第9眼 この熱の名を教えて下さい。 の2つ目
「アーサー様!」
「姫様!」
ロウとムース。二人の叫ぶような声に、遠くに見えた兵達が少しだけ警戒から身じろぎをした。ただ、近づいてくるような事はない。
二人は声を抑えながら、なお続けた。
「姫様、おやめ下さい。お願いいたします。」
「アーサー様、それは、駄目です。王女でも、流石にそれは。」
「ごめんなさい。…このまま進めば、もう決して戻れません。…アイ様は、酷く聡明で、私達とは違う場所から物を見ているような、…とても面白い方だと、この短い時間だけでも感じました。ですので、どうか。」
「キーロちゃん。…私がここから逃げたら、どうなるかわかる?」
「恐らく国から追われる身になるかと…でも、勇者様に縋らなければ最早立ち行かぬ国に、どれだけ力が残っておりましょう。きっと、この国は近く、一度滅亡し、飲み込まれ、もしかしたら名を変えるかもしれません。一般兵卒ならまだしも、きっと、偉い役職の方々は皆、挿げ替えられる事でしょう。であればアイ様が逃げ切るのは、酷く簡単です。」
二人はなんとか止めようと静かに声をかけたり、手を引いたりしている。しかしキーロは口を止めない。
「そうかもしれないけど、それは私の話で、私が聞いたのは、私が逃げたらキーロちゃんがどうなるのかなんだよね。どう?そこんとこ。」
「…きっと、とっても怒られますね。」
少し驚いて、答えに困って目を逸らし、少しだけ泣きそうな悲しい顔で目を見て来たかと思えば、でも直ぐに照れたように笑って答えた。
次々出てくる表情の移り変わりは手品を見ているようで、片手で数えられる程度の数だが、きっとこういう光景を百面相と呼ぶのだろうと、そんな事を考えていた。
怒られる。聞いた私はもとより、言った彼女自身が、そんな言葉で表せるような事では済むはずがないとわかっているようだ。
国を救う為に連れてきた勇者を故意に逃がす。比肩する罪があるのか等想像がつかないが、簡単に許される物ではないだろう。
ともすれば敵国に『挿げ替えられる』よりも、自国で『とっても怒られる』ほうが恐ろしい思いをするかもしれない。でもそれを上手に、もしくは心配させない為に、言葉にする事ができないのだ。
「とっても怒られたあげく、偉いキーロちゃんは挿げ替えられちゃうわけだ。良いの?それで。私を連れて行かなくて。怖いでしょう?」
「私達王族が命を奪われる事はきっとありませんし、そう思えば、それ程怖いことなど…。それにこの先には、ミドリーのように、アイ様を不快にさせるモノばかりしかございません。私もその一つです。」
「そんな事ないよ」
「いえ、私もきっと、アイ様が…来られた勇者様が、伝説に語り継がれるような、勇ましい男性の方でしたら、ただただ頼ってしまっておりました。…いいえ、違います。そうではないかもしれないですね。ただ、先程自ら話していて、これがなんと言う感情か思い出したんです。ええ、やっぱり怖いです。アイ様の力に頼ろうとしていた事も、アイ様が本当にどこかへ行ってしまっても…私には怖い事ばかりしかありません。あの子が変わってしまった時と同じで、私は、今怖くて怖くてたまらなくて、その怖さから必死に逃げようとしているだけだったのです。」
「別に、逃げるのは悪い事じゃないと思うけど。」
「いいえ、いいえ。手を差し伸べてくれる人を無理やり、自分の居る墓穴に引きずりこんで、踏み台にしなければ墓穴から出られない。そんなの、もう死霊と同じではありませんか。人外に落ちてまで、私は、生きたくはありません。生きながらに自ら人としての心を捨てる事をこそ、私は一番恐ろしいと、そう思います。」
…ハハッ!実は、今この中に一人、人外がいます!
「それに、アイ様。アイ様にも、ご家族がいらっしゃるのでしょう?愛しいと思える、妹君も。」
「アレ!?妹の話はしたっけ!?」
「ふふっ。先程仰られてたではないですか。最愛の妹の名に誓うと。」
どうしよう、言葉にせずとも私の妹愛がオーラとなって溢れ出しちゃってるのかしら!?バレたのは現実の妹か女神の妹か…と思ったら、オーラではなくちゃんと言葉になって溢れ出ちゃってたらしい。…テンションに任せて出てきたのかしら?記憶にございません。
「…召喚の儀に応えて頂いた後でこのような事を言われても、もしかしたらご迷惑かもしれませんが…。帰りを待つご家族が居られる方を、そしてそれが、その名を誇りにできる程想える…それ程大切な家族をお持ちのアイ様を、関係ないこの国の戦いに巻き込むのか、と思うと。私にはそれが、間違い以外のなんでもないと、そう思えてならないのです。」
大切な家族。そう言葉にするキーロの顔は何を思っていただろう。
彼女は愛する妹か、もう愛せなくなった妹か、もしかしたらその両方を思い浮かべたのだろう。悲しそうにすら見える儚い微笑みは、見ている自分こそが悲しみに心を潰してしまいそうだと錯覚するほど、苦々しい物だ。
キーロちゃんの言う通り。巻き込まれた事には怒りしかない。でも、全てが手遅れだ。もう私は、異世界の土を踏んでしまったのだ。
…召喚されてから、ずっと屋内だった。土は、踏んでない。
異世界の地に降り立ってしまったのだ。
そこに、たとえ遅ればせながらも思い当たった彼女の心のありようを思った時、胸が温かくなる。すんなりと言葉にならないそれは、なんだろう。
「それは当然の権利だ、だったら召喚するな。もっと早く気付けよ。」と心のどこかでは聞こえるが、生まれた気持ちは決してそれだけではない。
一度疑問もなく過ぎてしまった事実を…例えば二段飛ばしで進んでいた為気がつかなかった階段の欠陥を、まさか飛び越えた後から気がつくなんて普通はできない。
それはきっと、誰かが誰かを思う時に出る、最も優しい感情。
多分、愛。博愛とか、慈愛とか、友愛とか、自分以外の人間に向ける愛情。私の記憶にない感情。
彼女は、家族以外の人間ですら愛せてしまう。他人の心を確かに思える、優しい子だ。
そう確信した。
「キーロちゃん、私の妹にならないか!?」
私の溢れ出る妹愛が、留まる所を知らなかった。
あ、無料でついてくるミドリーちゃんは要らないです。