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海に漂う残滓

 帆布に包まれたヒューバの遺骸が、ゆっくりと紺碧の海に吸い込まれていく。黒耳長族(ダーク・エルフ)の水夫たちは涙を流しながら、ヒューバの最期を見送っていた。ただ一人、娘のマーサだけは口を真一文字に結んで、父の最期を見届けた。


 マーサの心の奥底には、両親を同時に失いながらも、聖職者(イマーム)として仲間を導く運命を背負うという、揺るぎない意志があるのだろう。俺は少女に対してかける言葉が見つからなかった。その姿を見ているだけで、俺はこれまでの航海で売買してきた黒耳長族(ダーク・エルフ)たちへの贖罪の気持ちばかりが込み上げてくる。その心持ちを言葉にするだけの気力が、俺には既に残っていなかった。


 マグナスは自身の言葉通り、自力で艦に戻ってきた。戻ってきた彼女の翼は、堕天した天人族(セレスティア)の灰色がかったものではなく、まるで炭を水で落としたように、天上人らしい純白へと変わっていた。


「どうでシタカ? 海の神は……倒したのデスカ……?」


「あぁ。お前のおかげだ」


「嗚呼、良かったデス! 何だか周りが光っていて、何が何だか分からなくて……」


「マグナス、お前の翼。それは?」


「え? ええ? これは、どういう事デスカ?」


 マグナスは自らの翼の変化に気付いておらず、相変わらずおどおどとした様子だった。しかし、その身体は確実に天に愛されたものへと生まれ変わったようだった。


「そ、それよりも、船長は……?」


 マグナスは不安気な面持ちで俺に尋ねた。


「マーサが奴にとどめを刺した後、急に気を失って倒れた」


 俺はマグナスと共に船長室に入った。早速、壊れたバルコニーと割れたガラス窓をセバスチャンが掃除している。先程までの戦闘が嘘のように、穏やかになった波の揺れの中で、メアリーは船長室のベッドに横たわっていた。その傍らではラスボーンがテーブルの上にある海図を見下ろしている。


「魔力を連続で使いすぎたようじゃな。直に目覚めるじゃろう」


メアリーの傍らでは、ラスボーンの飼い猫のヘイゼルが掛布の上で丸まっていた。とても戦闘があったとは思えない平和な絵面だった。俺たちはメアリーを起こさないように、そっと海図と羅針盤を眺め、再びサン・ルイスへと舵を切った。



***



『今、なんと……?』


 明らかな驚愕の表情で、サン・ルイスの海軍提督、ガスパール・コエリョは俺たちの報告を聞き終えた。誤った報告を聞いているわけではないことは、レディ・アデレイドが牽引してきた海の神の死骸が物語っている。しかし、それでも提督は俺たちの報告を、真実として受け入れる準備ができていないようだった。小人族(ドワーフ)の提督は白ひげを震わせながら、何度も俺たちに確認してきた。


 いくら確認したところで事実は変わらない。俺たちは海の神を倒したのだ。|俺たちの船長《メアリー』が未だ起きていないままだが、それも時間の問題だろう。俺はメアリーの代わりに、海の神を討ったのだから、黒耳長族(ダーク・エルフ)の駐在を認めるように提督に迫った。


『疑った事は謝罪しよう。君たちから喜ばしい報告を聞けた事も嬉しく思う。しかし――』


 コエリョは通訳と視線を合わせながら、暫し口ごもるような仕草を見せた。


『海の神による問題と、黒耳長族(ダーク・エルフ)の奴隷化に関する課題は、全く別の話題だ』


「何を言うんだ、今更……!」


 俺は怒りを込めて提督を睨みつけた。それでも提督は動じなかった。むしろ、海の神を打倒するような強大な力を持った者たちが、自分の傘下に加わらないことを警戒しているようだった。極東での布教の失敗以降、殊更、奴隷化の話題を慎重に扱っているポルトガル人らしい態度ではあったが、今はそんな事を気にしている場合ではなかった。


「あんたは俺たちを見捨てる気なのか? ここまでやったのに、全員が奴隷に戻ればいいとでも?」


『そこまでは言っていない。君たちに感謝している事は本当だ。消費した軍需品の補給も認めよう。必要な物資があれば、何でも言ってくれ。しかしだ!』


しかし(・・・)だ、と?」


『君たちの戦闘力は危険視されるだろう。サン・ルイスに長く留まる事はできないと考えて欲しい』


「あんたには、血も涙も無いのか?」


 俺の言葉に、今度は提督が憤慨した。


『私はこの要塞を預かる者として、不断の努力を続けている。行政、軍事、経済、どれも欠く事のできない要素だ。それらの均衡を保つ上で、黒耳長族(ダーク・エルフ)の奴隷は必須なのだ。それを捻じ曲げる事は誰であっても許されない。それがここでの法なのだ』


「それなら、最初にそう言えば良かっただろう。期待させておいて、後から俺たちを放逐するような言い分ばかりじゃないか」


 俺が言うと、後ろに立っていたセバスチャンも頷いた。


「提督閣下は、最初から奴隷貿易以外に道は無いとお考えのようです。そういう意味では一貫したご意見をお持ちでしょう。しかし、我々はそれ以上の働きをしたはずです」


『確かに。それは認めよう。……副王陛下の布告によって、海の神を討ち滅ぼした者たちには、金塊のべ十キログラムを贈呈する事が決められている。それ以外に、要塞から軍需品、食糧品を補給してくれて構わない。君たちはそれだけの事を成し遂げたのだから』


 提督が差し出した文書には、副王の布告の内容が記されていた。それは提督の言葉通りの内容だった。金塊十キログラムがあれば、これまでの黒耳長族(ダーク・エルフ)たちの仕入れ(・・・)に使った四百二十オンスの金のうち、八十パーセント近くを回収することになる。最早、黒耳長族(ダーク・エルフ)を奴隷として売る必要は無い。


 しかし、だからこそ、提督は黒耳長族(ダーク・エルフ)の駐留を許可しないのだろう。それだけの金を持った解放奴隷が大人数でやってくれば、サン・ルイスの城下が混乱に見舞われる事は想像に難くない。混乱を避けるためには、俺たちが引き上げる事だけが、彼にとっても街にとっても簡便な解決策に思われるのだろう。


『君たちには本当に申し訳ないが、聞き分けてもらいたい』


「……いざ金をもらって、それでも長居し続けるのは得策ではないように思えますね」


 一航海士に過ぎない俺はどうすることもできなかった。提督の提案は魅力的で、これ以上、諍いを続ける理由にはならないだろう。ここは素直に引き下がって、どこか別の新天地を目指すべきなのかも知れない。しかし、最後にそれを決めるのは船長の役目だった。


 俺とセバスチャンは提督の差し出した文書を受け取り、執務室を後にした。廊下の窓からは、タイル張り街並みが目に入ってくる。露天商の小間使いとして働いているらしい黒耳長族(ダーク・エルフ)の奴隷たちが、いそいそと通りを歩いていく姿が見えた。


「我々は終始、招かれざる客だったようですね」


 セバスチャンが窓際で呟いた。その口元には失望とも落胆とも取れるような、曖昧な表情が浮かんでいた。


「仕方ない。奴隷を売らない奴隷商人なんて、そんな連中がいても邪魔になるだけだ」


「……スネルグレイヴ様はこれで良かったのですか?」


「船長の決めた事だ。俺はそれに従ったまでだ」


 セバスチャンは俺の言葉に納得したように頷いた。


「貴方はやはり、お嬢様が見出した御仁ですね。航海も戦いも、立派にこなしてこられた。そうでありながら謙虚でいらっしゃる。そのように振る舞える者は多くはありません」


「恥ずかしくなるから、やめてくれ」


「確認させていただきますが、決断はお嬢様にお任せして構わないのですね?」


「勿論だ」


 俺たちはレディ・アデレイドに向かって歩き始めた。

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