十七歳・残された日々(8)最後の夏
八月葉月に入った今日から私は、あの暑苦しい制服を脱いで、白いV首の前開きブラウスにピンクのシフォンロングプリーツスカートという軽装でやはり朝早くに家を出ていた。
前期課外は終わったものの、休む間もなく予備校通いというわけだ。
受講するのは朝9時からの難関英語90分と11時からのセンター試験対策数学60分。午後はクーラーの効いた自習室で閉館まで詰めて勉強する計画だった。
ところが。
英語の授業が終わり、教室を出た私を予想外の出来事が待っていた。
真夏の太陽を遮るように、濁った暗いカーキ色の迷彩柄Tシャツを着た守屋君がそこに立っていたのだ。
確かに、特待生試験のBコースに通ったことを彼に報告した時、この授業を受けることは彼に話してはいたし、彼がここの夏季講習を受けることは知っていたけれど。
まさか、彼が私を待っていてくれているなんて……。
私はその事態を把握するのに、たっぷり数秒は要したのだった。
それにしても。
どうして私はここにいるんだろう……。
数学の授業が終わった後、彼は予備校前のセルフカフェで、私の好きなベーグルサンドとアイスラテという軽いお昼をおごってくれた。
それだけでも充分、事件なのに、いくら予備校から歩いていける距離だからと言って何故、彼は私を自宅へ招いたりしてくれたのだろう。
けれど、誘いの言葉をかけられたからと言って、それにのこのこと附いて行ってしまう自分も自分だとつくづく思う。
彼の音楽の趣味なのか、部屋にはテンポのいい軽快な洋楽が響いている。
しかし、耳を澄ませば微かに蝉の鳴き声が聞こえてくる。ここは、街中にしては緑豊かな場所。
一歩外に出れば、じりじりと照り付ける真夏の太陽と、うるさいくらいの蝉の声が全てのような風景だった。
「……退屈?」
彼がふと雑誌から目を離し、私に問いかけた。
「え、ううん。そんなことないけど私……私、男の子の部屋に来るの中学卒業以来かなあ、なんて……」
私はぼんやりと思っていたことを、馬鹿正直にもつい口にしてしまった。
「へえ。じゃあ中学の時は彼氏、いたんだ」
「違うの。中三の卒業間際、仲のいい男女五人組でつるんでててね。春休みに五人で野球観戦や、絵図湖で遊んだりとかして。男子の家にも遊びに行ったりしたのよ、みんなでね」
と、私は言わなくてもいい余計なことを口にしてしまったのかもしれない。
「じゃ、男とつきあったことないの」
と、彼は一言、投じてきたのだ。
とりたて好奇心があるとも思えない声と表情ではあったけれど、私は一瞬、何と答えていいものか言葉に窮してしまった。
「ないこともない、けど」
高一の夏、実に僅かな日々で別れた相手のことを思い出しながら、私は言葉を濁していた。
つきあったといってもおままごとのような他愛ないもので、数の内には入らないとは思う。
しかしだからといって、「つきあったことがない」などと答えたならば、去年の冬のあの出来事が、私のファーストキスだったと彼に白状するようなもの。
それは避けたかった。
何故ということもないが、やはりそんなことは知られたくないことなのだ。
ましてや、海千山千であろう彼には……。
ふと見れば、彼は雑誌を手にしてはいるもののページは広げたまま床の上に放りだし、片膝を立てぼうっと何かを考えているようだ。とっくにCDが終わっていることにも気付いていないのか、動こうともしない。
部屋は再びエアコンがフル回転する音だけが聞こえるだけで、静寂に包まれている。
彼は今、何を考えているのか……。
そんな想いを感じながら、私もまたこの静かな時間を楽しんでいるように思う。
自分が何故、この場所にいるのか未だわからずにいながらも、私にはこの空間、この時間はそう居心地の悪いようには感じない。
最後の夏。
それを私は、今このひとときだけかもしれないにせよ、守屋君と二人で同じ時間ときを共有している……。
巡り合わせの妙を私はしみじみ感じていた。