ありったけの夢をかき集めた結果
出航の日、清純たる快晴が海を見下ろしていた。九月頭。晩夏の折、穏やかな海面を滑るように商船が行き来する。その天候は素晴らしい航海の幕開けを予感させた。
「風向きは北西。至軽風により、艦は微速にて航行する」
二等航海士に決まった老樹人族のラスボーンが、船長室で海図の上の羅針盤を眺めながら言った。その言葉に一等航海士のエドが頷く。艦は風向き良く出航したが、その幸運が長続きするとは思えなかった。
船長室には私とセバスチャン、そして航海士二人という艦の幹部が集まっていた。ようやく、航海士や船医たちの本領発揮が期待される日が始まるのだ。
「まず、わしらはリスボンへ寄港して軍需品を購入する。そして、次はジブラルタルへ向かう。大英帝国の王立海軍に軍需品を売り渡し、アフリカで貴重とされるガラス玉、装飾品そして金を買い込む予定じゃ。そして、暗黒大陸で奴隷と糧食を購入したら、ブラジル、そしてアメリカに向かう。奴隷を売却し、ヨーロッパ向けの商品を購入したら、リヴァプールに戻ってくる」
ラスボーンは海図に描かれたリスボン、ジブラルタル、ガンビア、シエラレオネ、ブラジル、カリブ海とバミューダ諸島、そしてリヴァプールを順々に指差しながら言った。私の元いた世界と同様、1713年にユトレヒト条約によって大英帝国が横奪したジブラルタルは、この異世界でも大英帝国の領土となっている。そしてバミューダ諸島も同様だ。
ラスボーンがリスボンを指差したということは、今の戦争ではポルトガル王国が同盟国であることを意味している。つまり、現在、大英帝国はフランスとスペイン、さらにオーストリア、ロシア、スウェーデンと戦争中に違いない。神聖ローマ帝国側の同盟国としてはプロイセン王国、ハノーファー選帝侯、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯爵、ヘッセン方伯、リッペ伯が味方のはずだった。そして果たして、この歴史知識に相違はなかった。
地理と大国間の戦争が元いた世界と同様だとして、この航海で最も危険な地域はどこだろうか。バミューダ諸島はバミューダ・トライアングルとして有名な魔の海域だ。危険な岩場が多く、大型船は座礁の危険がある。
レディ・アデレイドは中型のシップだが、均衡を保つためにバラストとして砂袋を船底近くに置いている。それは人間貨物が艦の揺れで健康を損なわないための処置であった。バミューダ海域に近づく頃には人間貨物も減り、バラストも不要になってくるだろう。そうなれば艦の喫水線も上がり、バミューダ諸島で座礁する恐れは低いだろうと思われた。
それよりも問題なのは、ジブラルタルまでの航路だった。現在、大英帝国はフランスおよびスペインと戦争中であり、フランスとスペインの沿岸から大きく迂回してジブラルタルへ向かわねばならない。その途上、いつ何時、私掠船や軍艦に襲われるか分かったものではなかった。
「もし途中で襲われたらどうするの? 私たちは単独航行しているのよ」
私はエドとラスボーンに尋ねた。二人の回答は「反撃して追い払う」で一致していた。
「素晴らしいお考えです。そうなれば医者の仕事が増えるでしょうね」
セバスチャンは大きく肩を落としながら言った。そのために船医として乗せているのだから、最低限の仕事はしてもらわねば困る。
「この艦はほどほどの艦じゃ。船速は海賊どものスループ船には及ばぬが、それを補って余りある重武装がある。この艦よりも大きなシップ相手ならば、足を活かして逃げれば良い。砲撃戦では相手に隙を与えぬ二十四門の大砲がある。白兵戦にならなければ、わしらにも勝機があるじゃろう」
白兵戦になれば、五十人規模の海賊に蹂躙されることは一目瞭然の事実だった。そうならないために、砲撃戦で決着を付ける必要があった。そのためには、周囲を常に警戒して、敵の接近を許さないように艦を動かさねばならない。
リスボンで補給を済ませると、艦はいよいよジブラルタルに向かって錨を上げた。いかに海軍大国と言えども、大英帝国は常に制海権を握っているわけでは無かった。リスボンからの航路に問題が発生したのは、九月も半ばに差し掛かった頃だった。大英帝国とは異なる国旗を掲揚した三百トン級の艦が、甲板長のマグナスの望遠鏡に映り込んだ。
「艦影、二! 一隻は白百合紋章……フ、フランス海軍……!」
直ちにエドとラスボーンに報告が伝達され、甲板に緊張が走る。私たちは運悪く、スペインの商船を護衛中のフランス海軍の駆逐艦に出会してしまった。
「私掠船や海賊でないだけ、マシでしょうね。話が通じるか分かりませんが」
セバスチャンの冗談にも、誰も反応しない。フランスの駆逐艦は西の水平線上から、いよいよこちらに船首を向けて帆走してくる。三百トン級の商船には、恐らく新大陸から運んできた貨物が満載されているのだろう。こちらの艦とは距離を置いたまま、速度を下げて駆逐艦の影に隠れようとしているようだった。
「どうするの? 相手はただの駆逐艦のようだけれど? 処す? 処しちゃう?」
私は躊躇いがちにエドの意見を仰いだ。襲ってくる者は皆、敵である。答えは既に決まっていた。
(当然でしょう)
見敵必殺
見敵必殺だ。
(あの程度の艦、私の敵ではありません)
レディ・アデレイドもやる気のようだった。その時、レディ・アデレイドの軽やかな声とはまるで異なる声が頭の中に響いてきた。
(この期に及んでジブラルタル周辺で単独航行とは。自殺志願の艦のようだな)
その小さな声は、間違いなくフランスの駆逐艦の方角から聞こえてきた。どうやら、艦読みとしての能力は水平線上、半径にして四、五海里程度の距離まで使えるらしい。しかも相手の所属国が違ってもお構いなしの自動翻訳付き。何だか便利すぎやしませんか?
(しかし、我とて軍艦。貴公らを止めるのが使命なれば、ここはいざ尋常に拿捕させていただく)
「敵さん、めっちゃやる気じゃないのこれ。やっぱり処すよね? 処しちゃうよね?」
そう思った矢先に艦が大きく舵を切り、船首が駆逐艦と相対する方向を向いた。東風を受け、艦は大きく前進する。
「船首カルバリン砲、用ー意!」
マグナスが外見からは想像できないような大声を張り上げた。十二フィートの長距離砲が駆逐艦に照準を合わせて旋回する。
「っ撃てえイ!」
マグナスの合図とともに十八ポンドの鉄の砲弾が、大海原の上を大きく弧を描いて飛んでいく。その先には敵の駆逐艦がいる。
次の瞬間、駆逐艦の進路の先で盛大に水柱が吹き上がり、雨が敵の帆と甲板を打つのが見えた。全く被害を与えることは出来なかったが、良い狙いだった。
(先制攻撃か。よかろう、それでこそ敵というもの)
先程の駆逐艦の声が聞こえてくる。その声は次第に近づいてきていた。
(いざ尋常に勝負!)
(いいですか。こちらが風上です。相手とすれ違っても、白兵戦には持ち込ませません。そのまま進みなさい)
「早く隠れろ!――」
すれ違いざま、駆逐艦の甲板上からマスケット銃による斉射がレディ・アデレイドに浴びせられた。逃げ遅れた水夫が、シャツから真っ赤な血を吹き出しながら甲板に倒れる。
「急いで離れろ!」
エドの怒声が飛ぶ。砲甲板からは敵の銃眼に目掛けて主砲が発射された。しかし、狙いは僅かに外れ、敵の左舷に傷を残す程度の損傷しか与えられなかった。
「あー! 惜しいな!」
私は頭を机の下に隠しながら、思わず拳を握りしめた。その時、再びレディ・アデレイドの声が私の耳に入ってきた。
(良いのです。そのまま進みなさい)
「どういうこと?」
(敵の本当の使命は護衛です。であれば、私たちはその任務を思い出させてやればいいのです)
私たちの進行方向には、まさしく護衛対象である三百トン級のスペイン商船がいた。




