持ってけ天人族(セレスティア)
翌日、私たちの艦はいよいよ警備の任務に就いた。警備の僚船は廃船も間近の老朽船で、いてもいなくてもあまり関係無さそうだった。私の艦読みを持ってしても、僚船から声を聞くことは困難だった。僚船は極めて小さな声しか発せず、その時点で心許ないイメージしか持てなかった。
その日は快晴だった。とてもではないが、いきなり海の神が現れ、ハリケーンを巻き起こして竜機を襲うなど考えられない天候だ。レディ・アデレイドと僚船は遠洋に出て、不審な怪物が現れるのをただひたすら待ち続けた。
「何もいませんね」
セバスチャンが甲板に出ていた私に声を掛けてきた。
「このまま何も起こらなければいいのだけれど」
僚船は水平線上の遥か彼方におり、その付近を竜機が飛んでいた。眩い日差しの中で、洋上の牧歌的な風景が広がっている。竜機が襲われないことを祈りながら、私はその様子を望遠鏡で確認した。
「お嬢様、少しお話ししたい事があるのですが」
珍しく、セバスチャンが自分から話題を振ってくる。
「どうしたの?」
「私はずっと、フータ・ジャロン王国の村人を乗せてから思い悩んできました。その事についてお話ししたいのです」
「言ってみて」
私が言うと、セバスチャンは目元を覆っている木製の仮面に指で触れた。
「既にお察しかも知れませんが、私は黒耳長族を良くは思っておりません」
「本当に?」
「……えぇ。私がこのような仮面を付けている理由は、彼らに襲われたからに他なりません。だからこそ、私は彼らを許せないのです」
そう言って、セバスチャンは小さく溜め息をついた。
「そう言っても、貴方は彼らの健康を守ってくれているわ」
「それはお嬢様のご指示だからです。もし他の者であったら、私は真逆の行動を取っていたでしょう」
「貴方は私に尽くしてくれているわ。私にとってはそれで十分。だけど、貴方自身は違うの?」
「それは……」
「貴方は彼らに復讐したい。でも、それが本心なの?」
「……そうかも知れません。私は私の方法を押し付けようとしてきました。水夫の健康を理由にして、彼らに手枷足枷を嵌めさせようとしたり、あわよくば彼らを売るように、お嬢様を諭そうとしました」
「私はそう思っていないわ。貴方は貴方なりの方法で、私をサポートしてきてくれたと思ってる」
私はセバスチャンの手を取った。不意の事だったのか、仮面が顔から外れそうになり、セバスチャンは慌てて顔に仮面を押し付けた。
「私は卑しい者です。このような事を吐露せねば、お嬢様にお許しいただけないと、そう思っていました」
セバスチャンは俯いて呟いた。そこには従僕としての義務と、黒耳長族に対する恨みとか混ざって、耐えきれなくなった思いがあるようだった。
「私の拙い外科魔法をお見せするわけにはいきません。この仮面の下は、お嬢様にもお見せできないのです」
そう言って、セバスチャンは仮面の位置を慎重に元に戻した。許すも許さないも、そんな事は無関係だった。そもそも私は彼に尽くされる立場になってしまっただけで、特段、器の大きい人間でもなかった。
「別に良いわ。でも、貴方を苦しませて、申し訳ないと思っている。貴方はわざわざこんな海の上まで私に付き合ってくれているから」
「それしか取り柄の無い男ですから」
そう言って、セバスチャンは片膝をついた。
(助けてくれ……)
その刹那、私の頭の中を微かな声が過ぎった。
(魔獣だ……)
私が振り返っても、そこには僚船の小さな影があるだけだった。
「どうなさいましたか、お嬢様?」
「何かが……来る……」
私が胸騒ぎを感じながら、僚船の船影を望遠鏡で眺めた。セバスチャンには、エドやラスボーンに対して周囲を警戒するように指示を出す。海の神が出た時。あの時の恐怖が私の心の中を黒く染めた。
「何か様子がおかしい」
甲板の上でエドが声を低くして呟いた。私と同じく僚船の方角を見て、彼は何かを感じ取ったようだった。
「まさか、本当に海の神が来るのかしら?」
「分からない。だが、嫌な予感がする」
予感。エドがそのような言葉を口にするのは初めてだった。あまりにも急なエドの態度の変化に、私は戸惑った。そうしている間にも、背中を悪寒が這い登ってくる気配がして、私は自分の肩を握り締めた。ただの生理現象にすら、何か意味があるのではないかと思えてくる。
しかし、それは単なる気の所為ではなかった。厳しい日差しの中で徐々に黒雲が湧き出し、急激に気温が下がり始めている。明らかに周囲の環境が悪天候へと変化している。間違いない。以前に海の神が現れた時と同じだった。
爆発的な低気圧の発達。それが意味しているのは天候の悪化とハリケーンの出現。その二つが組み合わさり、海の神が現れる前触れとなるのだ。私とエドは大海原を見据えたまま、身を焦がす陽の下で冷や汗をかいていた。本能的な恐怖のみが私の中にあった。
「どうすればいいの?」
私の問いに、エドは無言で首を横に振った。
「逃げるしかない。とにかく、奴が現れたら全速力で逃げるんだ」
じわじわと黒雲が広がっていく。
「竜機と僚船は?」
「そんな事を気にしていられるような相手じゃないだろ」
イオンの臭いが鼻をつく。レディ・アデレイドと僚船の間には、既に盛り上がった黒雲が横たわっている。そこかしこで竜機が奇妙な鳴き声を挙げている。
「竜機が……」
まるでレディ・アデレイドに寄り添うように、竜機が周囲を飛び回っていた。それは、不安に苛まされた幼獣が親を求めて集まってきたかのようにも思えた。
その時、海面がうねり、盛り上がった。海が大きく波打ち、レディ・アデレイドを持ち上げる。
「来るぞ……!」
海面と黒雲を切り裂き、何かが海から上空へと移動したようだった。そこに大量の雨が降り注いでいる。
「ヒューバ! マグナス! 水夫たちに砲撃の準備をさせろ!」
エドが叫ぶ前に、既に黒耳長族の水夫たちは大砲の準備を整えていた。彼らの表情もまた、私たちと同じように不安と恐怖に駆られてはいたが、それでも海の神と対峙する覚悟は決まっているようだった。
私たちの勇気を嘲笑うかのように、海は大時化に変化していた。荒れ狂う海に怯えるのは竜機だけではなかった。だが、それでも人間は微かな意志を振り絞って、それに抗うことを運命づけられているのだ。たとえ、運命の相手が海の神と呼ばれる魔獣であっても。
波飛沫となって大量の海水が入り込んでくる中で、大砲の火薬が湿気って使い物にならなくても、そんなことは魔術の前では無関係だった。砲弾を打ち出すのに必要なのは、黒耳長族の強靭な魔法の火力だけだった。
不意に、上空から雲がレディ・アデレイドに向かって、降りてきた。
(ご令嬢、揺れますよ。しっかり掴まってください)
まるでテーマパークのジェットコースターの注意のように、レディ・アデレイドの冷淡な声が頭の中に響いた。これから何が起こるかは明白だった。
「気をつけろ! 奴が狙っているのは――」
次第に重力が強くなり、私たちは甲板に押し付けられた。水平線が視線の下へと下がっていくのが見える。
「お嬢様、何かに掴まってください! 危険です!」
次の瞬間、私たちは重力から解放されていた。狙われたのは、レディ・アデレイドそのものだった。海の神は巨大な風力によって、レディ・アデレイドを空中高くに持ち上げたのだ。私はセバスチャンに促され、帆柱と索具に掴まった。帆が大きく膨れ上がり、帆柱と繋がれた索具が軋み続けた。一体、どうして奴はレディ・アデレイドを狙ったのだろうか。
私の疑問は、レディ・アデレイドが海面に打ち付けられた衝撃によって中断した。何本かの索具が千切れ飛び、甲板をのたうち回った。こんなことを考えている場合ではないのだが、思った以上に胸が重くて肩に負担がかかる。
「くそっ! 冗談じゃないぞ!」
大量の海水を被りながら、船大工のパウエルが下甲板から飛び出してきた。
「早く攻撃の命令を!」
「分かってるわ! でも、一体何を狙えって言うのよ!」
「それよりも船長室に避難を!」
私はセバスチャンに押されるまま、甲板にいたエドと共に、再び海面が盛り上がる様子を背に船長室へと入った。海面の丘の中央にいるレディ・アデレイドは空中へと放り出されたようだった。重力が再び強くなる。
「そうか……そうだ……」
船長室に入った時、エドが何かに気付いたようだった。
「一体何?」
「奴の狙いだ!」
エドは船首を指差して叫んだ。
「奴は翼の生えた生き物を狙っているんだ! 竜機が狙われるのはそのせいだ! 今はレディ・アデレイドの船首像を狙っているんだ!」




