奇跡も魔法も無いんだよ
いよいよ出航を控え、船大工のパウエルだけでなく、他の者たちの仕事も忙しさを極めてきた。特に時間に追われていたのは、艦の装具および小火器の管理を行う専門職である甲板長だった。甲板長に就任した天人族マグナスはすべての装備が整っているか漏れなく確認する責任があった。
「アア、アア、アア……」
しかし、時折、下甲板の隔壁近くで狼狽えているマグナスを見る限り、仕事があまりに多忙故、上手く運んでいるかどうかは不透明だった。帆を張ったり動かしたりするための艦の索具、いわゆるロープの類いはのべ三十トンにも及ぶ。そして、船員全員に行き渡るようにマスケット銃や銃剣も予備を含めて二十以上、さらに暗黒大陸に運ぶ商品と混じらないようにそれらを管理しなくてはいけない。
奴隷船としては平均よりも重武装であるレディ・アデレイドには、二百トンという積載量に見合った装具が必要だった。一般的に百トン程度で船速と武装を両立したスループ船やブリガンティンが奴隷船貿易の主流だったが、レディ・アデレイドは中型のシップだった。従って帆柱は三本あり、二本帆柱のブリガンティンよりも一本多い。そのために索具自体も相応の量が必要になっている。
「あれも足りない……これも足りない……アアワワワ……」
焦燥感に満ちた表情で、装具のリストを確認しながらマグナスは甲板をあちらこちらへと移動していた。
「手伝うわよ」
「アア……アア……」
「だから、手伝うって」
「アア! す、スイマセン……。あまりに急いでいたものデスカラ……気付きませんデシタ」
マグナスは灰色の翼を小さく閉じて、申し訳なさそうに背中を丸めた。手に握られたリストには、大量の装具の名前と数がびっしりとメモされている。これをすべて一人で管理するというのは不可能に思えた。
本来であれば、船に必要な物資の調達は砲手や樽職人にも分担されるはずだった。武器は砲手、樽や糧食は樽職人といった形で分担される。しかし、最初から募集できなかった彼らに途中から仕事を割り当てることができず、最初から甲板長に選ばれていたマグナスがすべてをこなしていたのだった。
エドの見立ての通り、自分のキャパシティを超えた仕事の割当によって、マグナスは必要な仕事が見極められなくなっているようだった。このままでは無軌道で闇雲な行動に走るのも時間の問題だろう。それを回避するために私は彼女の助手として調達を手伝うことになった。
「調達と整理なら任せて。造船所に毎日通ってきたおかげで、どこで何を頼めば物資が調達できるか、私も分かるから」
「流石です、お嬢様。これまでの努力の積み重ねが活きてきますね。マグナス様も自分一人で仕事を抱え込まず、一人でふらついている船長代理に仕事を預けたほうがよろしいでしょう」
セバスチャンは相変わらずの減らず口を叩いているが、事実としては間違っていなかった。船大工のパウエルがあまりにも優秀な仕事ぶりを発揮したので、暇になった私は造船所を歩き回って職人の仕事を見物しているくらいしかやることがなかったのだ。
「それでは申し訳ないのデスガ、こちらのリストにあるものを調達してきてもらえマスカ?」
そう言って、マグナスは本来であれば樽職人が管理すべき樽のリストを差し出してきた。
「分かったわ。任せてちょうだい」
「ありがとうございマス。よろしくお願いシマス」
それだけ言うと、マグナスは船に積み込む雑用小型船のほうへと走っていってしまった。
「セバスチャン」
「自分で手伝うって言っておいて、私ですか」
「貴方は人間貨物が運び込まれるか、水夫が体調を崩した時しか仕事がないでしょう」
「確かにその通りです。しかし、船医は一人しかいないのですよ。少しくらい休んでいてもよいでしょう」
「そんなこと言っていたら間に合う仕事も間に合わなくなるわ。セバスチャン、樽の調達を」
「あまりにも正論すぎて反論の余地がありません」
セバスチャンは渋々という様子で、私の後を付いて樽職人の小屋へと歩いてきた。大小様々な樽が所狭しと並んでいる。樽は糧食や飲料水を保存するために欠かせない装具だった。その他、人間貨物を降ろした後、新大陸の交易品を入れるためにも必要だった。そのため、行きの航路では空っぽでも、帰りの航路では満杯になる樽も出てくる。
「こんなに沢山の樽、どうやって全部乗せるつもりでしょうか。法律では積載量の五トンにつき三人の奴隷を詰め込めるという話ですが、奴隷を書類上の最大人数、百二十人も乗せたら、樽を置いておくスペースなんてありませんよ」
セバスチャンの言葉と計算は尤もだった。沢山の空の樽をそのまま乗せておくだけのスペースは無い。かと言って、途中の航路で必要な樽を調達できるとも限らなかった。樽は樽でどうにか乗せておく必要がある。
「そうね……。でも、中身が空っぽなんだから、何か効率良く運ぶ方法はあるはずよ」
「例えば、どのように?」
「えーっと……」
私は少し悩んだ。空の樽、空の樽。
「私が元の世界にいた時、収納に困った時はどうしていたか思い出したわ」
「ほう、どのような方法で収納を?」
「入れ子方式よ」
「入れ子方式?」
セバスチャンが首を傾げた。
「私は自炊が趣味だったの。だから、たくさんの鍋をサイズに合わせて使い分けていたのよ。それを収納する時、入れ子にしていたの。大きい鍋の中に中くらいの鍋を入れて、中くらいの鍋の中に小さな鍋を入れていた。入れ子方式なら、空っぽの樽を効率良く収納できるはずよ」
「……」
「どうしたの? セバスチャン?」
「いや、何だかあまりにも普通の事を仰るので、少々拍子抜けというか。お料理が趣味とは。こういう時はお嬢様らしく、すぐに投げ出して『お前の世界の魔法でどうにかしろよ。魔法だよ魔法』といった事を仰るのではないかと思っておりました」
「言わねえよ。というか魔法、あったじゃねえか」
私は思わず素の言葉遣いに戻っていた。それを聞いた樽職人たちが何事か顔を見合わせている。
「残念ながら便利な収納魔法はございません。飲食に関わる魔法であれば精々、糧食の品質を保つための氷結魔法と、安全に火を扱うための火炎魔法くらいですかね。使うとすればですが」
そうだ。その通りだ。そう言えば氷結魔法なんて便利な魔法があったのだ、この異世界には。こちらの世界で想像される船旅の日常として、蛆の湧いた二度焼きクッキーや魚を食べなければならないなどという根性論は存在しないのだ。食にうるさい現代日本から転生してきた私にとって、これほど嬉しいことはなかった。
「セバスチャン、貴方は氷結魔法が使えるのかしら?」
「勿論ですとも。しかし、お望みでしたらご自身でもお使いになられては如何でしょうか。グランヴィル家は魔法の大家。お嬢様にも確実に魔法の才能が受け継がれているのです。今はすべてを忘れて使っておられないだけですが、きっと魔法だってすぐにコツを思い出して使えるようになるでしょう」
そうだった。自分には魔法の才能があるのかも知れないのだ。船上生活を少しでも快適に過ごすため、魔法の取り扱いについても、少しばかり修行しておくのが最善であるように思えてきた。
リストにあった樽を調達し、マグナスに引き渡した後、私とセバスチャンは造船所の空き地で魔法の練習に取り掛かることにした。この空き地であれば、破損した木材を捨てに雑用係がやってくるくらいだから、ちょっと魔法に失敗しても文句は言われないだろう。
「それでは少し準備運動をしましょう」
「分かったわ」
「ではまず長い詠唱のため、大きく息を吸ってー」
「スーッ」
「息を吸ってー」
「スーッ」
「吸ってー」
「ス……」
「吸ってー」
「ング……」
「吸ってー」
その後、セバスチャンを殴りつけたことは言うまでもないと思う。




