100文字小説 61-70
【一○○文字小説】六十一
くつ下が見あたらない。それも片っぽだけ。
脱いだのか脱がされたか覚えていないけど、それきりシーツに紛れてしまったのだろう。口を開けて寝てるこの名前も知らない男の下敷になっているのかもしれない。
片足裸足のまま、わたしはブーツを履いた。きのうの雨を吸った靴底が、じゅっと泣いた。
【一○○文字小説】六十二
いつだって、そうだ。ぼくが状況を呑みこむよりも早く、
世界は過ぎ去ってゆく。
「つまり、もう別れたいっていうこと?」
彼女は無表情のまま、それでもはっきりと頷いた。
もう一度、嚙み砕いて考えてみた。
それでも、まだ、うまく呑みこめなかった。
【一○○文字小説】六十三
歩きスマホならぬ、歩き読書だった。彼はハードカバーの小説――本屋で平積みしてあった本だから知っていた――を、顔を塞ぐように開いて、それでいて歩調を弱めることなくぐんぐんと迫ってきたのだ。
「あ、ああっ」
彼の姿に見とれていて避けるのを忘れていた。
【一○○文字小説】六十四
彼女は、俺の親指を挟んでスマホのホームボタンに押し当てた。拇印みたいだ。俺の指紋を読み取って登録した。
「これで、私のスマホは悠斗なしでは使えない。悠斗も浮気なんかできないからね?」
彼女が微笑むと悪魔のような八重歯が見えた。俺は恐ろしい契約書にサインしてしまったのだろうか。
【一○○文字小説】六十五
アイスクリームをもって入る。持ち手だけ浸からないようにしてバスタブに浸かる。子どもの頃からやっている。
「それね、あんたがお風呂入りたがらないから、お父さんがアイスで釣るようになったんだよ」
母の言葉を思い出す。
湯気に包まれて、バニラの滴がはらりとこぼれた。
【一○○文字小説】六十六
「ふざけんじゃねえっての……」
オレは唾を吐き捨てた。
植込みなら迷惑にならないだろうなんて考えながら、やりなれないことをすたもんだから、うまく飛ばずにスニーカーの先に染みをつくった。自業自得すぎて溜息もでない。
結局、オレが悪いんだ。誰も助けてなんかくれやしない。
【一○○文字小説】六十七
「そんな奴、ほっとけばいいさ」
彼ならこう言うだろう、それは正しいだろう、だけど僕には割り切ることができなくて、余計な口出しをして、たぶん、迷惑だったろうなと悔やんで、やっぱり彼の言うとおりだったなと思うけど、雨が降りそうな夜の、坂道を、ペダルを踏み込みよじ上る。
【一○○文字小説】六十八
彼は国家転覆でも企てた重大犯罪人のように晒された。
アルバイト先の商品で悪ふざけした、それが彼の罪だった。
「先生、すみませんでした……」
か細い声で、そう言うと眼の下にクマをつくった顔を膝まで下げた。
卒業式で並んで撮った写真の中の彼とはまるで別人だった。
【一○○文字小説】六十九
崖に落ちそうになっている二人の女を、俺の両手が掴んでいる。右手には痩せて美人の女。左手にはブスで肥った女。
俺は離してしまった……左手のブスを。
本当に、心の底から二人とも助けようと思ったんだ!
嘘じゃない!
ただ俺の左手は彼女の重さに耐えられなかったんだ。
【一○○文字小説】七十
アレから二十年になる。
俺の名前は容疑者の候補に挙がったこともねえ。こんだけ時が経てば風化して捜査もろくにやっちゃいねえだろう。
逃げ切ったんだ、俺は。
明日には娘に赤ん坊が産まれる。初孫だ。これからは安穏な人生を歩ませてもらう。今日は酒が腹に染みるぜ。