澄まし顔が顕在した。
敵意を向けられた訳ではないのに、その凄まじい変貌ぶりに工藤の心が震えた。
「そんな甘く考えていると、足元をすくわれますね。私の師匠はいずれも性根がひん曲がった曲者揃いですので、弟子に負わせる課題はいつだって困難苦難危難目白押しの難題ばかりなのです。今回に限って例外ということは、まずありえないでしょう。
工藤さんの登場といい、最後の英霊の出現が遅れていることといい、例年にはない事態が起きようとしているのかもしれません。釈迦に説法となり恐縮ですが、工藤さんにおかれましては、これから先は油断大敵の心構えを維持してください。それと……」
サービスは言葉途中で工藤を、先程、缶珈琲を買ってもらった自動販売機へと誘った。もちろん、目当ては新しい飲み物などではない。サービスがそこに立てかけていた得物‐四振の靖国刀である。サービスその内の一振‐盛山が振るっていた靖国刀を手に取った。
「これから先、何が起きるか分かりません。もちろん、前面には私が立ちますが、工藤さんもご自身の身を守るために、これをお持ち下さい」
そう言って、サービスは工藤へ靖国刀を差し出すのだった。
自分の身は自分で守る。戦場における常識だろうが、ここは国際的にも平和の代名詞と呼べる日本の、しかも首都の中心地だ。幽的とはいえ何者かを斬り倒すために武器を手にすることは、やはり凄絶な覚悟が求められる。
工藤はゴクリと固唾を呑み、サービスから差し出された靖国刀を両手で受け取った。
日本剣道型の稽古のために真剣と重量が大して変わらない居合刀を手にする機会は今まで山ほどあったが、これほどまでに『重い』刀を手にしたことは無かった。手どころか、足も胴も震えている。物理的な重量など問題ではない。手渡された一刀が、これから自身にもたらすかもしれない破滅の予感に対して工藤の全身が震撼しているのだ。
「唐突に覚悟を固めて頂くことになり恐縮です」
言葉の割に、工藤を見つめるサービスの視線には憐憫の情など欠片も無かった。むしろ、当然の事を求める冷厳な眼差しの光がそこにはあった。
しかし、これが却って工藤にとっての発奮材となった。
「舐めるな。私は小僧に心配されるほど貧弱な男ではない」
工藤はキッとサービスを睨み付け、靖国刀を手に近くのベンチへ荒々しく腰を落とし、黙然と腕を組んだ。暴力団の構成員さえ怯んでしまいそうな気迫を正面から浴びながら、それでも、サービスは快さげに微笑むと、こちらは静かに工藤の隣に腰を掛けた。
「ときに工藤さん、人を斬ったことはありますか?」
余りに素っ頓狂な質問に、工藤は両目を見開き、顔を苦々しく歪めた。
「ある訳ないだろ、私は警察官だぞ!」
「そりゃそうですね。いや、ここで貴方から『あるぞ。週一の辻斬りが趣味だ』なんて言われても、こっちとしても困りますからね。良かった、良かった。じゃあ、野犬を斬ったことは? 熊とかの野生動物でも良いですけれど?」
「無いよ。私は犬が大好きだし、山籠もりもしたことはない」
「左様で……じゃあ、鳥や豚、あるいは牛なんかの家畜を屠殺して捌いたことは?」
「それも無い……肉はスーパーなどの店で買うだけだ」
工藤は段々とサービスが発する質問の意図を察し始めていた。
「うん、なるほど。実はですね、工藤さん。私は天然宗の修行の一環として、魚や家畜を随分と捌いてきたんですけれど、その……英霊の体を断つ感触というのは、実際の肉を断つそれとあまり違いがありません。もしかするとですが、今後の展開によっては、工藤さんの剣道人生にある種の陰を落とす可能性があります」
サービスならではの思い遣りの発露なのだろうが、工藤にとっては正直、余計なお世話というものだった。
「気遣いは要らない。真剣を受け取った時点で、私なりの覚悟は固めている。何より……私の剣道人生などそれほど価値があるものではない!」
工藤は舌打ちした。余計なことまで口走ってしまったからだ。漏らすべきではない本音にも関わらず、漏れた。修羅場を目前として、やはり心中が穏やかではないらしい。投げやりな発言に追及を受けることを避けたい工藤としては、別の話題に振ろうと頭を働かせたが、それが思い浮かぶ前に、
「井上源七郎の事件が原因ですか?」
サービスの口から工藤が抱く苦悩の核心とも言える人物の名が言い放たれた。
「あ……え……ちが……なぜ……」
頭の回転の速い小僧だと認識はしていたが、超常の力により心の深奥までも看破された気がして、工藤はサービスという名の少年に驚きを通り越して不気味さを感じた。
サービスは横目で引きつりっぱなしの工藤の顔を覗き、苦笑を浮かべてから、ばつが悪そうにネタばらしを始める。
「学生でも新聞ぐらいには目を通しますよ。今朝の明星新聞の社会面に、井上源七郎の事件が載っていましたね。とても痛ましい事件です。あの事件を見て、ショックを受けなかった剣道家はまずいないでしょう。
学生時代から多くの実績を残してきた剣道家、しかも警察官だった男に、大量殺人の容疑が掛かったことから、テレビのワイド・ショーなんかでは随分とセンセーショナルに扱っていましたね。
コメンテーターっていいましたっけ? 物知り顔の自称インテリジェンス共が、事件の背景や動機について無責任な推論を糞のようにひり出した挙句、日本武道の存在意義について否定的な言及までしていましたね。何でも、今回のような事件の再発を防止するためには、剣道を高校などの教育のカリキュラムから外すばかりでなく、それ自体を日本から根絶するべきだと。
剣道は柔道と異なり、刃物を使い、人を殺害するために特化した技術であり、日本が戦国時代から引きずる忌まわしき因習だとも。過激な意見を述べて大衆の注目を浴びたいという計算があったかもしれませんが、それを差し引いても、噴飯もののコメントでしたね。あいつらは、まともな学校教育を受けてきたんでしょうかね?」
サービスの言うテレビ番組は工藤も見た。いつもの工藤ならば、例え暇を持て余していたとしてもテレビに映さない番組だが、今回ばかりはそうはいかなかった。
井上に掛けられた殺人容疑の数とその陰惨な内容を解明されればされるほど、工藤は胸の奥で思考が鈍るほどの鈍痛を覚えた。謂れの無い痛みのはずであったが、学生時代から続く井上との関係を思い返すと、どうしても井上が犯したと言われる犯罪の一因に自分を含めて考えてしまうのだ。それは下らない感傷だと言う者もいるだろうが、そうと分かっていながら、どうしても払拭することはできなかった。
工藤が深く思い込んでいる内も、サービスは延々とテレビ番組のワイド・ショーの批判を続けており、その矛先はいよいよ日本のマス・メディアの報道方針に向かい始めた。顔を紅潮させ、口角からは飛沫をまき散らし、ときに片腕をオーオーと頭上に掲げながら、段々と激昂の激しさを増していった。
日本武道界が暴力犯罪者の温床の如く表現されたことに、相当腹を立てているようで、その憤りは激しく、何よりとても真摯なものだった。傍らに感情を昂ぶらせる人間がいた場合、それを眺めている側は、心情の熱を奪われたように妙に心が落ち着くことがある。今の工藤が正にそれであった。
「サービス君、君は随分と日本剣道に思い入れがあるようだね?」
「もちろん!」
サービスは両手をパンと叩き合わせ、深く首肯した。
「ご存知かと存じますが、日本剣道は、古武道の剣術を起源として江戸時代に日本全国に広まった武道です。確かに剣を振るう技術は人を殺傷し得るものですが、剣道は剣術と違い、剣技を磨く稽古を続け、心身を鍛錬し、もって人間形成を目指す高尚な理念を掲げる武の道です。
時代劇や漫画程度でしか剣を知らない輩が、竹刀を握ったことも無い輩が、易々とその要否を語って良いものではありません。連綿と技術を繋げてきた先達の苦労に想像を及ぼすことができない馬鹿共なんぞに、そんな資格など絶対に無い! あってたまるか!」
拳を強く握り固め、奥歯をきつく噛みしめ、サービスは吐き捨てるように叫んだ。
サービスの感情は怒りを通り越して、すでに憎悪にまで近づきつつあるようだった。
これから最後の修羅場が控えているのだからこのまま頭に血を昇らせてはまずいと、工藤はサービスを宥めようと試みる。
「まぁ、そのなんだ……彼らも仕事な訳だから……」
「今、何と仰いました!?」
工藤に振り返ったその顔は、金髪碧眼の夜叉だった。
「仕事ならば、なおさら自分の発言に責任を持つ必要があるのです! よって弁護は不要。現代における日本剣道の第一人者が何という弱気ですか!?」
「落ち着け、少年」
「闘うべきときに心穏やかに構えていられるものですか。怒りを腹に落として弓を引き、剣を抜き、槍をしごくのです! テレビ局の連中も、日本剣道界屈指の剣士が猛々しく抗議に来たとなれば、背筋を凍らせることでしょう!」
乗り乗りのサービスに反比例して、工藤の意気は低い。いちいちテレビ番組の内容に目くじらを立てて抗議活動などできるものかという考えもあるのだろうが、この消極的な姿勢はどうも別の心因に由来するものであるようだった。
「日本剣道の第一人者に剣道界屈指の剣士か……大それた肩書だな」
溜息交じりに工藤は呟く。
「日本剣道選手権二連覇を果たし、今年も優勝候補筆頭に挙げられている貴方に相応しくなければ、一体誰が相応しいのですか?」
不思議そうにサービスは尋ねた。
「…………」
「間違っても、井上は相応しくないですよ。天が許そうと、オレが許さん」
少しだけ驚いた表情をしてから、工藤は笑ってくれた。
「安心してくれ。あれほど凶悪な罪を犯した男を、そこまで高く評価はしていないよ……だが、考えてしまうんだ。学生時代から百年に一度の剣才に恵まれた男として栄光の道を歩いてきた男が何故あんな真似をしてしまったのだろうか、とね……」
工藤は前を向いたまま、声だけをサービスに向けてくる。
「なぁサービス君……君はかなりの情報通らしいが、私と井上の学生時代からの因縁は知っているのかい?」
「因縁ですか? いいえ、そこまでのことは知りません。私が知っていることと言ったら、せいぜいが中学、高校、大学の公式戦で剣を交えたということぐらいです」
「そんなことを知っているだけで呆れるよ。まぁ因縁といっても、私が勝手にそう思っているだけの腐れ縁だから、君が知らないのは無理も無い。ときに君は井上と私との学生時代の戦績は知っているかい?」
サービスの目が泳いだ。
「えーと……惜敗だったと……記憶しています」
「おいおい、変な所で遠慮する奴だな。八戦八敗だよ。中学で三回、高校で四回、大学で一回。オール二本負け。試合開始から一分以内のね。せめて完敗と言いたいところだけれど、あれらは全て惨敗だったな。悔しかったな。負けたその日は夜も眠れなかった。私は井上と同じ世代でね。少年時代に読んでいたマンガ雑誌の影響もあったものか、彼を一方的にライバル視していたなぁ」
淡々とした口調で工藤は述懐し、サービスは黙って耳を傾けた。
「剣道は中学に入ってから始めたんだ。それまでは少年野球をやっていたんだ。誉れ高きベンチ・ウォーマーだったがね。時代劇が大好きだったから、竹刀や木刀を持つこと自体がとても楽しかった。部活が終わって家に帰った後も、夕飯まで素振りして、夕飯食べた後も素振りしたもんだ。正直、野球よりずっと楽しくてね。何で小学校の時からしていなかったのかと、後悔と言うより過去の自分を不思議に思ったものだよ」
当時のことを思い出してか、工藤はクツクツと子供のように素朴な笑みを浮かべた。
「稽古の量にはかなりの自信があったんだが、一向に強くなれなかった。レギュラー選抜のために行われた部内の総当たり戦でもほとんど結果を残せなくてね。全敗という記録もそれほど珍しくなかったよ。結局、中学の三年間で団体戦に出場できたのは、引退前に記念として出場させてもらった大会だけだった……一回戦負けだったけれどね。いやまぁ、散々な部活動の思い出だよ。彼女もできなかったしね」
クスリとサービスは笑みを口端から漏らした。
「でも、剣道は止められなかったわけですね?」
「ああ、うん。きっと下手の横好きというものだ。高校に入るや否や、部の勧誘活動も待たずに入部届を剣道部に提出した。竹刀を振り回すことが楽しくて仕方が無かった。稽古は楽しく、試合も面白かった。全然上達しなかったがね。またもレギュラーにはなれなかったが、どういう訳か、高校二年の秋に部長になっていた。信じられるかい? 補欠なのに部長なんだ。個人戦以外は全く試合に出られなかったけれど、チーム自体はなかなか強くてね。全国大会にも出場できたほどさ。高校は中学以上に楽しい剣道をやれたよ。もっとも、ここでも彼女はできなかったがね」
工藤は肩を竦めて、再び子供のような笑みを浮かべた。
「大学は推薦で入ったんですよね?」
「本当に何なんだ君は? 何でそんなことまで知っている?」
「情報収集の方法は常にリアルタイムで行っています。その方法は機密情報なので秘匿します。ただ、私のビジネスの師匠が教えてくれました。曰く『情報を制する者は全てを制する』とのことです」
「剣士であり、僧侶であり、ビジネスマンだと? 君はいよいよ不思議な少年だな。まぁいいさ。君の言う通りだ。大学には剣道の推薦で入ったよ。正直、何ら戦績を残していない私なんかが何故と思ったよ。しかしまぁ、受験勉強しなくていいんだから、正直しめたと思ったね。剣道は変わらず好きだったから、同級生が受験勉強で悲鳴を上げている間、ずっと街の道場で竹刀を振っていたよ。
そうして、大学に入ってからも竹刀を振った。全国の猛者が集まってくる強豪校でね、バラ色のキャンパス・ライフなど夢のまた夢。血と汗と筋肉と根性と酒に彩られたどどめ色の四年間だった。
ここでも大した戦績は残せなかったのに何故かまた部長になっていたよ……ああ、でもね、今までと違ったこともあったな。団体戦のレギュラーになれたんだ。中堅だった。あのときは嬉しかったなぁ。本当に嬉しかった。仲間たちが盛大に祝ってくれたことは私の最も輝かしい思い出の一つだ。
卒業して社会人になっても剣道を中心とする生活を送りたいと思う一方で、実家は決して裕福ではなかったから安定した職にも就きたかった。剣道の稽古を生活の一環とすることに理解があって安定した職場と言えば、想像がつくだろう?
そう、警察官や消防官、あるいは自衛隊だ。第一希望は警察官だったから、早速試験を受けたところ、何とかパスできたよ。大学時代に剣道部で励んでいたことが採用審査の際に大きな後押しになったことを知ったのは随分後になってからだ。ああ、ちなみに大学時代も彼女はいなかった」
「剣に生きる男に女など不要でしょう」
「君はそれでいいのか?」
「もちろん。オレは超が付くほどの硬派ですから」
そう言いながら、サービスの顔は苦虫を百匹程度まとめて噛み潰したかのように、苦々しく歪んでいた。それどころか「ムキムキはもうイヤだ……ムチムチがいい」などと下品な本音を小言で漏らしている。
やはりこの少年もむさ苦しい男たちの汗の中で生きてきた輩かと、工藤は深い親和と憐憫の情を抱いた。
「社会人になってからですよね? 剣道界でメキメキと頭角を現し始めたのは」
「うん? ああ、そうだね。推薦を受けて初出場した全国警察剣道選手権大会で準優勝できたのを皮切りに、全国の主だった剣道大会でやたらと入賞できるようになってね。全く不思議なものだよ。あれほど勝てなかった剣道の試合なのに、気が付くと一本を取っているんだよ。学生時代から付き合いのある警察の同僚や先輩が言うには、ようやく技術が精神に追いついたということらしいんだが、今もよく分からんよ。そうして勝ち始めた頃かな、井上が私を危険視するようになったのは」
「井上は貴方のことを覚えていましたか?」
「いいや。中学、高校は仕方ないにしても、大学時代の私も知らなかったようだ。彼にとっては突然現れた栄光への障壁だったのかしもしれん。彼も警察官だったから、出場する大会が私と重なることがしばしばで、トーナメントでは準決勝や決勝などの上位入賞者を決める場で剣を交える機会が多かった。何度も負けたが……驚くべきことにポツポツと勝ちを拾う試合も出始めた。
子供のころから、別次元の天才と思っていた剣士と互角に闘うことができるようになり、私はいよいよ剣が面白くなり、朝な昼な夕なに剣を振った。正気を疑うと周囲の人間からは苦笑交じりに言われたよ。
深夜の居残り稽古の途中で気絶し、そのまま道場の床に転がり朝を迎えるということが一週間の内三、四度普通にあった。そうして、私はついに念願の全日本剣道選手権大会への切符を手に入れた」
「井上は、確か貴方が参戦するまでに五回出場していましたね?」
「ああ、そうだ。そしてその全てで準優勝という快挙を成し遂げている。現代剣道において歴史に残すべき輝かしい戦績だと言える。君はどう思う?」
「戦績に対する評価については工藤さんと同じ意見です。けれど、私が井上ならば、悔やむ点が残ることは否めません。優勝を心の底から望んでいるでしょうから」
サービスの考えは工藤も同様であったらしく、重々しく頷いた。
「君が見たワイド・ショーでコメンテーターが言っていたね。井上が凶行に及んだ一つの原因に準優勝を重ね過ぎたことによるフラストレーションがどうのこうのと……まぁ、いつもなら、何言ってやがると、気にも留めなかったはずなのに、そのときばかりは心が乱れたよ。
私が全日本剣道選手権大会で二連覇を果たしたときのことだ。喜びを抑えきれないまま試合場の傍らに設置されている控え処で面を外した。私の顔は至上の喜びで輝いていたに違いない。
そんな私の目に飛び込んできたのは、同じく面を外したばかりの井上の表情だった。今もハッキリと覚えている。絶望だ。視界も思考も、未来さえも大暗黒に満たされてしまった男の顔……あのとき、井上には縁談があったそうだ。刑事局長の娘との縁談だった。その警察幹部の家は、江戸時代以前から武家の名門として続いている由緒正しき家柄でね。優れた武道家を積極的に家に迎えることをしていた。井上はその候補の一人に挙がっていたんだ。この縁談が成立すれば、井上は警察組織内での出世と剣道家としての大成を約束されたはずだった。
そして、そのための条件が、その年の全日本剣道選手権大会で優勝するか、またはその大会で工藤正という名の選手を負かすことだったんだ。井上は、大会の決勝で私に負けてしまったことで、条件が成就する機会を二つ同時に失うことになってしまった。
私がこのことを知ったのは、井上が八木さんを殺害して失踪したときじゃない。つい最近、何と今日の昼だ。井上が逮捕され、テレビのワイド・ショーで大騒ぎになっていたとき、私の家内……そう、全日本剣道選手権大会で二連覇を果たした後、上司から強く勧められた見合いで結婚し、婿入りした家の義父である工藤雅弘刑事局長から直接電話で聞かされた。
義父は井上と私が娘の婿候補であっことを詳しく話した後で、誇らしそうに言ってくれたよ。『君にして良かった』とね。金槌で頭を殴られるようなショックというものは本当にあるようでな、私は少しだけ理性を失った。
義父の話がまだ途中であったことを知りながら電話を叩き切り、もう一度掛かってくることを恐れて、電話機を床に投げつけてから踏み潰し、徹底的に破壊した。頭を両手で抱え、考えてはいけない、思ってはいけないと自分自身に強く説得を試みたが、駄目だった。無駄だった。どうしても脳裏に浮かぶ言葉を払拭することができなかった。
‐井上の犯行は私のせいだ‐
井上が手にかけた被害者たちの無念を思うと、とても素面ではいられなかった。明日に大切な試合を控えている身でありながら、昼から酒をあおり、夕方には潰れ、深夜に目を覚まし、より強い酒を求めて街を徘徊した……私がここに至るまでの顛末は、こんなものなんだよ。実に情けない話じゃないか、え? 自分でも分かっているんだ。
過剰な妄想により試合前でもともと不安定だった精神が、義父から与えられた望まぬ情報により深い混迷を来たしてしまい、それから逃げたい一心で酒に逃げたんだ。事実を受け止めた上で行なうヤケ酒でさえない。酒飲みとして最低の飲み方だ。厳しい現実を前にした男として許し難い弱腰だ。自分で自分が嫌になるよ……なぁ、サービス君。
君はこれでもまだ、私が……私のような男が、この土地や神様に選ばれた由緒正しい『剣の神子』だと、本当に思うのかい?」




