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その旗印の名は

 俺は航海士用の高級船室で、パウエルとテーブルを囲んでいた。こんな事になった背景には、船長(メアリー)の清純な精神があった。寄りにも寄ってご令嬢(・・・)の船長はパウエルを博打から引き離すように、パウエルと顔見知りである俺に依頼してきたのだった。本来の艦の規則に従えば、船長命令で博打を禁止する事など容易かったに違いない。しかし、本来であれば持つべき船長としての権威と権力を、メアリーに期待することなどできなかった。


「どうしてここに呼ばれた、分かってるのか」


 俺が聞くと、パウエルはヘラヘラと笑っているかのように舌を出した。狗頭族(コボルト)が面白がっている時はいつもこうだ。


「エド、お前だって我慢してるんだろ? 分かってるよ。あんな女にいいように使われてよぉ。海軍と言えばアルベマール公爵だなんて言って、提督だったのは百年近くも前の話だ。しかも、提督だったのはマンク家、つまり別の貴族の家と来てる。メアリー(あいつ)に船乗りを動かす才能なんてこれっぽっちも無え」


 パウエルは牙を見せながら笑った。それは威嚇にも近い表情に見えた。だが、俺はその程度の言葉で引き下がりはしなかった。


「お前が賭博狂いだってのはよく知ってる」


「そうだろうよ」


「だから、一つ賭けをしようじゃないか」


「ほう? エドの坊主も、少しは大人のやり方が分かってきたのか?」


 パウエルが舌を出した。しかし、俺は真剣だった。


「この航海で脱落者は出さない」


「正気か?」


「勿論だ。お前も含めて、誰一人欠かさずに、全員でリヴァプールに戻る。男の約束だ」


 パウエルは一瞬、目を見開いたまま沈黙した。しかし、すぐに破顔して唾を飛ばしながら大笑いした。


「坊主が粋がるねえ! エド、面白いぜ。全員でリヴァプールに戻る、か。面白い賭けだ」


 パウエルは手を打って笑い続けた。それでも、俺は真剣な態度でパウエルの顔を見据えた。そのうちにパウエルは俺と目を合わせて、急に真面目ぶって話し始めた。


「お前、そんな事言っても誰か死ぬぞ」


 パウエルが静かに言った。


「そうさせないのが俺たちの仕事だ」


「船長を見てみろ。海を知らないガキだ。二等航海士を見てみろ。ちょっと索具に躓いたら死ぬような老いぼれだ。甲板長を見てみろ。堕落した天人族(セレスティア)が百人も奴隷を管理できるか? もう少し頭を冷まして考えろ」


 俺は思わず拳をテーブルに叩きつけていた。


「それでも全員を還す。それが、俺たちの仕事だ」


「……」


 俺の紅い目から逃れるように、パウエルは視線を逸らせた。その後、パウエルは重い沈黙を破って語り始めた。


「俺の兄弟が海で死んだ事は絶対に忘れねえ。どんな重武装の艦でも、人の心が折れたら、その時点で航海はおしまいだ。愉快で楽しくやっているように偽装しなけりゃ、艦の上での欠乏と疲労には打ち勝てねえ。お前はそれだけの価値がある航海を、水夫に見せてやれるのか?」


 パウエルの兄弟は船乗りだった。兄弟の中で兄は簿記と航海術を学んでエリートの道へと進んだが、パウエルと弟は、それぞれ大工の親方と船長の下へと送り込まれた。プレスマン家には兄弟全員に学をつけてやれるだけの金が無かった。


 兄が軍艦の航海士になった一方で、パウエルは一人前の船大工になり、そして弟は商船の船乗りになった。兄弟全員がまともな食い扶持を見つけたものの、その幸運は長く続かなかった。父親のピーテルが死んで、その遺産が借金だけだったことが分かると、今度は借金返済が兄弟に重くのし掛かってきた。


 パウエルの兄は自分の学費を返済し終えた後、バミューダ諸島での海賊との戦闘で戦死した。若干二十九歳だった。


 パウエルの弟の死因は分かっていない。奴隷貿易のためリヴァプールのノーブル家が船長を務める奴隷船に乗り、しかし生きて帰って来ることは無かった。その理由は新入り水夫への行き過ぎた指導(・・)にあったと、パウエルは信じていた。彼の給与は保険から支払われたが、それは借金を返済するには少なすぎる額だった。


 兄弟の死後、パウエルは賭博に嵌っていった。それは兄弟の死だけでなく、借金というプレッシャーもあったのだろう。それらがパウエルの人生を狂わせていった。


「船長や航海士、船医には、平水夫の気持ちなんて分かりゃしねぇ。全員、学のある商人連中のお仲間だ。それに、お前がスネルグレイヴ家の者だとすれば、尚更だ。奴隷貿易で利益を上げようって腹なら、その皺寄せは平水夫に行く」


 そう言って、パウエルは牙を剥き出しにした。狗頭族(コボルト)たちが本気の時には、表情を隠さずに牙を顕わにすることは、誰でも知っていることだった。


「……俺は、まだ船長にはなれない。だが、航海士として全力を尽くすつもりだ」


「そうかい」


「お前も全力を見せろ。そうすれば、誰かが応えてくれる」


 その言葉に、パウエルの目が光った。


「お前、あの女(メアリー)に惚れてるのか?」


 パウエルの思いも寄らない言葉に、俺は動揺していた。もしかすると、そうなのかも知れない。しかし、それは明らかに不釣り合いな関係だった。相手は公爵令嬢で、俺は拘置所(ムショ)帰りの航海士に過ぎない。恐らく百人中百人が、二人の間で恋路が成立することは有り得ないと言うだろう。


「ば、馬鹿言うんじゃねぇ。そんなこと絶対に有り得ない! いいか、誰でも一目で分かる。あいつにだって金持ち貴族の許嫁が一人や二人いるだろう。俺が付け入る隙間なんてどこにも無い」


「随分と動揺してるねぇ、お前。やっぱり惚れてるじゃねぇか、あの女(メアリー)に」


「言っとけ」


「好きな女を守ってやれるなら、それで十分だろ。エド。水夫の事まで気にかけるな。帳簿の数字を大きくするのが、お前ら航海士の仕事だろ」


「パウエル……。俺は絶対に全員でリヴァプールに戻る。確かに一か八かの賭けだが、俺は全力を尽くす」


「……」


「パウエル、お前も自信を持て! お前は俺が出会った中で最高の船大工だ! お前だからこそ、全員を守ってやれる!」


 俺の言葉を最後まで聞いていたか分からないうちに、パウエルは高級船室を後にしてしまった。



***



 十月半ば、ガンビアから出港する日がやってきた。結局、メアリーがここまでの航海で仕入れたのは、イスラム教の聖職者を自称する奴隷一人だけだった。一人だけとは言え、その手足には奴隷の目印となる手枷、そして足枷がしっかりと嵌められている。甲板長のマグナスは奴隷とのコミュニケーションを試みたものの、奴隷が心を開くことはなかった。その結果が、魔法と行動を封じる手枷足枷という奴隷そのものの姿だった。


 奴隷は名無しのまま番号のみで呼ぶのが奴隷船というものだったが、それでは可哀想だというメアリーの発案によって彼には名前が付けられた。名前を聞き出すことは叶わず、マグナスは彼の事をウーヌスと名付けた。その名前は教皇庁の共通語における数字の一を意味した。


「代理人のバニスターから、シエラレオネでヘンリー・タッカーという貿易商に会うように言われているわ。彼がシエラレオネの奴隷貿易を仲介しているって」


 タッカーの名前は良い意味でも悪い意味でも有名だった。俺も彼とは仕事した事があった。彼は優雅な話しぶりの巨漢で、シエラレオネで自身に逆らえる人間は一人としていないと豪語していた。そして、まさにその通りの権力を持っていた。


 彼は現地出身の海賊総督たちを束ねており、あらゆる商品や相手(・・)を借金の形に連行する権利があった。その仕組みを知らない者にとって、タッカーは極めて優秀な仲介業者に見える。良港の無いシエラレオネ周辺において、その交易が重視されているのは、奴隷以外にも交易品が手に入るからだった。そして、その権利は先祖代々、八十年近くに渡ってタッカー家が積み上げてきた債務者の血によって成り立っていた。


 俺にはその事実をメアリーに伝える勇気は無かった。きっと彼女はそれを知れば、商売の前に何かにつけてタッカーに因縁を付けかねない。そうなってしまえば奴隷貿易自体がご破算になってしまう。それだけは避けて欲しかった。


 しかし、事態は予想外の方向に舵を切った。シエラレオネへと向かう航海も十月の下旬に入った頃、俺たちの艦は一隻の艦と出会(でくわ)した。その艦を初めて見た時、どうやら大英帝国の商船のようだと、甲板長のマグナスは報告してきた。


 マグナスの報告に対して何の疑問もなく、俺たちが商船を眺めていると、水平線の向こうから商船が徐々に近づいてきた。何故、商船が近寄ってくるのか、その理由は誰にも分からなかった。


「一体何をやっているの?」


 俺が不審に思って主甲板で望遠鏡を覗いている時、メアリーが尋ねた。その時、商船は大英帝国の国旗(ジャック)を降ろし始めた。


「まさか、国旗を下げるなんて――」


 俺が言葉を発している間に、商船の帆柱にはシミターと骸骨を象った旗――海賊旗(ジョリー・ロジャー)が掲げられた。商船の正体、それは紛うこと無く海賊船だった。

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