女ライターと彼女の執事
「少し休憩されては?」
そう言って机の上に差し出されるのは、紅茶の入ったティーカップ。コーヒーと兼用の、ちょっと厚手で大きめのやつ。
ソーサーの上には、ティースプーンと細いスティックシュガーが2本。
端にスライスしたレモンが添えられている。
「ちょっと。私はコーヒーが飲みたいんだけど」
言いながらも私の手は、スティックシュガーを2本とも破り、カップに流し込んでいる。
適当にティースプーンを突っ込んでかき混ぜる。
だいたい砂糖が溶けたところでレモンを入れ、すぐに取り出す。
少し口をつけると、香りと甘みが口の中に広がった。
心地よい熱が喉を通って腹に下りていく。
思わず『ほぅ……』と息がもれた。
レモンの風味のおかげか、少し気分がスッキリした気がする。
私はフリーのライターをしている。仕事場は自宅。
今はちょうど仕事が一区切りついて、一息入れようかと思っていたところ。
先ほど私に紅茶を差し出してきたのは、うちのアンドロイド。
やせ型の、男性型。
身長は180センチほど。
友人に言わせれば『サッカー選手にいそう』な感じらしい。
一緒に暮らしている私からすると、サッカー選手にしては少々、頼りないのだけれど。
まあ、身体つきは確かに、スポーツ選手っぽいかもしれない。
だけど、なんか違う。
たぶん表情のせいだろう。ちょっと頼りない感じなのだ。
名前はない。
……というか、私がつけていない。
所詮はただのロボット。人間じゃない。
ただちょっと、人間に近い見た目をしているだけ。
名前など必要ない。
呼ぶ必要があるときは、『ねえ』とか『ちょっと』とか言えばすぐにやってくる。
だから、名前なんて必要ないのだ。
一応、心の中では『執事』と呼んでいる。
*〜*〜*
『執事』がうちにやって来たのは、ちょうど1年ほど前。
秋の終わり、もうすぐ冬になろうかという頃だった。
その頃の私はとにかく仕事が忙しくて、部屋の中がめちゃくちゃだった。
適当に放り投げた服や洗濯物が無秩序に山を作り、資料用の本や雑誌が適当に積み上げられて、あちこちで崩壊していた。
まさに『足の踏み場もない』という状態。
かろうじて、仕事用のテーブルとその周辺、寝る所だけはどうにかスペースがある、という有様だった。
一応、ゴミとそれ以外は最低限、分かれていたが……。
まあ、なんと言うかそんな感じ。
キッチンのシンク? ……そんなものは知りませんな。
……言い訳をするなら、本当に仕事が忙しかったのだ。
当時はフリーのライターになって2年目。
なんとか自営業を軌道に乗せ、受注に困らなくなったところまでは良かった。
しかし、ちょっと自分の限界を見誤ったのだ。
少々、焦っていたのもある。
『とにかくどんどん仕事をこなさないと。
今は多少お金があるけど、受注し続けないと食っていけない』
……というのは、自営業あるあるな悩みだと思う。
許容量ギリギリまで仕事を受注してしまった私は、連日締め切りに追われていた。
朝から晩まで、ひたすら仕事をするしかなかったのだ。
当然、掃除するヒマなどない。
ふと冷静になって周りを見回すと、私の部屋はすっかり『汚部屋』になっていた。
ある日とうとう、『その日着る下着が見つからない』という事態に見舞われ、さすがの私も限界だと判断するしかなかった。
『部屋がやばい。助けて』
仕方なく私は、同業者の友人に相談のメッセージを送った。
添付した写真にドン引きした後で、彼女は『吉田製作所』という会社のホームページを紹介してくれた。
なんでも、家庭用アンドロイドを製造販売している会社らしい。
ホームページを開き、適当にスクロールしたところで、一枚の写真に目が釘付けになった。
明るい窓辺に置かれたテーブル。
椅子に座り、優雅に本を読む女性モデル。
傍には、ティーポットから紅茶を注ぐ、美形の執事。
『すべての時間が、貴女のものに。
家事、雑用は、当社のアンドロイドにお任せください——』
数分後、私の目に映っていたのは『ご注文を受け付けました』というメッセージだった。
『金ならあるッ!そこの執事、さっさとうちに来い!』とばかりに、思わず発注ボタンを押していたのだ。ほとんど無意識だった。
……当時、私は徹夜明けで、ちょっとテンションがやばいことになっていたのだ——。
最速の『お急ぎ便』で発注し、納品されたのは1ヶ月後だった。
納品されたというか、歩いてうちにやってきたのだけど。
相変わらず仕事が修羅場だった私は、玄関先に立つ男が注文したアンドロイドだと分かると、即座に部屋に上がらせた。
『任せた。どうにかして。
判断できないものは触るな。
お金が必要なら声かけて』
それだけ告げて、私は速攻で仕事を再開した。
締め切りが刻一刻と迫っていて、とにかく時間が惜しかったのだ。
数時間後、なんとか原稿を書き上げた私が目を上げると、洗濯物の山もゴミ袋も綺麗さっぱり消えていた。
キッチンからは、なんだかいい匂いが漂ってきて——。
……とまあ、それ以来、我が家の家事はすべて『執事』がやってくれている、という訳である。
*〜*〜*
「……あれ?」
なんだか懐かしい匂いを感じたような気がして、私は目を覚ました。
椅子に座ったまま、上体を起こす。
どうやら、机に突っ伏して寝ていたらしい。
レモンティーを飲んだ後、原稿の続きを書いて、クライアントにメールで送信したところまでは覚えている。
おそらく原稿を仕上げたことに安心して、そのまま寝てしまったのだろう。
幸い、今日はメイクをしていなかった。
締め切り前で、丸一日引きこもって原稿を書くのが確定していたから、朝からノーメイクだったのだ。
だから寝てしまっても問題ない。
いや、女子的には、問題ないと言い切っていいのか微妙なところだが……。
うん、考えないことにしよう。
それにしても、懐かしい夢を見た。
『執事』がうちに来てから、もう1年経つのか。
いやー、改めて思い返すと、当時の部屋は本当にヒドかった……。
うん。彼を買ったのは正解だった。間違いない。
窓の方を見ると、カーテンが閉まっている。
パソコンの時計を確認すると、時刻は午後9時を回っていた。
……お腹すいた。何か食べよう。
そう思い、椅子から立ち上がりかけたところで、肩から何かがずり落ちる。
見ると、普段はひざ掛けに使っている、小さい毛布だった。
どうやら、寝ている間に『執事』が毛布をかけていたらしい。
……よく気がつくやつだ。ロボットのくせに。
私が起きたことに気づいたのか、キッチンのドアが開いて『執事』が顔を出してくる。
「よく眠れましたか? お仕事は終わったようなので、起こさない方がいいと判断したのですが……」
「ありがと。今回はそれでOK。おかげでよく眠れた」
そう返事をしたところで、いい匂いがすることに気がついた。
どうやら、キッチンで何か作っていたらしい。
「……お腹すいた」
私がそう言うと、彼は苦笑しながら「準備できてますよ。今お持ちしますね」と言ってキッチンに戻って行った。
……くそう。なんか負けた気がする。
*〜*〜*
キッチンから戻って来た『執事』が出してきたのは、オニオンスープだった。
コンソメの香りに混じって、バターの匂いがただよってくる。
スープの横には、薄切りにして焼いたフランスパンが添えられている。
「……いただきます」
スプーンを手に取って、早速スープを口に運ぶ。
コンソメの染みたタマネギに、バターがよく馴染んでいる。
思わず『ほぅ……』と息がもれた。
今度はフランスパンを手に取り、スープに浸して食べてみる。
スープが染みて柔らかくなった部分と、焼いてカリッとなった部分。
それぞれの食感の違いを楽しめるのが、この食べ方のいいところだ。
……くっそ。お前、今、夜の9時だぞ。
よくもお前、こんな夜中にこんなカロリーありそうなもんを。
いや、食べるよ。もちろん全部食べるけども!
そうやって、内心葛藤しながら食べていると。
ふと、心の隅に引っかかるものがあった。
(あれ? なんか前にも、こんなことがあったような?)
そういえば、この匂い。
なんか以前にもどこかで、嗅いだことがあったような。
確か、そう、1年くらい前に——。
「あっ!」
「どうかしましたか?」
思わず声を上げると、『執事』が私の顔をのぞき込んできた。
「これ!このスープ!
あんたが一番最初に作ったやつじゃない!」
「ええ、そうですよ。
『また作って』と言われましたから」
何でもないことのようにそう言って、彼は微笑む。
……そうだ。思い出した。
『執事』がうちにやって来た、最初の日。
原稿を書き上げた私に、一番最初に彼が出した料理が、このオニオンスープだった。
確かあの日も、このぐらいの時間に食事をしたのだ。
あのとき、私は何と言った?
確か、そう……
『これ、また作ってよ。おいしいから。
あーでも、夕飯にするのはちょっと微妙かも。
夜食にちょうどいいくらいかな?
それに、ずっと食べてると飽きるか。
だから、そう、1年後くらい。
1年たって、またこのぐらいの時間に夜食を作ることがあったら、また作ってよ』
そう、私は言ったのだ。
どうやら、彼は覚えていたらしい。
言った本人である私は、すっかり忘れていたのに——。
なぜだろう。なんだかちょっと、食べるのがもったいないような気がしてきた。
いや、もちろん全部食べるけども。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか。
スープを作った張本人は、相変わらず私の顔を見ながら、静かに微笑んでいた。
……くそう。
*〜*〜*
うちには1体のアンドロイドがいる。
やせ型の、男性型。
身長は180センチほど。
友人に言わせれば『サッカー選手にいそう』な感じらしい。
名前はない。
……というか、私がつけていない。
呼ぶ必要があるときは、『ねえ』とか『ちょっと』とか言えばすぐにやってくる。
だから、名前なんて必要ない。
一応、心の中では『執事』と呼んでいる。
彼はアンドロイド、人間じゃない。
だけど、まあ。その、なんだ。
ただのロボットよりは、ちょっとだけ、気が利いている。
だから、その、なんというか。
名前ぐらい付けてやるのも、悪くないかもしれない——。
ふと降りてきたので書いてみました。楽しんでいただけたなら幸いです。