十七歳・残された日々(2) 十七歳の女として
午前中二時間しか授業がなく、午後からは体育祭の準備に時間があてられている日だった。
朝から私は、廊下ばかりに何度も目を遣っている。
登校してくるはずの彼の姿を探しているのだ。
今日、青団の応援練習に学ランが必要な私は、それを彼から借りようと考えている。
時期的に学ランを着ている生徒は少ない。
彼も最近は白の長袖姿で登校してくるのを、私は知っている。
今日に限って彼が学ランを着てくるとは思えないのに、それでも出来ることなら、彼の学ランを借りたいと私は思う。
そして、八時二十分。
いつものように始業ギリギリに駆け足で二組の廊下の前を通り過ぎる彼の姿を見た時、一瞬、まさかと思った。
彼は黒ずくめの姿をしている。
数日ぶりに、彼は学ランを着てきていた。
***
中庭の木漏れ日の中、彼はいた。
団の仮装演技に使う巨大なマスコットを作っている。
まだ、彼一人しかそこにはいない。
少し時間が早いせいだろうか。
学ランは着ていない。
よれよれの綿シャツを肘まで腕まくりしている。
私は、ゆっくりと彼に近づいていった。
「守屋君」
座っている彼の背後から、彼の名を呼んだ。
ゆっくりと彼は振り返り、そして私を見た。
「神崎さん……」
立ち上がりながらも、無表情なまま私を見ている。
「どうしたの」
静かな声。
低いテノールの……。
進級し、クラスが変わって以来、私は初めて彼の声を聴いていた。
「学ランを、貸してほしいの。今日」
「どうして」
「青団の応援練習に必要なの。……だめ?」
一瞬、間を置いて、「別にいいよ」と、彼は呟いた。
「今、教室に置いてるんだ。ここで待ってろよ。すぐ取ってくるから」
「ごめんね……」
「いいよ」と軽く笑うと、彼は教室へと向かう。
走り出す彼の後ろ姿を私は見つめていた。
守屋君……。
変わらない彼。
無機質なようでいて瞳は、優しい。
時は過ぎる。
あの夜限りの口づけの感触が薄れてゆき、あの夜のことは一夜の冬の夜が魅せた幻の夢だったのではないかとさえ思う。
けれど、彼は私に口づけた。確かに私達は口唇を重ねた……。
それは、私の十七歳の忘れられない、忘れることは出来ない大切な想い出。
「神崎」
学ランを手に帰ってきた彼が、校庭を見つめていた私にそう声をかけた。
「はい。これでいいの?」
「うん、ありがと……。いつ、返したらいい?」
「体育祭が終わるまで持ってていいよ」
「でも」と躊躇った私に、「もう一着持ってるから」と、彼は言った。
「神崎はチアガール、しないのか?」
「うん……。一年の頃は憧れてたけど結局ね。とうとう三年間、やらずじまい」
「やればよかったのに。今年の青の衣装、セーラー襟でさ。かわいいじゃん」
「似合うと思うよ」と、彼は呟いた。
「恥ずかしくってあんな短いスコートはけない」と、思わず本音を口にした私を彼は笑ってみていた。
「─────守屋君」
「何」
「なんでもない。あの、学ランありがと」
私は視線を足下に落とし、
「体育祭終わったらすぐ返すから」
と言い残して、その場を後にした。
彼から遠離りながらも、私の心は彼のことだけで占められてゆく。
守屋君と言葉を交わした。
彼の学ランを借りてしまった……。
彼の学ランを胸に、心が次第に軽くなってゆくのを感じている。
彼は三組で、隣のクラス。
廊下を通り過ぎる時などちょくちょく姿を見る機会はあるとはいえ、やはりクラスが違うというのは淋しい。
三年になって私は初めて、同じクラスだった二年の頃、如何に自分が無意識に彼の姿を目で追っていたかを認識した。
心は冷静だ。
私は、再び自分の気持ちを、彼の存在を客観的に見つめている。
この受験の大事な時期に、自分を見失うわけにはいかない。
私は、二年の時の過ちを二度と繰り返す気はなかった。
けれど。
けれど私は彼を、愛している……。
それはもう誤魔化しようのない事実だった。
十七歳……残された日々。
飛んでみよう、最後に。
今まで翔べなかっただけ。
思い切り飛んでみよう。
受験生である現実を前にして今、私は、十七歳の人間として。
そして、女として。
この瞬間を生きてみたかった。