怪奇
人は衝撃的な出来事に相対した際、思考が停止することがあるが、今は考えることを止めてはならない。
腕に触手が巻き付くのを感じる。重く濡れたような音が腕から聞こえ、温かい痛みが広がり始める。
「いた、痛い! あうあああマルカさん痛い! マルカさん!」
自分が狂乱の縁に立っているのが分かる。次第に腕の痛みがハッキリとした輪郭を作り始める。
「こいつ、離れろ!」
ギュッと絞るような音が頭上から聞こえ、足下に短剣の刺さった黒い塊が落ち、絡まったままの腕が引っ張られ、前のめりに倒れる。
「ああくそ!」
とにかくこの気持ち悪いものを腕から離さなければ。触手を掴むとトカゲの鱗のように硬い。手に目一杯力を込めて引き剥がそうとするが駄目だった。
「くぁっ痛っ! なにが、ふっ畜生!」
「待って! そんな無理矢理引っ張らないで」
「でも、腕が痛いんですよ! 早く取らないと」
「だめ多分なにかが食い込んでる」
「なにが食い込んでるですか?!」
なおも触手と腕の隙間からダラダラと血が漏れ、肌を這って肘から滴っている。
「は、はっ! うぁこれなに、どうなってんだよ!」
「落ち着いて動かないで。はい深呼吸して」
腕を抑えられ、化け物から短剣をぬき取ると、絡み付いた触手に刃を立てた。
「とりあえず触手を切り取るから、いい絶対動かないで」
「なんでもいいからはやくやってください!」
間髪入れずに短剣をねじ込むと、一ヶ所二ヶ所と切断していく。しかし、これでは肝心の食い込んでいる部分がまだ貼り付いたままである。
「これ、これはどうするんですか。取らないんですか?」
「そうしてあげたいけど、その暇を与えてくれそうにないわね」
「ええ?!」
これは幻覚か、はたまた夢か。周囲を囲むように群生する木々から、ぞろぞろとあの目玉がぶら下がって姿を見せる。
「嘘だろ、何匹いるんですか」
「さあ、でも見たところこのまま帰してくれそうにないわね。ほら剣を握って」
転がっている剣を手に取り立ち上がる。依然腕からはダラリと重い物がぶら下がったままで、剣を構えても形にならず弱々しい。
「腕は動く?」
「い、痛いですけど、なんとか」
「ならよし。奴らそんなに強くないみたいだけど、この数はちょっと不味いわね」
「ならまたあの雷で」
「そうしたいところだけど、あれは過剰に魔力を消費するから、倒しきれなかったときのことを考えると使いたくないのよね」
と、それまでじっとこちらを見ていた目玉が数匹降りてくると、長い腕を器用に地面に突き立て、それを足のようにしてこちらに向かってくる。
「とにかく離れないで。ここで決着をつけるよ。誰に手を出したのか思い知らせてやる」
マルカさんの手袋に付けた鉱石から、ゆらりと光が立ち上がる。
「はぁ!」
掛け声と共に放たれたそれは地面に光の跡を残し、目玉の一つにぶつかり弾けた。だが、それだけだった。攻撃を受けたはずなのに、そいつは尚も平然と歩き続けている。
「そんなバカな」
「どうしたんですか、はやく倒さないと!」
「わ、分かってるわよ」
もう一度同じように魔力をぶつけ、それから立て続けに二三発放つもことごとく無惨に散っていく。マルカさんを見ると、先程まで殺意と自信溢れていた姿はなく、焦りからか額から汗が流れている。
やつらもそれに感づいたのか、ボトボトと次々木から降ってきて、ゆっくりと間合いを詰めてくる。
「このままじゃなぶり殺しされちゃいますよ!」
「魔術が効かないなら!」
遂に万策尽きたのか、短剣を片手に群集に突っ込み、捕らえようと伸ばしてきた触手に刃を振り下ろす。魔術の効かない相手にそんな物が通用するとは思えないが、なんと見事に触手を切り払い、そのまま目玉に剣を突き立てた。
「まだまだぁ!」
刀身を血で染めながら向かいくる敵を切り付けていく。それでも倒しせど倒せど暗闇から奴らはやってきて、確実にマルカさんを包囲していく。
それを黙って見ているほど俺は愚か者ではない。右腕を庇うように剣を持ち直し、マルカさんに気を取られがら空きになっている背後に、剣技とは程遠いガムシャラな一撃を浴びせる。
「ギャッ」
小さく悲鳴を上げ、叩き潰した目玉から粘り気のある液体を漏らして倒れた。
それから肩の動く限り掻き分けるように剣を振り回しながらマルカさんのもとに向かう。これならいけるかもしれない。
そう思った矢先、視界の外から伸びてきた触手に剣を掴まれた。こんな敵の真っ只中で武器を失うわけにはいかない。が、怪我も相まって、金属の塊を振り回し続けた腕はもう限界だった。
いとも容易く奪い取られると、無防備な状態で敵陣に取り残された。
「マルカさん! 武器が!」
「だめ、敵が多すぎて近づけない!」
すると、マルカさんを狙っていた何匹かがこちらに向きを変えて近づいてくる。このままではあの悪魔のような触手に絡め殺されてしまう。
そうだあの小瓶があるじゃないか。ポケットに突っ込んでいた小瓶を取り出し奴らの動向を伺う。まだだ、まだ遠すぎる。
そして、奴らの触手が掴めそうな距離まで接近を許し、振り上げた小瓶を勢いよく地面に叩きつける。
ガラスの弾けるような音と共に、中の液体が霧状になって辺り一面に広がる。
「うっ、なんだこの臭い!」
「吸わないで! 鼻と口を塞いで!」
言われた通りにするが、それでも塞ぎきれない臭いが、更には瞳を刺激し始めまともに目を開けていられなくなる。
奴らは、奴らはどうだ。瞬きの隙間に懸命に周辺を確認する。どうやら効果があるのか、音に驚いたのか、ピタッと動きを止めて触手を伸ばしてくるような素振りも見せない。
だが、いつ効果が切れるかわからない以上ここに留まっているわけにはいかない。道をあけようと恐る恐る一匹の体を押すと、地面に突いた触手がユラユラと揺れ、パタッと簡単に倒れた。
「はやくこっちに!」
無防備を晒す敵にトドメをさしながら手招きをしてくる。これは凄い。こんなことなら初めから使っておくべきだった。とりあえずマルカさんと合流するために奴らを押し倒して隙間を縫って歩く。
ここで油断したのがいけなかった。冷静に判断出来たなら、遠くにいる味方と合流するより近くにある剣を取り返し安全を確保するべきだったのだ。
なのに悠長に敵を押し倒していたものだから、目と鼻の先まで近づいたその時、足にあの嫌な重さが絡み付いてきた。
見ないでも分かる、だが振り返らずにはいられない。そこには既に正気を取り戻し、ギラギラと目玉を輝かせ、不気味に揺らいでいる奴らがいた。
叫ぶ暇もなかった。ただ気がついた時には四方八方から伸びる触手に体を取られ、なす術も無く地面に押し付けられていた。
ギリギリと体が締め付けられ、視界いっぱいを奴らが埋め尽くす。それだけではない。まるでヤスリか何かで全身を削られるような痛みが走り、叫びたいのに首を絞められ呼吸すら出来ない。
溺れながら意識を痛みに支配されそうになる。ダメだ、しっかりしろ。まだ何か手が、ある、はず。
指先に硬いものが当たる。
石、あの電気の石だ。手繰り寄せ手のひらで包む。もう擦るような余裕は無いが、一か八か揉むようにして握り続ける。
別の痛みが腕を掛け上る。次の瞬間、視界を覆っていた奴らが弾けた。




