さよならは突然に
時は一年前に遡る。
私の転生は、何度目か分からない二十連勤の最中に突然起こった。深夜残業の帰り道で意識を失い、終電の電車が向かってくる線路へ倒れるように落ちた直後、私は走馬燈を見た。懐かしい子供の頃の夢、船乗りになって世界を旅しながら生きるという物語だ。
それは本当にただの夢物語だった。当時の私は世界の右も左も分からない一事務職で、要か不要かも分からない仕事のために毎日机にかじりついていた。その最期がこのザマである。
だが、どうやら天は人を見捨てないらしい。いや、見捨てるべきものを拾い上げ、あるべき場所に捨て直したと言ったほうが正しいのかも知れない。
目覚めると私は右眼が見えなくなっていた。見知らぬ天井を見上げ、自分が柔らかなベッドの中にいることに気付いた私は、はたして右眼がただのガラス玉になっていることを知った。
「お目覚めですか」
ベッドの傍らから聞き覚えのない声がして、私は起き上がった。そこには仮面を被った男がいた。張りのある若々しい声だったが、仮面のせいで年齢は推測できない。仮面の男は厳かな態度で私を見つめた。
「お嬢様、どうか驚かれないでください。お嬢様は流行りの病にかかり、高熱のために右眼が見えなくなってしまいました。そして、余りの悲しみ故に自らの指で目玉を抉り出してしまったのです。私はその様子を思い出すだけでも……おぇっ……おぅえっ! 失礼……本当に気持ち悪くて……うっぷ……」
「……」
私は無言で仮面の男の話を聞いていた。だが、それは仮面の男、つまりセバスチャンにとって予想しない展開だったようだった。
「お怒りになられないのですか?」
「いや。続けてくれますか?」
「くれますか?」
「……何か問題でも?」
「お嬢様は……やはり何かおかしくなってしまわれたようですね」
セバスチャンは立ち上がって自分の額と私の額に手を当て、体温を調べた。どうやら体温に問題は無かったらしく、セバスチャンは再び椅子に腰を下ろした。
「お嬢様、私の名前は? 覚えておいでですか?」
「すいません。分からないです」
「すいません?」
「いや、えっと……」
「私めの名前はセバスチャン。セバスチャン・スミスです。長耳族の鍛冶師の息子に生まれ、お嬢様が生まれる以前から長年に渡ってグランヴィル家に仕えて参りました。主治医としても、お嬢様を診てきております。その私めの! 名前を! お忘れになるとは!」
「ごめんなさい。本当に分からないんです」
「おまけに性格が病気の前とは真逆、お淑やかで丁寧、まさに愁いを帯びた一輪の花のように! あれ?」
「……」
「本当にどうなさったんですか、お嬢様」
セバスチャンはいよいよ心配になってきたようで、落ち着きがなくなってきた。
「鏡です。今のお顔をお見せいたしましょう。どうぞ」
セバスチャンから手鏡を借り、私は自分の顔を見た。そこには、右眼にガラス玉の入った、人形のように無垢な少女の顔が映っていた。絹のように艷やかな金髪に、濃紺の瞳。どこからどう見ても、仕事に追われて焦燥感に満ち、加齢臭の漂う働き盛りの日本人の顔ではなかった。
「私、外科魔法は専門外でして……元々のお顔を再現するに至らなかったのです。どうか、そのお顔で我慢していただかねばなりません」
私は顔を見て、そして指で触れて確かめてみた。間違いなく可憐な少女の顔が自分のものになっている。これはこれで良いのかも知れなかった。
「十分な出来……なのかしら?」
自然と言葉遣いも変わってきてしまう。そう、今の自分は人形のように美しい少女なのだ。
「そうですか。それは結構です。あとは精神に異常がないか試験いたしますので、私の質問にお答えください。よろしいですね?」
その後の精神鑑定は散々な結果だった。私はセバスチャンの記憶どころか、自分の家庭であるアルベマール公爵、グランヴィル家のことも一切知らなかった。何か一言でも答える度に、セバスチャンは大袈裟に驚き、私の精神異常を訴えるのだった。
「そんな馬鹿な! 魔法のことを知らない。お忘れになられている。長耳族のことは何故かご存知なのに、グランヴィル家のことを知らない。お嬢様は魔法の大家のご息女なのですよ! これでは……生活に支障を来します」
セバスチャンは項垂れてため息をついた。魔法を操る医者だという彼にとっても、私の現状は手の施しようがないほどに深刻な病状らしい。しかし、いくら魔法の大家だなんだと言われても、今の私には現代日本人としての常識しか備わっていなかった。
「僭越ながら申し上げますと、最初はお嬢様が私を辱めるために、一芝居うっているのかと疑っておりました。しかし、どうやら本当に記憶を失ってらっしゃるようですね。実に嘆かわしい事態です」
「そう言われても……メアリー? だっけ?」
「メアリーお嬢様です。メアリー・グランヴィル公女殿下。大英帝国の国王陛下に仕える由緒正しき貴族の家系にお生まれになられた。公爵令嬢であらせられるメアリーお嬢様には、帝国の未来を担う責任がございます」
そう言うと、セバスチャンは席を立った。それからすぐに一人の若人を連れて、セバスチャンは部屋へと戻ってきた。切れ長の蒼いの眼、そして長く靭やかな銀髪を後ろで束ねている、若人は見た目からして貴公子然としていた。
「ありがとう。ようやく目が覚めたと聞いたよ。本当に君のことが心配でならなかった――」
しかし、若人は私の顔を見るなり、引きつったような表情を浮かべた。得体の知れないものでも見つけたかのように。そして、若人は一歩、二歩と後退りして、セバスチャンの袖を引っ張って部屋の外へと去っていった。
「一体、どうなっているんだ? セバスチャン」
部屋の外から、二人の会話が耳に入ってきた。
「病でお顔が崩れてしまいましたので、どうにかこうにか修復したのですが……侯爵閣下のご趣味には合わなかったでしょうか……?」
「趣味も何も、丸っきり違うじゃないか」
丸っきり? 違う? それでは元の顔はどうだったというのか。
「しかも……義眼とは。どうやら、今回の話は無かったことに……」
「まっさか、婚約破棄ですかぁ?!」
無駄に大きなセバスチャンの声が部屋の中にまで響いた。
「声が大きい。公爵閣下に聞かれたら私の立場が――」
どうやら若人は貴族――しかも侯爵で、私の婚約者だったらしい。何もかもが自分の範疇の外で動いていく。自分では気に入ったこの顔だが、侯爵のお眼鏡には叶わなかったらしく、私は一方的に婚約を解消されてしまった。
「嗚呼、お労しや……私の、私の外科魔法が及ばぬが故に……折角お目覚めになられたのに、婚約破棄だなんて……」
「すまないが、命が助かっただけでも良かったと思ってくれ。治療費は私からも出させてもらおう」
「お嬢様にぃ! 金で命を買うようなぁ! 真似をさせてしまうなんてぇ!」
「ええい! セバスチャン! そうだよ婚約破棄だよ、破棄」
「あー! お認めになりましたね。侯爵閣下は実に酷い御仁だ。グランヴィル家の名を知ってのお答えであれば、この事直ちに国王陛下に上奏し、きっと抗議に掛け合わせていただきます故、どうかご覚悟願います」
「アルベマール公爵と言えども、今では没落して借金塗れの身の上ではないか! 全く……不愉快極まる。もう帰らせてもらう」
セバスチャンが啖呵を切ったものの、どうやら家格としては侯爵の家のほうが上になっているようだった。
「え? ……あ、ちょっと、待ってくださいタウンゼント侯爵閣下!」
侯爵とセバスチャンの声は、次第に小さくなっていった。二人の足音が遠ざかり、その代わりに硬貨を床にぶちまける音が盛大に響き渡った。そして、「金! 金!」というセバスチャンの絶叫だけが、私の部屋まで虚しく聞こえ続けた。