なんて素敵な朝
「グーテンモルゲン」と挨拶しようにも
まだ誰もいない早朝のレストラン。
僕だけが窓辺の特等席に座り、
表に広がる一面の雪景色を堪能しているんだ。
コックや給仕人たちはまだまだ起きて来はしない。
雑役にして皿洗いの僕だけが
こうして広いレストランを独り占めにしている。
かくして仕事前の素敵な時間、素敵な朝の
始まり、始まり…
まず保温されたアルミ製の収納ケースから
パンを二つ取り出して…と、
バターとジャムを添え、
自動サイフォンからコーヒーを淹れ、
それを窓辺の特等席にしつらえて…と。
「お早うございます。葉巻などいかがですか?」
「いやいや、シェフじゃあるまいし、僕はこのサムソン、手巻きの紙巻タバコで充分です」
などと一人芝居、おどけて見せる。
休み時間にはいつもここに腰掛けて、葉巻を燻らせているオーナーにしてシェフの、
ミスター・ビッショフを思い浮かべつつ。
彼とその御細君は僕の回生への恩人だ…
「チュン、チュン」
おや、お早う。僕と同じ早起き雀たちが
窓辺に飛び来たっては朝の挨拶をしてくれる。
早朝の金銀ひかりを身にまとい、楽しげに戯れだした。
「チュン、チュン、豪華ですねえ、独り占め」
「チュン、チュン、どこから来なすった」
雀語で僕が答える。
「チュン、へえ、日本から。それはそれは」
挨拶を終えて雀たちは雪原へと散って行った。
ああ、それにしても、
こんな素敵な朝、こんな素敵なひとときを持てるなんて。
そしてこの、夢のような白銀の世界を見れるなんて、少し前の僕が…どうして想像し得ただろうか!?
ここにお世話になるほんの前のこと。
冷気せまる街角で、寒風すさぶプラットフォームで、
僕はリュックを背にして、鼻を噛み差別心を丸出しにする人々に、
反抗の眼差しを込めて、しかし無言のままにひとり寂しく突っ張っていた。
心の中にも寒風が吹きすさび、僕は恐らく、人間の目をしていなかったろう。
手負いの獣のごとし…
しかしそんな僕を温かく迎え入れ、
雇ってくれたオーナー夫妻、使用人たち。
自分の暮しに充ち足りた、心豊かな人たち。
凍った僕の心が解けて行く。
スイス、サンガレー、美しい街、
白銀のウィルドパーク…
人の心を取り戻した僕にとって、
いま与えられているこのひとときは、
永遠と引き換えにしてもいいくらいの、
充ち足りた、新生のひととき。
憎しみも、焦燥も、みんな消えて行く。
例えこのあとまた修羅の巷に戻るとしても、
僕はこのひとときを、この朝を、
決して忘れまい。
充たされる豊かな心が僕にまだあることを、
決して、忘れまい…
「チュン、チュン」
おや、雀たちがまた帰って来た、どうしたの?
え?僕の表情があんまり素敵なんで、
また帰って来ましたって?
それはそれは、ふふふ。
そうだねえ、雀たちよ、僕はようやくこの頃、
幸福の不可思議な術を、君たちの楽しげなわけを、
やっとつかみ始めたところなのさ。
この新生あふれる朝に、神のみ心に沿う喜びを…
(※一九七四年、スイス、サンガレー、ウィルドパークにて)