十七歳・残された日々(11)置き去りにしてゆく想い
「俺……神崎のこと、好きだよ」
不意にぽつりと、彼は呟いた。
その言葉にも私は暫く何の反応も示さなかったけれど、彼の愛撫を感じていた間中、私の脳裏を掠めていたその事実を、おもむろに口にしてみた。
「あなたは。玲美さんを忘れられないでいるだけよ」
それが果たして真実であるのかどうか、私にはわからない。もしかしたら言わない方がいい余計なことを、私は口走ってしまったのかもしれなかった。
「玲美は死んじまった女だよ。……三年も前の夏に」
ややあって、彼は表情のない声でそう答えたけれど、彼はやはり遠い瞳をしているように思えた。
彼と彼女がどうやって知り合い、愛し合うようになって、どんなドラマを演じていたのか、私は知らない。そして、彼がいつ大人になり、どんな風に何人の娘らを愛してきたのか、私には知る術もないことだった。
同じ歳であるのに、彼だけが先に大人になってしまっている。
つまらぬ嫉妬だとわかってはいても、私には彼の過去が気になって仕方がなかった。
私と玲美さんとが違うという、確かな証が欲しい。
それを守屋君に望んだところでどうしようもないことなのに、私はそれを確かめなければ、彼の愛も信じられないような想いに囚われている。
もしかして、私は自分という女に自信がない人間であるのかもしれない。
「守屋君が玲美さんを愛するより前に私のこと、愛してくれていたら……」
あれほど欲していたはずの言葉を、紛れもなく彼の口から聞いていながら、私は何処かでもう何もかも全てが遅いという気がしていた。
ふと視線を上げると、彼の瞳は私を捉えていた。
「やっ……!」
口唇を近づけてきた彼を、私は反射的に押しのけてしまった。
「信じられないの、俺のこと」
「私は身代わりなんかなりたくないっ」
「今、俺が愛しているのは玲美じゃない!」
「だったら。だったら、どうして、今頃になって……」
私は何かが胸に迫ってきて、言葉が継げない。
見つめあう私の脳裏には、一瞬の内に様々な想い出が浮かんで、消えた。
私は……。
複雑な想いが交錯し、私はまだ迷いを残している。
しかし、私は。
結局、自らの手で彼を断ち切った。
「……帰るわ」
彼の胸から身を起こし、呟いた。
傍らのトートバッグを手にして立ち上がろうとする私を見送りながら、彼は私にその言葉を投じてきた。
「神崎が俺に惚れてると思っていたのは、俺の自惚れだったのか」
彼の言葉は乾いている。彼はどんな時であれ冷静さを失わない男であるのかもしれないという想いが、一瞬、胸を過ぎった。歩を進めることもなく、私は言葉を返していた。
「好きよ。きっと、あの秋の日の放課後からずっと……」
なら何故と問う代わりに、彼は私を背後から抱きすくめていた。
「愛してる」
気を昂ぶらせることもなく、淡々と彼はその言葉を口にした。
「どうして。どうして、あの時……私の口唇に触れたあの冬の夜にどうして、そう言ってくれなかったの!!」
あの時、どんなに私は彼の言葉を待っていただろう。それをとうとう最後まで無視してしまったのは、彼。
それは、彼がまだ彼女を愛していたからに他ならない。それほど深く、彼の心を捉えたままこの世を去ってしまった、私と同じ顔を持っていたらしい彼女の面影と、闘う自信が私にはなかった。
あれほど望んでやまなかったものを手に入れながら、私は自らの手で、今まさに訣別しようとしている。
「さよなら……」
そして、私は彼の腕をふりほどく。
振り返ることもせずに私は、最初にして最後になる、その部屋を後にした。
追いかけてはこない彼を、背中で私は感じていた。
門の所まで来て初めて、私は振り返り、静かに彼の家の全景を瞳に焼き付けている。
それは僅かに滲んでぼやけていた。
今の今まで、確かに愛を交わしていた彼の部屋を眺めながら、彼は今どうしていることだろうと思う。追いかけてはくれなかった彼の心中を、私は推し量ろうとしている。
愛していながら去ってしまった自分と、それを追わなまま見過ごしてしまった彼──────
もしかして、負う傷の深さは同じであるのかもしれない。
後悔するのかもしれない。
今ならまだ戻れるのかもしれない……。
そんな身を切られる想いを味わいながらも、私は彼の家から離れていた。
だいぶ陽が傾いている時刻ではあるけれど、外は依然として炎天下の温度を保っていた。蝉はまだ、残る短い命を燃焼するかのように泣き続けている。西の空は真っ赤な夕焼けで彩られている。
ありふれた夏の日の夕暮れだった。
明日もまた、快晴……。
そんなことを思いながら私は、一歩また一歩、彼の家から遠離り、それと同時に、彼への想いを無理にも後ろへと置き去りにしてゆく自分を感じていた。
了
明日は、守屋のスピンオフをお届けします。