恥ずべき真実
マーサの頭上に水飛沫が飛び散る。彼女が気付いた時にはすべてが遅すぎた。荒れ狂う透明な尾ひれが、畳み込むようにマーサとマグナスに襲いかかる。艦上の誰一人として、巨鯨を阻止することができる者はいなかった。
「マーサ!」
ただ一人、ヒューバの叫びだけが主甲板を貫き、彼の詠唱が時間を止めたかのようだった。ヒューバの影がマーサとマグナスの下へと瞬時に飛び、彼らを尾ひれの攻撃から弾き出した。それは彼らを救出すると同時に、ヒューバ自身が彼らの身代わりになることを意味していた。
水夫たちの抵抗も虚しく、再び甲板で怒号が上がり、艦が大きく揺れ動いた。透明な尾ひれがヒューバを直撃し、彼の身体は主甲板の上を飛んだ。
「ぐっ……!」
「ヒューバ!」
尾ひれが海の中へと消えると、私は索具が散らばった甲板上を、倒れたまま動かないヒューバの下に向かって走った。私が船長室から出た時には、海の神の気配は艦から遠ざかりつつあった。どうやら、奴は逃走し始めたようだった。
「ヒューバ……?」
「メ、メアリー……か……」
ヒューバは息も絶え絶えに声を絞り出した。その声をかき消すように、残された黒雲だけがレディ・アデレイドの上に雨水を垂れ流していた。
「は、早く手当を!」
「はい、お嬢様!」
セバスチャンが駆け寄り、すぐに外科魔法を使い始めたが、彼の状態は改善しなかった。思ったように効果を示さない外科魔法に、セバスチャンは焦っているようだった。
「マ、マーサを……呼んでくれ……」
「それ以上、喋らないで。セバスチャン……?」
私の視線の先で、セバスチャンは狼狽えたまま首を横に振った。たとえ私が魔力を補っても、セバスチャン一人の外科魔法では、ヒューバを回復させることは叶わないようだった。私の額を汗が伝った。私は黙って、ヒューバの下へマーサを連れてきた。
「すまない……私はお前たちを……騙していた……」
ヒューバは苦しみながらも語り始めた。マーサはただ呆然としたまま、ヒューバの声に耳を傾けていた。
「妻は病だった……難病で……村で治すことは叶わなかった……」
「どういう事……?」
ヒューバの言葉に、マーサが目を見開いた。
「マーサ……お前に……母親が、生きているという……希望を与えて、やりたかった」
「違う……そんな――」
「……だから……彼女を奴隷として、売ったなどと……私は……」
そこまで喋ると、ヒューバは咳き込んで告白を止めた。
「嘘よ! 母さんは生きてるって。ブラジルに行ったって……」
「……」
「ヒューバ……」
「ブラジルまでの、途上で……彼女は死んだ……」
マーサの眼には涙が浮かんでいた。涙は次々に流れ落ち、少女の顔を濡らした。一方で、ヒューバの眼からは徐々に光が失われつつあった。彼の告白は今際の懺悔そのものだった。
「お前だけでも……生き残れ……」
「嫌よ……」
「聖職者の……役目は……忘れろ……」
「そんな事……できない!」
「お前は、自由だ……何にも縛られ、ない……頼む……最後の……」
その言葉を最後に、ヒューバは息絶えた。黒耳長族の水夫たちにどよめきが広がっていく。これまでの頼りがいある水夫たちの姿が、嘘のように消え去っていくのが分かった。聖職者という指導者を失った者たちは、死の恐怖に怯え始めているようにも見えた。
私は彼らに命じることはできなかった。ここで海の神を追うべきである事は重々承知だった。逃走する
海の神にさらなる致命打を与え、倒すチャンスなのだ。しかし、それでもなお、彼らにレディ・アデレイドを動かし、追跡を命じることはできなかった。彼らに命じる権利を、私は持っていないという感覚が、ヒューバの死によって明らかになったのだった。
私は迷い始めていた。これが彼らの求めていた答えなのか? そこまでして、自由を勝ち取る必要があるのか? 聖職者を失ってなお、彼らは戦うことができるのか?
ヒューバを失った今、黒耳長族たちに死者を蘇らせるだけの魔法の持ち主は残っていなかった。そうなってしまった現状では、これから先、すべての戦いが無謀に思えてきた。
僅かな戦いで、誰かが死ぬ。
私もまた、死の恐怖に思考を縛られつつあった。
だが、その時、私の迷いを断ち切るように、少女の声が凛と響いた。
「海の神を倒さないと……」
「マーサ、貴方は――」
「私も戦う。だから、お願い! 海の神を倒さないと、私たちに自由は無いの! ここで戦わなければ、すべてがまた失われてしまう!」
少女の訴えに、水夫たちは我に返ったように頷いていた。マーサの言葉に呼応するように、黒耳長族たちは戦意を取り戻しつつあるようだった。聖職者の娘もまた聖職者という事なのか、その言葉には彼らだけに通じる力があるように思えた。
しかし、だからと言って戦闘を継続すべきかどうかは別問題だった。最も強力な回復魔法の持ち主を失った私たちに、果たしてこれ以上、戦闘を続けるだけの危険を冒す余裕は無かった。この先に進むためには、死を覚悟してなお、戦い続ける鉄の意志が必要だった。
私が船員たちを振り返った時、その眼にはまだ戦いの火が灯っていた。エド、ラスボーン、パウエル、マグナス、そしてセバスチャン。彼らの眼が語るに、撤退という言葉は無かった。私だけが未だ迷いを捨てきれていなかった。
(やりましょう)
私の頭の中に、レディ・アデレイドの声が響いてきた。
(海の神は魔力を消耗しています。今が打倒するチャンスです)
その声はあくまでも冷静で、そして冷徹だった。ただひたすらに事実を積み上げて獲物を追っていく、狩人の如き思考が、脳裏で声となって響いてくる。レディ・アデレイドには、明確な勝ち筋が見えているかのようだった。気付けば私の思考も、レディ・アデレイドの声に後押しされ、戦闘継続へと傾いていた。
「やりましょう」
「お嬢様……」
「戦うのよ。奴を倒すまで」
セバスチャンが私の目の前で片膝をついた。
「このセバスチャン……身を挺して、命を捧げる所存です」
「セバスチャン……」
「ここで海の神を倒して、散っていった者たちに報いて、黒耳長族を救う事こそ、我々に課せられた使命でありましょう。であれば、グランヴィル家の名誉にかけて、必ず奴めを討ち取りましょう!」
セバスチャンの言葉に奮い立たされたように、船員たちは互いに顔を合わせて頷きあった。誰もがここで引く事など眼中に無い。私も同じだった。これまで航海を共にしてきた仲間と共に、海の神を倒す。それだけだった。そうすることでしか、最早、前には進めないのだ。
「しかし、奴は一体どこへ……?」
「海の神がどこに逃げようとしているのか、聞いてみるわ」
私は艦の声に耳を傾けた。艦上は静まり返り、その答えを待っている。
(海の神は北北東に向かって逃げたようです。相変わらず、透明化しています)
「分かったわ。奴は北北東よ。急いで追いましょう」
レディ・アデレイドの澄んだ声が海の神への道標となる。水夫たちが索具を手繰り、帆を張り直すと、レディ・アデレイドは勢いよく帆走を始めた。海の神へと近づくに連れて、波が高くなり、天候が悪化していく実感があった。天空では渦を巻いた雲が、重たく私たちを見下ろしている。
これが最後の戦いになる。私は武者震いしながら船長室へと戻った。




