そんな条件で保険はちょっと
「何だと?!」
エドが造船事務所の机に拳を叩きつけた。それを見て、共同船主の代理人バニスターは思わず後ずさりした。長耳族の耳がピンと張って、緊張していることが伺える。
「申し上げた通りです。共同船主としてマネスティー様はより名望家の船長を求めておいでです。本日、竜機による速達郵便にて私に指示がございました。曰く、スネルグレイヴ家の者は船長として認められないと」
エドの瞳が紅い怒りに滾るのを見て、バニスターは大きく後ろに下がった。
「こちらは既に出航の準備を整えているのよ。あまりにも急な話ではなくて?」
「実に申し訳ありません。しかし、このままでは商船団に入っても、船速の関係で航行許可を承諾できないと、貿易事務所からも指示がありました」
「何ですって?」
「そんな馬鹿な……。私が確認した限りでは、書類にも不備はなかったはずです。商船団を崩さないように、レディ・アデレイドの船速は足りているはずだと。バニスター様も確認しておられるでしょう」
今度はセバスチャンも狼狽えたように表情を曇らせた。
「……。この際ですから、申し上げておきましょう。貿易事務所による条件の追加は、タウンゼンド侯爵の希望です」
バニスターは小さく咳払いしてから、真実を述べ始めた。
「侯爵はグランヴィル家の事業と取引が失敗に終わるように、後ろで手を引いておられる」
オイオイオイ。またかよブス専。私は大きく溜め息をついた。まさか、ここに来て侯爵から妨害を受けることになるとは。
「しかし、安全のために商船団に加わるという前提さえ覆せば、何とかなるやも知れません」
バニスターは一通の書類を机に置いた。そこには船舶保険の加入条項が書かれていた。
「これは……」
「見ての通り、船舶保険の加入届です。アフリカ貿易に危険はつきものですから、当然と言えるでしょう。マネスティー様がご用意してくださった船舶保険であれば、単独航行する商船でも加入できます。貿易事務所も、船舶保険に加入して出航準備のできた艦をそのままにしておくことはありえません」
「本当に?」
「ですが、それにはマネスティー様の要望を満たしていただく必要があります」
バニスターの鋭い双眸がエドへと注がれる。マネスティーの要望とは船長に関する事項だった。
「俺が船長を下りれば……艦は出航できるんだな?」
「すべてはマネスティー様のご意向でございます。フランスおよびスペインと戦争中でありますが故、信頼できる英国人に船長を任せたいとの旨」
「……」
バニスターが大きく頭を下げても、エドはしばらく沈黙していた。しかし、ようやく腹を括ったようで、私を睨みつけた。
「これからはあんただけ……あんたが船長だ。何もかも全部、お前がマネスティーに金を払って決めさせたんだな」
「一体何の事?」
「とぼけるなよ。俺を嵌めるために、こんなものまで用意したんだろ。……フン、俺にはやっぱり航海士が似合っているみたいだな」
どうやら、エドは私がマネスティーに頼んで、エドを船長から引きずり降ろすように計画したと思い込んでいるらしい。甚だしい誤解だった。
「貴方を助ける振りまでして、こんな事をする意味なんて無いわ」
「どこかにそういう物好きだっているってことだ」
エドは力無く椅子に座り込んだ。
「本音じゃないんだろ」
「違うわ!」
私は思わず椅子から立ち上がっていた。
「共同船主のマネスティーは関係無い。私自身も無関係よ。私は……見ず知らずの貴方に託したかった。貴方は、他の人に無いものがあるって、そう思ったからよ!
私はリヴァプールに初めてやってきて、この世界の右も左も分からない一人の女に過ぎないわ。だけど、貴方の眼は違った。私のように死んだ目をしていなかった。生きているって証明したいという気力があったの! だから貴方を助けたかったの!」
「……」
「貴方が何かを目指しているから……私は応えたいのよ!」
エドは沈黙したまま、私に船長のバッジを返した。
「これは……」
「悪かった。裏も無く俺を助ける奴なんて、いないと思っていた。だが、あんたはもっと大事なものがあるみたいだな……」
「エド。さっきの言葉は本当だから、信じて」
「……ありがとう」
「よろしいでしょうか?」
バニスターが保険の加入届へのサインを求めた。私は一度足りとも書いたことの無いメアリー・グランヴィルの署名を、とんでもなく汚い字で記した。バニスターは思わず苦々しい表情を浮かべたが、書類に不備が無いことを確認すると、船舶保険加入届と、船長を私に変更した船舶登録届を持って事務所を後にした。
「本当に良かったの?」
私は力無く笑みを浮かべるエドに尋ねた。その顔には寂しさが垣間見えた。
「仕方ないだろ。港が安全だからって、艦はそこにいるために造られたわけじゃない。大海原に旅立つのが目的なんだから、こんなところで足踏みしていられるわけがない」
そう言って、エドはグラスに注がれていたワインを飲み干した。
「スネルグレイヴ家なんて、マネスティーから見れば単なる疫病神だ。アフリカ貿易の旨味を奪おうとしているようにしか見えてないんだ」
「そんな事ないわ」
「あんた、この前デヴォンに戻ったそうじゃないか。ニュートン牧師から奴隷船の船長について聞いてきただろう」
「……そう、だけど」
「あいつの言う邪智暴虐な船長っていうのは、リヴァプールのノーブル家やスネルグレイヴ家の船長ことさ。俺の曾祖父さんも祖父さんも親父も、まさしくれっきとした奴隷船の船長だった。水夫の評判はまぁまぁだったが、世間の評判となったら……たかが知れている。
マネスティーも自分の稼ぎをスネルグレイヴ家に任せていた時期だってあった。だが、世論が奴隷貿易廃止に傾くと、マネスティーもスネルグレイヴ家を使おうとしなくなった。それだけの事だ。俺は嫌われて当然なんだ。だけど、俺はこんな現状を変えたいと思って――」
その刹那、セバスチャンがエドの頬にビンタを食らわせた。いきなり何やってくれてるのこいつ。
「そんな弱気なことを仰るべきではありません!」
「え?」
「貴方は、メアリーお嬢様のお眼鏡に叶った御仁です! どこぞの侯爵などとは、男が違う。その貴方が、軟弱な事を言ってはいけません!」
「いや、だからぁ! 俺は現状を変えようと……」
「お嬢様は貴方を信頼して、この仕事を任せたのです! お嬢様は没落したグランヴィル家を変えようとなさっている! その熱意に応えて、ご自身でスネルグレイヴ家の評判を変えるのが貴方様のお役目でしょう!」
「いや、え? えぇー……そう言おうと思ったのに……」
やはりセバスチャンは、何かがズレているようだった。
***
「マグナス、私のシャワー用品は足りてるかしら?」
「え? え? シャワー……デスカ?」
「そう。船上で身体を清潔に保つためには衛生用品も必要でしょう?」
私は船長になってから若干、増長していた。いつもオドオドと怯えながら仕事をしているマグナスに付きっきりになり、彼女の手伝い改めちょっかいを日課としていた。
「え? いや、あの……歯ブラシと石鹸くらいしか、衛生用品は持ち込めないデス。みんな、濡らしたタオルで身体を拭いて我慢シマス……」
「ちょっと、それはありえないでしょ。折角魔法がある世界なのに、そこは完全に寝たきり介護の延長線なの?!」
「そう言われても……経費がオーバーしてしまいマス……」
「分かっていただろうに。のう、マグナス」
私が声の主を見ると、そこには真っ白な猫を連れた見知った老樹人族がいた。
「ラスボーン」
いよいよ出航が明日へと迫ったその時、ようやく航海士のラスボーンが私たちの前に姿を現した。樹人族の老人はアルコール中毒者特有の禁断症状である指の震えを止めようと、必死で両手を押さえてそれを隠そうとしていた。
「明らかに大丈夫じゃなさそうだけど、一応聞くわ。大丈夫なの?」
「わしは仕事をしにきただけじゃ。エドの若造はどこにいる?」
「残念だけど、船長は私に変わったの。エドは一等航海士よ。貴方は二等航海士」
「何ぃ?!」
老樹人族が仰天して尻もちをつくと、白猫がすかさず私の胸元へと飛び込んできた。どうやら賢い猫のようだ。
「こんな貴族の少女が船長…?! 正気なのか。マグナス、これは本当の話か?」
「え? あ、はい……。本当デス」
「こりゃあ……わしの命運も尽きたか」
そう言いながらラスボーンが立ち上がると、白猫は再びラスボーンの足元へと戻っていった。
「それってどういう意味よ」
私の言葉に返す言葉もないまま、ラスボーンは大きく腕を振って、艦を後にした。
「あの青二才に直接話をしてくる。艦に乗る以上、同僚の顔は確認せねばのう」
そう言って、ラスボーンと白猫は再び夜の街へと消えていってしまった。同僚の顔の確認などと言って、結局酒場を巡りに行くことだけは明白のように見えた。
パウエルやマグナスと違い、今の所ラスボーンの実力は未知数だった。航海が始まれば、真の力を見ることができるだろうが、出航前にそれを確認できないのが些か不安ではあった。




