死
(暗い……誰か……だ、誰か……)
(助けを、呼んでくれ……)
(これ以上、海を漂いたくない……)
(死だ……死が、泳いでいる……)
かつて栄華を極めた艦。勇敢に戦い、散っていった艦。海の神から逃れようと、決死の覚悟で海を渡ろうとした艦。海の神に呑まれた亡霊たちの声が脳裏を過る。
そこにあるのは純粋な死への恐怖と、苦しみから逃れようとする悲痛な願望。地獄から這い登ろうとする魂の声だった。
私はひたすらに神経を尖らせ、艦の声に耳を傾けていた。今では亡霊たちの淀んだ声が耳打ちのように近づいている。私たちの艦は海の神の、すぐ近くまで来ているはずだった。亡霊の声はいよいよ狂気を帯びて、私たちを仲間に加えようとするかの如く語りかけてくる。
(迷い……死ぬ……)
(お前たちもだ……お前たちも、すぐに死ぬ……)
(誰も……死からは、逃れられない……)
(葬列に加わる順番が……前か後か……それだけの違いだ……)
だから――だから、こそ。死が平等だと言うのなら、せめて戦って死ぬべきではないか。たかが一匹の魔獣相手に命を乞いて死ぬなど、どこが人間らしい死に方だろうか。私は亡霊の言葉を聞き取りながら、そして、その言葉が示す意味を、頭から必死に払いのけ続けた。
自分だって無為に死にたくはない。しかし、巨鯨一匹を相手に引き下がれる時は、とうの昔に過ぎ去っている。ヒューバは黒耳長族の、そして娘のマーサのために命を投げ売ったのだ。私たちは彼の命懸けの行動に報いる使命があった。死んでいった仲間のために、その犠牲に応える義務があるのだ。
(地獄で会おう……)
(天国など……ありはしない……)
(死がお前たちを、必ず海に引き込む……)
悍ましい言葉の数々が頭を巡る。私はその声を聞きながら、ただ一つの方角を指し示した。北北東。その方角に、奴がいる。奴を狩る事が、私たちに課せられた唯一の使命だった。
(共に行きましょう。海の神を倒すために)
孤独な艦読みの身体にとって、レディ・アデレイドの声だけが私の拠り所だった。彼女の力強い鼓舞だけが、私の心を癒やした。
「もうすぐか?」
「多分」
「大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
エドが私を気遣って声をかけた。今や、艦読みである私の言葉が羅針盤の針だった。透明化を解除せずに、空を泳いで逃げる巨鯨の姿は簡単には確認できない。距離は近いはずだが、その巨体がどこにいるのか確信には至っていなかった。
「お前の耳に何が聞こえているのかは分からない。だが、今は休んだほうが良い。後は俺たちが探す」
「いいえ、大丈夫よ」
「お嬢様、無理をなさらないでください」
本当は、この苦しみを終わらせたかった。誰にも理解されない能力を与えられ、それでも気力を振り絞ってきたつもりだった。しかし、自分の心が折れかけている事は、自分自身がよく分かっていた。
だが、この苦しみを終わらせるためには、巨鯨に接近する以外に方法は無いのだ。
ただ、奴を倒す事だけ。それだけを目指して、私の身体は立っていた。
周囲で吹き荒れる暴風雨に逆らって、レディ・アデレイドは帆走している。その針路の先で、今まさにハリケーンが巻き起こり始めていた。
「まずいな……針路を変えないと……」
「奴は私たちから逃れようとしている。私たちが追っている事も分かっているはずよ。そうでなければ、乏しい魔力を使ってまでハリケーンなんて引き起こさない」
「それなら、どこに向かえばいい?」
ハリケーンとは異なる方角から、亡霊たちの呼び声が聞こえる。私は震えながらも、針路を西に指示した。
「海の神はハリケーンを陽動に使おうとしている。奴の本体はハリケーンよりも西だわ!」
「本当なのか?」
「それは……」
確信は無かった。しかし、確かめる方法ならまだある。天人族を再び囮に使うのだ。今、考えうる手段はそれだけしか無かった。しかし、既に雑用小船は失われている。
「自力で飛んでいけばよろしいデスカ?」
マグナスが呟くように言った。天人族であれば、翼を使って飛んでいく事も可能であるはずだった。マグナスは船長室を出ると、灰色がかった翼を広げた。彼女の翼に、巨鯨発見のすべてがかかっていた。
「無理するなよ」
「元々、無理な作戦デス。分かっていマシタ」
「……」
「天人族に階段は不要デス。天国まで飛んで行けマスカラ」
そう言うと、マグナスは北の空に向かって飛び立った。マグナスの影は黒雲に向かっていくが、その羽ばたきは辛うじて彼女の身体を支えている頼りないものに見える。彼女を支援するため、その小さな影をレディ・アデレイドの砲列が追っていく。
「砲撃の準備を」
水夫たちが火砲に砲弾を装填する。荒れた天候の下、マグナスの姿だけが小さくなっていく。その時、雨雲を切り裂くように海の神の咆哮が響き渡った。
『GYAAAAAOHHHHH……――』
マグナスの目の前で、雨のカーテンを引き裂いて、海の神の輪郭が空中に浮かび上がる。
(死だ――死がそこにいる……)
亡霊たちのどよめきを消し飛ばし、海の神がその姿を現した。その巨躯と対峙するには、あまりにも天人族の身体は小さすぎた。海の神の咆哮と暴風雨の衝撃とが重なり合い、マグナスを吹き飛ばした。
「ッ撃て!!」
エドの合図と共に、再び火砲が海の神に食らいついた。衝撃と衝撃とかぶつかり合い、周囲の空気を震わせる。
「まだ終わってないぞ!」
ハリケーンがレディ・アデレイドの付近まで迫っていた。帆布と索具がしなり、レディ・アデレイドが大きくバランスを崩すと、主甲板に出ていた水夫たちが荒れ狂う海へと投げ出された。
「畜生!」
海の神は再び黒雲の中へと隠れようとするかのように、雨のカーテンを抜け出ようとしていた。
「誰か! 早く奴にとどめを!」
エドの声が響いた時、マーサが私の腕を引いて、船長室から走り出した。私はマーサのなすがまま、揺れの激しい後甲板に飛び出した。
「マーサ!」
「とどめを刺すのよ! メアリー、貴方の力を貸して!」
ハリケーンに弄ばれるレディ・アデレイドの艦上で、私はマーサの詠唱を確かに聞いていた。それは私がレフリングから教わり、そしてマーサに教えた環境魔法だった。海の神の巨体が黒雲に飲まれるのと同時に黒雲の中で雷鳴が轟き、稲光が周囲を照らし出した。
次の瞬間、海の神の黒雲とマーサの環境魔法が混じり合い、周囲は激しい雷光と轟音に包まれた。マーサは私と海の神、両方の魔力を一度に利用したのだ。その膨大な魔力から生み出された雷は、海の神の生み出した黒雲全体を覆い尽くし、その中に蠢くあらゆる生物に対して、のたうつ蛇のように襲いかかった。
それは文字通り、神の雷だった。
私は雷鳴と同時に、巨躯から黒い煙を巻き上げながら海面へと落下していく、海の神の正体を見た。巨鯨は身体中から血を迸らせ、海面にその身体を打ち付けて果てたようだった。レディ・アデレイドも魔力から解かれたハリケーンの猛威から抜け出し、海面に叩きつけられた。
「やった……やったぞ……!」
「倒した! 奴を倒した!」
「やったんだ!」
私はマーサと手を繋いだまま、水夫たちの歓声を聞きながら後甲板の上で立ち尽くしていた。これで、終わったのか。私たちは、勝ったのか。
「メアリー、私たち……」
私たちは――成し遂げたのか。急に、マーサの声が遠くなったように思えた。次の瞬間、不意に目の前が暗くなり、私の意識はそこで途絶えた。




